風月庵だより

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ご苦労様 銀杏の木

2019-03-30 10:31:45 | Weblog

3月29日(土)曇り寒い【ご苦労様 銀杏の木】

境内の銀杏の木を伐らせてもらいました。上の部分はかなり傷みがひどく、幹から枝が剥離しているような感じで、昨年並みの台風に襲われたら、おそらく飛ばされてしまうだろうという懸念がありました。

櫻の木は、昨年かなり枝が飛びまして、あやうく隣家の屋根をこわしそうになりましたので、昨年から、銀杏の木に伐らせてもらうことを、お願いしてきました。できれば新しい葉が出てこなければ有難いと思っていました。植木屋さんのご都合がついたので、新しい葉が出てこないうちに、上の部分だけ伐らせてもらいました。伐る前には、お酒をあげたり、きちんとご挨拶をして、伐らせてもらいました。

このお寺を落雷から守ってきてくれた銀杏です。やはり焦げたような部分がありましたので、おそらく落雷を受けてくれたのではないかと、植木屋さんの言葉です。また、かなり腐っていたようです。

根から伐ることは、今回はしませんで、なんとか半分残ってもらいました。落雷除けにはならないでしょうが、鳥たちの止まり木として、しばらく頑張ってくれるのではないでしょうか。

人間の縁は、簡単には切れませんが、自由に飛び立ってもらうほうが良い場合もあるでしょう。お互いのために。

       

#銀杏の木を伐る

 

 


老老介護記 レビー小体型認知症

2019-03-22 20:52:42 | Weblog

3月22日(金)晴れ【老老介護記 レビー小体型認知症】

昨日のお中日は、多くの方々が、お参りに見えて、お墓は花でいっぱいになりました。
今日は、あまり来客はなさそうですから、昨年分筆した境内に関しての書類を、市役所に提出に行ってきました。住職というお役は、実に事務的な仕事が多く、法務局に出向くことも多いです。住職になるまでは、分筆やら地目やらの言葉さえ知らずに過ごしてきましたので、まことに「住職という職業」、と自覚いたします。

さて、夕方は、母のところに面会に行ってきました。2日前はお寺に帰っていましたが、お中日は忙しいですから、また施設にお世話になっています。

母の幻聴は、時々前からもありました。よく聞こえる歌の一つは「大黒様は誰だろう/国をつくりて/世の人を/助けたまいし/神様よ」という歌詞です。それから「青葉茂れるさくらいの……」という楠木正成の歌等等ですが、いつも聞こえるので、この音楽をとめてもらえないか、と言ってはいました。
この現象について、歳をとるとそんなものか、と私は安直に思っていました。そのうち、夜中に5人位の男たちが来て、タバコを吸っていくので困る、と言うようなことを、言うようになりました。あきらかな幻覚なので、困ったと思いましたが、どうしてよいかわからないので、観音様が描かれた色紙をベッドの近くに置いたり、お守りのようなものを置いたりしてみました。

そんなある日、施設に会いに行きましたら、「天皇陛下と皇后陛下がお見えになったのだよ」と母は、とても興奮した様子で、言うではありませんか。「そんなことないでしょう」と、私は即座に打ち消しました。
「本当なんだよ。本物だよ。」「まさか」と私。「おしのびで来てくれたんだよ」とまで言うのです。

実は、即位30周年の式典があり、テレビ中継があったようで、それを見て、現実とテレビの映像が混じってしまったのです。ここで私は、はじめて、インターネットで、「幻覚と幻聴」と入れて、調べる気になりました。

初めて「レビー小体型認知症」という症例を知りました。「アルツハイマー型認知症」と違って、記憶はしっかりとしているということです。「アルツハイマー型」の人の場合は、娘が面会に行っても「どなたですか。私のお母さんですか」というようになってしまうそうですが、母の場合は、記憶はしっかりとしています。

まだ治療法がわからないようですが、アルツハイマー型の薬でも、進行を遅らせることはできるようなことが書かれた情報もありました。それで、認知症を扱っている病院に見てもらおうか、どうしようかと思いましたが、その薬の副作用をみますと、「幻覚作用」と書かれていました。結局、病院で診てもらっても治らないと思い、このまま見守るしかない、と、諦めました。

しかし、この一週間ほど、幻覚のことも、年中聞こえていたという歌のことも、一切言いませんので、幻聴も聞こえなくなったのかもしれません。もしくは波があるのでしょうか。
レビー小体というある一種のたんぱく質ができて、それが脳の中に入り込んで、脳の機能を狂わせるようなことが書いてありましたが、小休止なのでしょうか。

とにかく様子を見守るしかない、と思います。今日は、施設のテレビを一緒に見ていましたら、本木雅弘さんがインタビューに応じている画面でした。すると、思いがけず「この人は、樹木希林の娘と結婚している人だよ」と、私に教えてくれました。なんと、なかなか記憶はしっかりしているようです。天皇陛下の時とは違い、会いに来た、と言われなかったし、よかったです。

なんといっても102歳です。仕事でも持っていれば別ですが、料理もせず、掃除もせず、なにもしていなくては、いろいろな機能が衰えるのはやむを得ないと思いますが、退屈、という感覚はなさそうですので、救われています。「起きているより、眠っていた方が楽」と言って、時を過ごしています。私が、面会に行くと「早く帰って寝な。寝なければ体をこわすよ。」と心配しています。時々、お寺に帰ってきますが、やはり自分のベッドが一番よいのではないでしょうか。しかし、毎晩、7回から10回くらい、起きなくてはならず、昼間は目いっぱい忙しいので、まことに申し訳ないのですが、施設に預かっていただかなくては、共倒れになってしまいます。

老いて、生きることは、なかなか本人も大変でしょう。老いた私自身も大変です。兄も風邪でダウンしていますので、面会には行ってもらえません。老老介護も、いつも問題に対処しつつ、なんとか、乗り越えています。老老介護で苦しんでいる皆さんも、どうか、お体お大切になさってくださいますように。

(102歳)

#老老介護
#レビー小体型認知症
#幻覚
#幻聴


『法華経』「譬喩品」メモ 罪の報い?

2019-03-16 10:00:23 | Weblog

3月16日(土)晴れ【『法華経』「譬喩品」メモ 罪の報い?】

(この覚書は、自分自身の学びのための一文ですので、もしご意見などありましたら、ご教授ください。)

「譬喩品」の後の部分に、次のような偈文があり、大変に疑問を感じました。

若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種 或復顰蹙 而懐疑惑 汝当聴説 此人罪報 若仏在世 若滅度後    其有誹謗 如斯経典 見有読誦 書持経者 軽賤憎嫉 而懐結恨 此人罪報 汝今復聴 其人命終 入阿鼻獄

若し人信ぜずして 此の経を毀謗(きぼう)するときは 則ち一切 世間の仏種を断ぜん 或は復顰蹙(ひんしゅく)して しかも疑惑を懐かば 汝は、当(まさ)に 此の人の罪報を説くを聴くべし 若しくは仏の在世に 若しくは滅度の後 其れ斯くの如き経典を誹謗(ひぼう)するもの有りて 経を読誦し 書し持つ者有るを見て 軽賤(きょうせん)し憎嫉(ぞうしつ)して 結恨(けっこん)を懐かば 此の人の罪報を 汝、今復(また)聴け 其の人、命終れば 阿鼻獄(あびごく)に入らん。

以下、この経、つまりこの教えを誹謗したりする者は、阿鼻地獄におちるだけではなく、もっといろいろとひどい目に遭うことが書かれているのであるが、そのようなことを釈尊がお説きになったとは思えない。この個所以降は、後の者の創作ではなかろうか。すべての衆生をお救いになりたい、すべての衆生は仏になることができる、と説かれた釈尊が、自分の教えを信じない者は、ひどい目に遭うなどと、お説きになるはずがない、と思う。

私がこのように思える根拠は、法華経の散文個所と偈頌の個所は、成立時期が違うということを教えていただいたこと、また法華経の教えを説いて回った説教僧がいたということ、このようなことを辛嶋先生の講演で教えていただいたお陰です。また、友人のF博士も、後の者が付け足した創作であろうという意見でした。

よって、たとえ経典とはいえ、そのまま鵜呑みに信じてはならない、と思うのである。            辛嶋先生は、「譬喩品」の偈頌の部分は『法華経』の古層、前一世紀に書かれたであろうと、解説なさいましたが、この内容にまで触れる時間がありませんでした。

とにかく釈尊は、自ら文章をお書きになったわけではありませんので、後の者が書いた経典には、注意が必要ではないでしょうか。日常においても、恫喝を畏れて、萎縮して生きないようにしたいものです。

(罪の報いでジャッカルや犬にも生まれ変わると書かれているが、ボクもその報いで猫でしょうか????)

#『法華経』

#「譬喩品」

#罪の報い?

 


『法華経』メモ「譬喩品」四聖諦

2019-03-07 12:11:16 | Weblog

3月9日(土)【『法華経』メモ「譬喩品」四聖諦】

今朝は、朝霜が降りて、土の部分が白くなっていました。やはりまだ3月ですね。昼からは暖かくなってきました。今日は、総代会があり、今年、お寺にとって、特に工事をしなくてはならない個所について相談しました。またいろいろと書類の提出を促す手紙などが、宗教法人の中心からきていまして、住職はじっくりと本を開く時間が少ないです。さて、そのようなことばかり言っている暇があったら、少しでも学びましょう、と自分を奮い立たせています。

「譬喩品」に書かれている四聖諦(ししょうたい)ですが、「譬喩品」というと「三車火宅の譬え」がメインですが、ここでも四聖諦(ししょうたい)が説かれています。なんといいましても、初期仏教の中心教義の一つです。釈尊の初転法輪(しょてんぼうりんーお悟りになってから初めての説法)の内容は、四聖諦とされています。

いかにして人々を真の悟りに導くか、悟りとまで言わずとも、いかに幸せに導くか、それぞれの人生を、まことに幸せ、と言えるような日々に導くために四聖諦は夜道を照らす灯りであると言えましょう。四聖諦は四諦とも表現しますが、耳に聞いて「したい」というのはどうも響きがよくないと、私の意見で恐縮ですが、ここでは四聖諦と統一して書きます。

さて、四聖諦とは、苦諦・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦という4種の真理のことです。苦諦は迷いの存在は苦であるという真理、四苦八苦(生老病死・愛別離苦・求不得苦・怨憎会苦・五陰盛苦)。集諦はこれらの苦が起きる原因についての真理、それは渇愛にあるとされる。滅諦は苦の滅する真理、渇愛が完全に止滅した状態。道諦は滅諦に導くための真理、八正道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の具体的な実践徳目。

さて、「譬喩品」における四聖諦を説いている鳩摩羅什訳の漢訳部分は次のようである。

若人小智 深著愛欲 為此等故 説於苦諦 衆生心喜 得未曾有 仏説苦諦 真実無異 若有衆生 不知苦本  深著苦因 不能暫捨 為是等故 方便説道 諸苦所因 貪欲為本 若滅貪欲 無所依止 滅尽諸苦 名第三諦  為滅諦故 修行於道 離諸苦縛 名得解脱 是人於何 而得解脱 但離虚妄 名為解脱 其実未得 一切解脱   仏説是人 未実滅度 斯人未得 無上道故 我意不欲 令至滅度 我為法王 於法自在 安穏衆生 故現於世  汝舎利弗 我此法印  為欲利益 世間故説

(若し人小智にして 深く愛欲に著せる、此等の為の故に 苦諦を説きたもう。衆生は心に喜んで 未曾有なることを得、仏の説きたもう苦諦は、真実にして異なること無し。若し衆生有って 苦の本を知らず 深く苦の因に著して 暫くも捨つること能わざる。是等の為の故に 方便して道を説きたもう。諸苦の所因は 貪欲を本と為す 若し貪欲を滅すれば 依止する所無し。諸苦を滅尽するを 第三の諦と名づく。滅諦の為の故に 道を修行す。諸の苦縛を離るるを 解脱を得と名づく。是の人何に於いてか 而も解脱を得る。但(ただ)虚妄を離るるを 名づけて解脱と為す 其れ実には未だ 一切の解脱を得ず。仏、是人は 未だ実に滅度せずと説きたもう。斯の人は未だ無上道を得ざるが故に。我が意にも 滅度に至らしめたりと欲わず。我は為(こ)れ法王にして 法に於いて自在なり 衆生を安穏ならしめんが故に世に現ず。汝、舎利弗よ 我が此の法印は 世間を利益せんと 欲するが為の 故に説くなり。)

しかし、苦縛を離れただけでは、それは単に正しくないことへの執着から解放されただけのことだから、真の解脱を得たとは言えない、真実 無上道を得させるために、衆生に安楽を得させるために、仏は出現なさった、と、この後に説かれています。

私は、八正道の実践さえ十分ではありません。正語についても、昨日、滅茶苦茶ひどい暴言の独り言を言いましたら(偉いと言われている僧侶に対しての暴言ですが)突如スマホが機能しなくなりました。天は見ています。

*今日は、ここまでといたします。おそらくここまでお読みくださった訪問者の方はいないと思いますが、もしいらっしゃったら、と思い、猫ちゃんたちの写真をお楽しみください。)

#『法華経』

#「譬喩品」

#四聖諦

 

     

 


老老介護記 ナムアミダブツには敵いません

2019-03-06 10:39:04 | Weblog

 3月6日(水)【老老介護記 ナムアミダブツには敵いません】

作日は、母は施設ですから面会に行ってきました。同じ町に住む兄と交代で母の面会を欠かさないようにしています。この町のお寺に住職として勤める前は、世田谷に住んでいました。住みやすいところでしたので、そこに住んで、一生、研究者として生きていこうかと思っていたのです。しかし、今住職を勤めているお寺を紹介されたとき、その町のお寺ならよいかと心を動かしたのです。なぜならば、兄が住んでいる町でしたから、母思いの兄に、母の最期に間に合うようにしてあげられる、と思ったのです。

そんなで今日は兄なので、昨日は私が行ってきました。いつも同じメンバーが坐っているテーブルで、母の隣に座っている奥さんはいつも私に毎朝唱えているという「なむくおんじつじょうだいおんきょうしゅしゃかむにせそん なむしょうみょうほっけのたほうにょらい……(南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊 南無証明法華之多宝如来……」と「日蓮大菩薩」、までを唱えて聞かせてくださいます。おそらくS学会のお唱え事だと思います。

母にも「なむしゃかむにぶつ(南無釋迦牟尼佛)」と唱えるように教えますが、どうも難しいようですから「ナムアミダブツ(南無阿弥陀仏)」はどうか、と聞きますと、いとも簡単に「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」とお唱えすることができました。やはり「南無阿弥陀仏」には敵いません。

少し付け足しますが、「ナムアミダブツ」の後に「むじょうじんじんみみょうのほうは、ひゃくせんまんごうにもあいおうことがたし(無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い遇うこと難し)」と続けて言います。そうでした、これは母は前にも唱えていました。どこで覚えたのか聞きますと、子供の頃、奉公先の奥さんがいつも唱えていたのだとそうです。

何回も口に出してお唱えしたり、子供の頃に何回も聞いたりしたことは忘れないのです。脳の活性化にも、このように口に出してお唱え事をすることはとてもよいのではないでしょうか。

私としては、「南無釋迦牟尼佛」を、当寺の檀信徒の皆様にお唱えが身につくようにと願っています。

(浄土宗のお寺の留守番として、10年務めたことがあります。人生は山あり谷ありですが、思い返せば、そこでも不満もなく、いつもその場で尽力して生きてきました。人生は面白いですね。余語翠巖老師に揮毫していただいた 「南無阿弥陀佛」 です。

#南無阿弥陀仏