風月庵だより

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暑中お見舞い申し上げます

2008-07-26 20:05:31 | Weblog
7月26日(土)晴れ【暑中お見舞い申し上げます】(ジュリー)

この3日間は、朝から冷房を入れなくてはならないほどの暑さです。やはり立秋前の土用は間違いなく暑中ですね。今日も法事の行き帰り、頭の上に冷やしたタオルを乗せて運転していました。発砲スチロールの箱に保冷を入れて、その中にタオルを二本入れておきます。それで交互に頭を冷やしています。

すれ違う車の人たちは、変なお坊さんが運転している、まさか銭湯帰りでは?などと思われてはいませんでしょうね。暑くて冷やしているのですぞ。車のなかは45度、今日は運転中やたらに眠くて困りました。

さて、老犬ジュリーも倒れてから3ヶ月余、なんとかまだ生きています。フレンドという美容院の、優しい二人の美容師さんの御陰でしょう。それこそ毎日下の世話から食事の世話から、体もきれいに拭いて貰ったり、歩けなくなって寝たきりの体を、毎日洗濯して貰ったタオルの上に気持ちよさそうに横たえています。犬にも生きる張り合いがあるのではないでしょうか。

時折、その頭のところでジュリーが死んだら、どうしたらよいかしらね、などと話をするのは私です。ジュリーには人間語がわかっているかもしれませんのに。こちらが犬語を知らないだけかもしれません。ジュリーの御陰で毎日美容院に遊びにも行かせてもらえます。そうでなければ、お坊さんには無縁の美容院でした。

またジュリーの御陰で、時折挨拶だけしていた近所の人と話すきっかけもできました。そして、なんとその人は同じ高校の出身でした。私の方が一年先輩です。つまり2年間は同じ校舎で学んだ同窓生なのです。高校時代に交流は全くなかったのに、還暦を過ぎてから高校時代の共通の話ができるとは、面白いですね。

ジュリーも頑張っています。頑張りましょう、お互いに。来週は能登の總持寺に調査のために出かけます。暑さに負けず頑張ってきます。と、このように「頑張る」、「頑張る」と言わないとデレデレとなってしまいそうなこの頃ですね。

「言うまいと思えど今日の暑さかな」誰の句でしょうか。皆さんご機嫌よう。

少女は何故

2008-07-21 06:15:06 | Weblog
7月21日(月)曇り【少女は何故】
一昨日の19日の未明におきた、15歳の少女による父親刺殺事件。「勉強しろ」に反発してか、父親が家族を殺す夢を見て殺してしまったとか、まだその理由はわからないようだが、理由がなんであれ娘が父親を殺すなどとありえないことである。何故このような事件が起きてしまうのか。

今までにも子の親殺しは度々日本で起きているが、このような事件を起こした子供たちの生活を洗い出して、なんとかこのような子供を作らないように社会の問題として解決の道を探し出せないだろうか。なにか共通項があるのではなかろうか。

この事件が起きたのと同じ日、私は両親を失った二人の少年たちの家に法事で出かけた。彼等の母親は15年前に、父親は2年前に病気で亡くなってしまった。その時まだ中学3年と高校3年だった。彼等にとって親を殺すなどということは、全く理解できないことだろう。「お母さんがいてくれたらな」「お父さんがいてくれたらな」と何度も心に思ったことだろうし、これからも思うことだろう。

少女は何故、育ててくれた父親を殺さなくてはならなかったのか、殺すなどという行為をしてしまうことができたのか、15年の心の軌跡を追い、社会の警鐘とすべきことを探し出さないと、第2,第3、第4の事件が跡を絶たないだろう。前日に親子で観たというビデオは何であったか、残虐な内容ではなかったか、このようなことも公表したほうがよいだろう。

これから生涯重い罪を背負って生きていかなくてはならない少女の人生があまりに哀れである。こんなことをしなければ楽しいときもあったであろうに。

幼いときから手を合わせつつ育てることを見直して欲しい。宗教色があるから給食のとき合掌はさせないなどという愚かな教育も見直して欲しい。子供に優しい芽を植えていくような教育であってほしい。社会が直さなくてはならないことが幾つもあるはずである。

この父親の冥福を祈ることは簡単ではないだろう。

退歩を学すべし

2008-07-18 17:43:00 | Weblog
7月18日(金)暑い【退歩を学すべし】(亀のような雲)

東京方面のお盆も終わりました。かなり疲れました。お経は疲れないのですが、サウナ状態の車に疲れてしまいます。車中の温度が50度から60度になっているのです。助手席の窓を開けて、運転席側の扉をパタパタはしますが、それでもそれほどにはさがりません。発泡スチロールのボックスに保冷剤をいれて、タオルを冷やしておきます。運転するときはそれを頭に載せて、頭から吹き出るほどの熱を冷ましながら運転しました。地球温暖化で暑さが年々増すような気がします。八月のお盆はどうなりますか。

さて、サミットも終わりました。フランスのサルコジさんには、福田さんは完全に「ナメラレタ」という感じを受けてしまいました。サルコジさんの後にはフランスの食糧自給率130%という自信があります。日本がいくらおいしいご馳走をだしても、フランス料理には及ばないよ、という考えもあるでしょうし、どうせ自給率25%しかない国のご馳走でしょ、と見下しているのかもしれません。またフランスとしては、日本よりも中国と仲良くしたいのが本音でしょう。

ということで、福田さんやスタッフのご苦労をよそにしまして、2050年後、世界がどう変わるか分からないのに、そんな将来を目標にしてのお約束のサミットは終わったようです。地球温暖化対策は地球にとって危急存亡の問題なのに、あまり成果はあげられなかっとようですね。やはり目先の問題にふりまわされてしまうのでしょう。まあ、そのうちに呑気にはしていられない状況になるでしょうが、そのときでは遅いです。

さて、本題の「退歩を学すべし」ですが、これは道元禅師の「普勧坐禅儀」にあります。所以須休尋言逐後之解行、須学回向返照之退歩、身心自然脱落、本来面目現前
ゆえに須く言を尋ね語を逐うの解行を休すべし。須く回向返照の退歩を学すべし。
〈試訳〉
ゆえに言葉や書かれた文字を追いかけて、分別知識で理解するようなことは休めるべきである。内なる自己の心に回らし返して、本来の自己の根本に戻ることを学ぶべきである。

私の訳はあまり良い訳とは言えないので、内山興正老師の訳をあげてみる。「ゆえに言葉の先っぽを追い、これでわかろうとすることをやめて、とにかく自己の生命の実物にかえるべきである」と訳されている。

秦慧玉禅師は「退歩」の訳として「回向返照は外に向けた光を、一歩退いて内に向かって行うから退歩という。(中略)要は外境をおわず、端坐の家に帰る。この退歩の道を学ぶことが最も肝要のところである」とこのように退歩がキーワードとして受け取ることができよう。

というようなことで、道元禅師のお使いになる退歩は、単に科学の進歩などの反対語としての退歩ではないが、単に後退を意味する退歩を、世界は学ぶ時が来ているということを言いたいのである。後進国といわれる国々はまだ進歩が人々の生活向上のために必要かもしれないが、先進国といわれる国々はこれ以上の進歩はやめて、ある程度の生活は守り、不必要な進歩は押さえるという退歩の学を学ぶべきであろう。資源も枯渇するときが来る、大気汚染もひどい、地球温暖化をストップしなくては、地球は人類が住めない状態になる。

サミットで提唱すべきは「退歩学」だったと、片隅で思っている。道元禅師が説かれる真理を学ぶ上での退歩の意味も、地球人類の滅亡を救うという観点からも、あながちずれている意味ではないようだ。

日本は日本自身の状況を回向返照し、日本列島と島々が頂いている天地の恵を回向返照し、それを見据えることから、何を為さねばならないかが見えてくるだろう。そして必要以上の進歩を望まず、退く勇気を学ぶことから国としての真の安心がうまれてくるのではなかろうか。諸国も同様である。サルコジ君にバカにされることもない。揺るぎない自信を持つべきだ。緊急事態は食料自給率をあげることであろう。

尼僧差別について考える

2008-07-09 15:43:48 | Weblog
7月8日(火)曇り【尼僧差別について考える】

先日「ジェンダーイコールな仏教をめざして」という公開シンポジウムが、本願寺築地別院で開かれ参加する機会を得た。一般社会でも女性に対しての差別は根強くあるが、仏教界でも各宗派にそれぞれある。その差別に対して、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、天台宗、曹洞宗の各尼僧侶がパネラーとして、それぞれの現状を発表された。

各宗派それぞれの事情があるので、並べてその差別の状況を同じようには論じられないが、厳然としてある差別に対して改めて考える機会となったのではないだろうか。

女性蔑視の状況は今に始まったことではないし、尼僧侶に対しての差別も長い歴史があることだ。このブログでも「苦難の尼僧史」として四回にわたって書いたことがある。日本に仏教が伝来して以来続いてきたことではある。社会は力関係で成り立っていて、男性優位の状況は長く続いているが、いずれにしても性別による差別は愚かな現象であることは論じるまでもないだろう。しかし、それが厳然としてあることも事実である。

私も出家して始めて差別を意識したといえる。出家するまではのびのびと生きていた、といってもよいほどである。女性はこれほどに下に見られるのか、おかしい、と首を傾げたことは、何回もある。

経典の中にも女性蔑視は見られる。『法華経』は女性の成仏を説いているので蔑視していないという意見もあるが果たして如何であろうか。女人成仏は説いているがあくまでも変成男子説である。龍女が仏に三千大千世界にも値するような宝珠を差し上げたので、そのご褒美として男子に身を変えて頂き成仏した、というお話である。『法華経』「提婆達多品」に書かれている。果たしてここには女性に対して公平な成仏が説かれていると読むことができるだろうか。

女性に対して、釈尊が公平に認めていらっしゃることが書かれた経典は『南伝大蔵経』のなかの律蔵巻四の中の「第十比丘尼けん(牛偏+建)度」には見受けられる。義母の摩訶波闍波提まかはじゃはだいが出家をのぞまれるのだが釈尊はお許しにならない。それを阿難尊者が釈尊の許可を取り付けて下さる会話にそれが表されている。

「女人若し如来所説の法と律とに於いて家を出でて出家せば預流果、一来果、不還果、阿羅漢果を現証するを得べきや」という質問に対して「阿難よ、若し如来所説の法と律とに於いて家を出てて出家せば預流果、一来果、不還果、阿羅漢果を現証するを得べけん」と、このように男女の差はないと答えていらっしゃる。ただこの後、比丘尼は比丘に従うことの数々が説かれることになるので、その解釈は一慨に差別とは言えないまでも諸手をあげて、「ほらね」と喜べないところがある。

ただ忘れてはならないことは、経典作者はおそらく全て男性であるだろう。この点を見逃してはならない。男性にとって都合のよいように書かれている事も多々あるだろう。

そしてまた忘れてはならないことは、全ての男性は女性から生まれているということである。本来蔑視などはできないはずなのである。女性差別の問題の根本は実は男性にあるといえよう。男性の問題なのである。つまり男性が女性差別思想を持っているとしたら、その点は未熟といってよいだろう。私も未熟ではあるが、女性差別思想はない。男性の人格全てを未熟と言っているのではないので誤解しないようにしてもらいたい。

曹洞宗に関していえば、先人の尼師僧の努力のお蔭で現在制度上は尼僧も男僧も差別はないことになっている。いまだお茶くみは尼僧と考えているような男僧さんがいるとしたら、それは人間として育っていない人とさえいってよいだろう。私自身は一役としてのお茶くみを決して低く見ているわけではないが。

このようなシンポジウムの難しさは、立場の違う人たちの問題が個々に違うので、視点の違いを明確に把握しないと、共通項である「女性」というだけでは進めないように思う。寺族と出家者である尼僧とは全く立場が違うのであるし、個々に考えなくてはならないだろう。尼僧のなかでも剃髪している尼僧と有髮の尼僧と同じには論じられないだろう。違いをはっきりとして個々の問題を明確にしていくことが大事なことであろう。

そして女性差別を唱えるだけではなく、それぞれ揺るぎない学びが大事なので、お互いに信仰を深め合うような集まりが大事ではないかと考えている。男僧よりも学びが足りないのであれば教えて頂くし、とにかく差別されてもはね返すだけの力が必要だろう。また差別に対して、折々に話し合って差別思想を払拭するように男性を導く必要もあるだろう。差別するような男性はまだまだ未熟なのだから。
 
ただ制度としての差別があるならば、それは声を大にして制度を変革する必要もあるだろう。有り難いことに曹洞宗には尼僧と男僧に関してはそれはない。

問題とは違うが、現在曹洞宗の尼僧にとって一番の問題は、尼僧寺の跡継ぎをどんどん男僧にしてしまっていることではなかろうか。それを実は一番危惧している。これから出家したい女性がでてきても寺が無くてはますます男僧の下で働くだけになってしまうだろう。尼僧さんたちが、真面目に、一生懸命つとめて立派にしたお寺をどうしてどんどん男僧にあけ渡してしまうのであろうか。尼僧志望者がいないからというが、この問題こそ、尼僧たちが真剣に取り組まなくてはならない問題ではないかとと、私は思っている。

私自身は差別する人が周りにいないという環境にあるのと、私自身は女性ではあるが、私が私自身を女性であることに差別しないで生きているので、その視点からの意見にすぎない。

区別はあるが、差別は、あってはならないことである。当たり前のことである。