風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

お骨洗い

2014-09-16 18:17:22 | Weblog

9月16日(火)晴れ 【お骨洗い】

この度故郷のお墓を改葬することになり、父と叔父の骨壺をかろうとから出しました。お骨箱の中のお骨は泥水が一杯入っていました。泥水をだしたり、草なども入り込んでいたので、何回も水をかえてお骨を洗いました。ほとんどのお骨は粉々になっていて、一つ一つ洗いましたが、小さいなりにお骨として形を成しているお骨は、三分の一にも満たないほどでした。

父が亡くなってから32年、叔父は40年がたちます。今のお墓のつくりはあまり雨水などが入らないようになっているでしょうが、ほとんどのお墓や骨壺は雨水が自由に入ってしまう造りでしょうから、長い間にお骨は粉々になってしまうのだろうとわかりました。

昨日、ある霊園の樹木葬というのを、参考に見に行きませんか、と誘われて行ってきましたが、一本の桜の木の下に芝生があり、千体のお骨を埋めることができるのだそうです。この形は骨壺に入れませんので、やがて粉々になってしまうので、また掘り出して、さらに粉々にしてしまうので、千体ものお骨を埋めることができるというようなことでした。

最近、樹木葬という形が流行っているようですが、私は、一本一本の木の下に、納骨すると思っていましたので、合同に一本の木の下に納骨する形は、あまりに経済的すぎるような気がしました。そして決して安い金額ではありませんので、あまりに霊園の商売という感じがしました。

しかし、海に散骨してしまう方法もあるのですから、どのようにお骨をお祀りするかは、それぞれの自由に任されています。こちらはお寺ですので、お墓への埋葬をしていただく選択肢をとっていただくわけですが、お墓に埋葬する場合、骨壺の中に雨水や泥が入り込まないような方法を取り入れたいと思いました。

将来合同の永代供養墓を建てる予定ですが、無縁さんになっているお墓も整理して、そちらに埋葬しなおしてあげたいと思っています。やはり骨壺の中のお骨は、粉々になっているかもしれませんね。またお骨洗いをすることになるでしょう。

生きている間は生きている間のこと。死んでからのことは死んでからのこと。たまたま生きていた身体を支えていたのが、生きている間は骨(ほね)であり、死んでからはお骨(こつ)といいます。これを生きていた証し、象徴としてお墓に埋葬し、亡き人に手を合わせる縁(よすが)にするわけです。歌にもありますように、お墓の中にいるわけではありませんが、その人を思い、手を合わせる縁(よすが)です。「拠り所」と言ってもよいでしょう。

多くは粉々になった父のお骨ですが、納骨の時に「南無阿弥陀仏」と書いた頭のお骨はきれいに残っていました。すっかり忘れていましたが、この字は私の字です。私が書いたのですね。

これらのお骨が父を支え、人間として生き、人生を夢のように送ったのだと、しみじみと思いました。

「是非得失一夢の中」良寛さまの詩の一句がふと浮かびました。

私にとっては懐かしい父ですが、家族にとっては、辛い思い出の多い父でした。

お日様に干したお骨を一つ一つ白布の上に置きながら、久々に父を懐かしく思い出しました。皆さんは錯覚と思うかもしれませんが、空に父の面影そっくりの白い雲が浮かんでいました。

 


モカの七七日忌

2014-09-08 09:55:42 | Weblog

9月8日(月)曇り 【モカの七七日忌】

昨日は、腹膜炎が原因で旅立ったモカの七七日忌でした。モカがいなくなってから、もう七七日忌なのかと驚かされます。つい昨日のことのような気がします。

人間は亡くなりますと、しばらくはこの世に近いところにいると、言われていますが、猫ちゃんたちは、すっきりと早々と天に帰っていることでしょう。

ですから、こちらがいくら未練がましくしても、それで浮かばれないとか、帰れないということはありません。

ペットロスの人に、早く未練を断ち切るようなことを言うことはないと、自分が体験してみてわかりました。

ペットロスになっている人もいつか時間が経てば、自然に諦めもつきます。

私はモカのことを思うだけで、涙が自然とあふれてきますが、それは自然です。メソメソしているわけではなく、モカを思う気持ちの自然の発露です。だからといって、日常の務めに支障をきたしているわけではありません。

この世で愛しい者を失った人に、早く思いを断ち切るようなことを言うのは、間違っていると実感しています。

何事も、体験しなくては、身に沁みてわからないものであると、つくづく思っています。

猫伝性腹膜炎について、また書きたいこともありますが、今日は忙しいのでこの辺で。

気候が不順です。くれぐれも風邪にはご用心してください。私は鼻がでてきたらすぐに「梅干しの黒焼き」というのを飲みますと、治ってしまいます。風邪は細胞が緩んでしまっていますので、梅干しの黒焼きという極陽性の飲み物で、緩みを調整するといえばよいでしょうか。極陽性がよいのでも、陰性が悪いのでもなく、大事なのはバランスということでしょうか。どうぞ、皆さんお大事に。


小学生の自死

2014-09-06 16:16:05 | Weblog

9月6日(土)曇りのち夕方雷とともに雨 【小学生の自死】

小学6年生の二人の少女がマンションから飛び降りたという。中学受験を苦にして、というようなことが書かれていました。真相はわかりませんが、その少女たちの親御さんの嘆きはいかばかりでしょう。一人は助かったそうですね。

私の身近にも、自死でお子さんを失ったご家族がありますが、親の悲しみ、嘆き、諸々は筆舌に表すことはできません。何年たっても、その悲しみは癒えないどころか、ますます増しているのではないかと思います。

まして小学生とは、可愛い少女だったのではありませんか。

ご遺族のことを思うと、言葉がありません。私がもしこの子のご葬儀を執り行わなければならない立場であったら、どのように送ることができるでしょう。

簡単に自らの命を絶たないようにする生き方を、幼いうちから教えること、自ら命を絶つことは、天地の命を絶つことに等しいことを、ご飯を食べることと同じように、伝えなくてはならないですね。

エリザベス・キューブラ・ロスの『「死ぬ瞬間」と死後の生』の中に、次のような言葉があります。

「自殺者は重荷を背負って死の世界におもむくことになるのです」

「自殺は自由な選択の範囲にはない」

この方は、精神科医で、臨死体験についての研究の先駆者です。ご本人も守護霊との交信や生体離脱の神秘体験をしていますので、死後の世界の話は、多くの患者さんたちの臨死体験の話を聞いただけで、説いているのではありません。

この三次元世界だけの経験が、ほとんどの人間にとっては、全てでしょうが、意外と多くの人間が、三次元世界だけではない体験をしているようです。

決して宗教界だけに限ったことではありません。このエリザベス氏も、グルーやバーバー(おそらくサイババのことか)を徹底して毛嫌いしていますが、多くの神秘体験があるようです。

また新宗教の方々には、神秘体験から、多くの信者さんを獲得し、救っている宗教もあるようです。

私のようななんでもない者でも、物質化現象まで経験したこともあり、死後の声を聴いたことも度々にあります。もしかしたら私の場合は、錯覚かも知れませんが。

いずれにしましても、命の尊厳を教えるのには、学校教育だけでは充分ではないかもしれませんね。

 


食べ物と自死

2014-09-05 11:30:53 | Weblog

9月4日(金)晴れ、また暑い 【食べ物と自死】

精神論だけでは、自死にブレーキをかけるのは、かなり難しいのではないかと思います。

私がご葬儀を執り行った自死の方の場合を思いますと、アイスクリームが大好きで、毎日食べていたので、といって、霊前にアイスクリームが置かれていました。

梅干しやたくあんや、味噌の食べ物の好物の人で、自死に至ってしまう人は、少ないのではないかと思います。食の陰陽をいいますと、アイスクリームのような食べ物は陰性といいますし、梅干しや味噌などは陽性といいます。

また清涼飲用水、コカコーラのような飲み物も陰性です。別の言葉でいえば、細胞を緩める性質のある食べ物は陰性ですし、細胞をしめるような食べ物は陽性の傾向にあるという言い方もできましょう。

20代のころに学んだ食養では陰性の食べ物は毒、陽性は体によい、というような印象があり、果物などは一切食べなくなってしまいました。しかし、これは極端であって、陰陽の調和のとれた食事こそ、健康にとって大事であると、だんだんに考え直すことができるようになりました。ものの考え方も、バランス感覚が大事なことはいうまでもないことですが、実に毎日の食べ物が、身にも心にも大事なのだと度々に痛感いたします。

そこで、自死の話に戻りますが、自死に陥らないためには、食べ物のバランスが大事であると言いたいのです。アイスクリームが悪いというのではありません。ものすごく暑い日に楽しむのはよいでしょうし、ペットボトルの飲み物も、暑い時のバランスには助けになる場合もあります。

梅干しや味噌を陽性といいましたが、実は、これは陰陽の調和のとれたバランス食品ですから、毎日食べても全く問題はないどころか、健康維持の一助となります。かつ細胞をほどよく柔軟に保ちます。

だからといって、食べすぎは禁物です。やはり塩分量は、ありますから、梅干しなら一日1個から2個、味噌はおいしいと感じる味噌汁を一日に1,2杯。

さらに大事なことは、梅干しも古来からの作り方をしたもので、この頃はやっているはちみつや焼酎や甘味料の入っている梅干しは、健康維持や、私曰く、自死の防止には役立ちません。味噌も古来の作り方で、一年以上寝かせた自然醸造の味噌でなくては、自死防止の役にはたちません。

梅干しと味噌が自死の防止になるなどと、勝手なことを書きますが、個人のブログですので、どうぞ、読み流してください。大事なお子さんに、お子さんのすきなだけ、アイスクリームやコカコーラやペット飲料や、スナック菓子や、御酒や、薬漬けの食品を食べさせていたら、その先はどうなりますか。

このブログ記事が、自死のご遺族の苦しみを増さないことを願いつつ。一人でも自死で、命を捨ててしまうことのないことを願って、私論を述べさせていただきました。


自死防止策

2014-09-03 20:16:24 | Weblog

9月3日(水)晴れ 【自死防止策】

E・キューブラー・ロスの『「死ぬ瞬間」と死後の生』を読んでいて、自殺しそうな患者さんについての言及の箇所がありました。そこで、突然、私は自分の過去に訪れた危機を思い出したのです。

昨日は、出家した自分について、この道にあることの感謝を書きましたが、そうです、思い出してみれば、幾度かの危機を経験して、今のかなり平穏な状態にあるのだということ。最初から平穏な尼僧では決してないことを書いておきましょう。

或る時、とても信頼していた方がいたのですが、その人に全く裏切られていたと分かったとき、それから十日間以上寝込んでしまって起きることができませんでした。気持ちが傷つくということは、理屈を超えて、身体的なダメージさえ受けた、ということを思いだしました。しかし、もし、あの時、動くことができていたら、もしかしたら、自死に誘われていたかもしれません。動けなくなったことは幸いだったのだと思います。

また、ある時、これも信頼していた友人に、全く騙されていたと知った時、、それからしばらくため息ばかりつき続けました。あの時ほどため息をついたことはありません。ため息というよりも呻きに近かったかもしれません。理屈抜きに嘆きのため息が止まりませんでした。もし、嘆きのため息がでないで、嘆きが内に籠っていたならば、やはり自死に誘われたかもしれません。

また、一日中、五体投地の御拝をし続けて、やっと苦しみから抜け出すことができたこともあります。

自死に誘われるような状態に入り込んでしまったら、抜け出すことは大変でしょう。そうなる前に、身体的なはけ口を見出すことは、自死を防ぐためのかなり抑止力になるのではないでしょうか。

人によっていろいろな方法があるでしょう。心のもやもやを、もやもやと内に籠らせないで、大きな声で叫ぶのも効果があるかもしれません。私のように呻いたり、嘆いたり、御拝し続けたり、何かして発散することは、自死に向かうエネルギーにブレーキをかけることができるかもしれません。心の苦しみを身体的な発散をしてやわらげる方法を、是非お勧めしたいです。

精神論や命の大事なことを、自死に向かいたいほどのダメージを受けてしまう前に、常日頃から、心奥にすり込んでおくことは、もっとよい防止なるでしょう。

私も尼僧として、静かな海にいるような現在の状態ですが、思い返してみれば、何度も危機を味わってきたことを、昨日のブログ記事の続きとして書いておきましょう。

出家してからも、在家の世界でもこれほどひどいことはないだろう、という経験もしましたが、良き友人たちのお蔭で乗り越えることもできました。尼僧堂時代の親友がいてくれたことは、有難いことでした。その一人はすでに旅立ってしまいました。與木淳恵さんという方です。すでにこの世にいらっしゃらないので、個人のお名前ですが、書かせていただきました。この人ほど、人のよいという表現がぴたりの人は、私の出会った人のなかにはいません。

裏切る人(と自分が感じるわけですが)もいれば、助けてくれる人もいたり、人生は決して一方ではないでしょう。もし全ての人が自分に対して、「ひどい」と感じても、絶対に見捨てない目のあることを信じてほしいと思います。

ありますよ、見捨てない、大いなる目が。

自分で死ななくても、いつの日か、必ず誰にでも死は訪れるのですから、なんとしても生きてみてほしいです。

そうして、ああ、あの時、死なないでよかった、という日が、必ず訪れると言いたいです。

なんと、あらためて驚きます、私も七十歳という大台が目前です。我がことながら驚きます。何度も危機を乗り越えてきて、生きていて、やっぱりよかった、と、思っています。

もし、一人でも、自死の誘惑に負けそうな方が、このブログをお読みになり、尼僧さんでも、そんな時があるのか、と、なんだか、思い返していただけたら、有難いと思う次第です。きっと、その方の苦しみは、私の経験などをはるかに越えて辛いものかもしれませんが。

今夜も虫がよく鳴いています。こおろぎでしょうか。

*付け加えますが、私自身も人の信頼を裏切ったこともありますし、人から見れば鼻持ちならないことも多いはずです。自分と全く同じ価値観や、考えを持っている人がいるとすれば、それは自分自身しかありえません。二人の自分がいるはずがないので、そんなことはないのですから、他人に対しては、時に違和感ももち、批判的な考えも起こり、裏切られてと思うようなことも起こったりするわけです。自分以外は、まぎれもない別人なのですから。それが、天地のなせる綾模様、人間を含め、一切の生物をあらしめている不思議なるエネルギーの芸術的手腕のなせるところです。

*この地球のある「太陽系がある天の川銀河(銀河系)は、約10万個の銀河から成り、直径が約5億光年の「超銀河団」の端に位置する可能性が高い」( 時事通信)と書かれていました。地球のように人間のような生物が住む天体は、間違いなく他にもたくさんありそうです。

争いばかりしている地球人類の愚かしさに、皆さんもほとほと嫌気がさしてはいないでしょうか。中国が、9月3日を「抗日戦争勝利の日」と制定したとか、何とも言いようがありません。

 


曹洞宗尼僧団創立70周年

2014-09-02 18:50:17 | Weblog

9月2日(火)晴れ、清々しい一日 【曹洞宗尼僧団創立70周年】

今日は、私の住んでいる町には、清々しい風が一日吹いてくれました。皆さんのお住まいの町はいかがでしたか。外の猫たちも、気持ちよさそうに、風に吹かれていました。

旅立った人を思う時、自然に空を見上げますが、やはり旅立ったモカも空の上にいるような気がします。

さて、今年は曹洞宗尼僧団が創立されてから70周年になります。このブログで、『苦難の尼僧史』を何回かに分けて書かせていただきましたが、日本における尼僧の歴史は、やさしいものではありません。先輩の尼師方がいかにご苦労なさって、現在の尼僧の地位向上に尽くされたかの一端を書かせていただきました。

すでに与えられた状況の中にいますと、現在の状態が当たり前のように思ってしまうのは、全てのことに於いて言えることですが、あらためて一つ一つの事柄について、その歴史をひもといてみますと、先人の苦労がしみ込んでいることが多いことをあらためて知ることになります。

婦人参政権などもそうです。他にも多々あるでしょう。少数派や弱者の立場の是正がなされたのは、多くは近年になってからです。

女性として、仏道を学び、こうして生きているみずからの生き方を、あらためて考えてみますと、まことに不思議な気がいたします。今生限りの望みによって、この道を歩めるようになったとは思えません。過去の人々の誓願のお蔭なくして、このようには生きれなかったであろうと思い至ります。

話はかわりますが、日本における尼僧差別は、江戸時代に尼僧寺を男僧寺の末寺にするという制度が、尼僧を男僧より低い位置にみるという差別を生みだした元凶だといえましょう。

差別撤廃のために尽力してくださった先輩書老師方に感謝しています。いつの時代にも、何らかの差別があり、今も目に見えない差別に苦しんでいる人もいらっしゃるでしょう。そんな場合は、一人よりは二人ですし、複数の力を合わせたほうが、乗り越えられる場合もあるでしょう。

曹洞宗の尼僧たちは、尼僧団として結束して乗り越えてきた歴史があります。私は徒党を組むという感じを好まないタイプですが、尼僧の歴史を見直したとき、そのお蔭を蒙っているのに、それを嫌うことはおかしいと思うようになりました。

それで今は尼僧団の一員ですし、『おたよ里』という機関誌の編集にもたずさわっています。柔軟になったと思っています。

なんとなく取り留めのないことを書きました。虫のすだく音に耳を傾けながら。

天候が不順です。皆様、風邪にはご用心してください。(私は昨日あやうく風邪を引きそうになりました。)