風月庵だより

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英霊たちの光か

2023-12-29 20:35:21 | Weblog

12月29日(金)晴れ【英霊たちの光か】

いよいよ今年も残すところ今日を入れて3日間となりました。

お正月のご祈祷と年賀の会の準備で、大忙しのこの頃です。

この忙しい中、一昨日、富士東口浅間神社にお参りに行って来ました。イタリアの霊能者の方から、頼まれての、代参みたいなものです。

ずい分酔狂なことだと我ながら思います。しかし、どなたの迷惑になることではなし、代参を引き受けて行ってまいりました。代参といいますと、森の石松の代参を思い出しますが、酔狂なことを引き受けるような、こんな人間がいてもよいでしょう。

それで行って参りました。富士山アップの写真を撮りたいと思いましたが、その時は雲に御隠れになってしまっていましたので、車からの富士山です。

霊能者の方が、お参りをし残したという須走富士東口浅間神社です。

観音様をお連れしてください、との要望でしたが、果たしていかがしましょうか。

そのような器用なことはできませんが、『般若心経』と『妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈』というお経をお唱えさせていただき、世界の平和を祈りらせて頂きました。

帰路、浅間神社の境内の外にある小さな社が目に留まりました。

祖霊社です。

右側に見える石碑には、祀られている人々の名前が刻まれていました。

ほとんど第二次世界大戦で戦死なさった方々でした。年齢に胸が打たれました。ほとんど二十代の若者たちです。

ここで懇ろにお経をあげて、英霊の皆様に話しかけました。

写真を後で撮ったのですが、私が写っていますので、掲載は遠慮しますが、私が写っている写真の光線は、はっきりと虹色に写っています。

木漏れ日だろうと思いましたが、同行した法友が、後から教えてくれましたが、太陽は逆の方向にあり、虹色の光線は木漏れ日ではないと言っていました。

おそらく英霊の皆さんが感応なさったのではないかと思います。

霊能の知人の願いは、おそらくここのお参りを願っていたのではないでしょうか。

お陰様で得難い経験をさせていただきました。

二十代でルソン島やフィリピンや野戦病院で病死した英霊に感謝いたしました。

因みにロマンスカーで小田原まで行ったのですが、行きも帰りも全く同じ号車と座席番号の特急券でした。そんなことにも感心した代参でした。

これから一週間、仕事が一杯の日々が続きます。

ブログはお休みします。皆さん、どうぞ素敵な新年をお迎えくださいませ。

 

 


維摩の不二の法門

2023-12-26 19:23:35 | Weblog

12月26日(火)晴れ【維摩の不二の法門】

二元論について、実はしつこく考えているのです。二元論の過ちと言ってもよいでしょうか。(自分がかつて書きました記事から学んでみます。)

そこで『維摩経』の中に説かれる「入不二法門品」で説かれる「不二の法門」から、少し学んでみたいと思います。

維摩が「二元対立を超えた不二の法門に入ることはどのようなことか」と質問をしますと、31人の菩薩がそれぞれの見解を述べます。

例えば喜見菩薩は、「色と空と二元的に対立しますが、色こそが、まさに空の本性なのです。色が消滅することで、空の本性があるのではありません。云々」

善意菩薩は、「輪廻と涅槃ということ、これが二元的に対立するものです。」輪廻の本性を見れば、輪廻することもなく、完全に涅槃することも有りません。云々。

現見菩薩は「尽きることと尽きないこと、これが二元的に対立することです。尽きることとは、究極まで尽きること、それはもはや尽きることは無い、云々」

等々、二元的に対立するものと、その対立がなくなることを説き、不二の法門を具体的に解き明かしていきます。そうして、ついに文殊菩薩が維摩居士に「それでは、不二の法門に入るあなたの教説をお説きください」とお聞きしました。

しかし、維摩居士は沈黙して何も語らなかった、というのです。

これが「維摩の一黙、雷の如し」と言われる有名な一シーンです。

しかし、維摩居士の一黙だけが重要なのではなく、それぞれの菩薩が、二元対立を超えたところを説いている、それがあっての一黙です。さんざん語った後の言語の持つ限界を、維摩は示したと言えましょう。

分からないなりにしつこく考えますと、本当の自分、本当でない自分、などという分け方さえしそうな危険があります。

いずれの姿も自分という姿であると、受け入れていく2ならず3も4も5も変幻自在の自己の姿を楽しむことができるでしょう。

地球人類もいくつもの姿を現していますが、さて、戦争をしている姿は受け入れられません。

明日は、イタリア人の知り合い(天からの依頼だそうで)の代参で、富士山に行って来ます。登りませんよ、麓です。

あまり寒くありませんように。

皆さんも風邪にはご注意を。天からの伝言があなたの心にも、何かあるかもしれませんね。

 


二元論について考える 戦争と平和

2023-12-25 12:21:33 | Weblog

12月25日(月)晴れ【二元論について考える 戦争と平和】

今日は25日です。イエス様がお生まれになった日されています。西暦1年とか6年とかの説があり、またお生まれの日にちも12月25日ではないという説もありますが、まあ、あまりその辺は詮索しないで、12月25日、西暦元年ごろ、ということにしておきましょうか。

お釈迦様はイエス様よりも数百年早くお生まれになっています。紀元前463年から383年ごろという説と、紀元前566年から486年という説、南伝ではもっと古く紀元前624年から544年という説があります。一応4月8日を生誕の日とされています。

お二人とも、現代の地球をご覧になって、いかがお思いになるでしょう。愛と人々の幸せを願ってお生まれになったお二人です。イスラムのムハンマド様も、砂漠で暮らす人々の団結と幸せを願い、アッラーの神の教えに従って生きることを教えてくれていたはずです。

しかるにロシアによるウクライナへの戦争、イスラエルとパレスチナの戦争、地球上には国内の紛争も含めて、多くの戦いが常にどこかでなされています。

私はこのところ、ずっと、戦争と平和のように、二元対立のようにこの言葉を使うことは間違いであると思っています。

戦争は絶対悪である、と思います。

平和は地球の人類として、当然ある姿であると思います。絶対善というと戦争の絶対悪とこれまた対立するようですので、「平和は、地球の本来の姿」と言いたいです。

二元論について、多少学んでみましたが、分かりずらいです。デカルトの二元論は有名のようですし、『維摩経』の中にも、「不二の法門」についての問答もありますが、ここに書けるほどの咀嚼が十分できていませんので、クリスマスに因んで、なんとしても戦争を止めなければ、人類が滅ぶであろうということを書いておきたいと思います。

あまりに地球人類が、道を踏み外してしまっていますね。ひたすらに平和を願います。平和こそあるべき姿です。戦争を止めることこそが、最大のクリスマスプレゼントです。願いはあまりに無力かもしれませんが、全人類が願えば、可能です。祈りましょう。

 

二元論 (にげんろん、dualism)とは、世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては 善 と 悪 、要素としては 精神 と 物体 など。


YouTubeについて

2023-12-23 22:34:39 | Weblog

12月19日(火)晴れ【YouTubeについて】

今日も空は美しく晴れています。日本海側は雪のようです。雪に閉じ込められましたら、本を読むか、テレビを観るか、年末のお掃除をなさるか、なにか集中してできるような感じがありますが、いかがですか。

こちらは晴れていますので、ついあちこちの片づけに忙しくしています。ちょっと、一休みの時間、パソコンの前に居ます。お食事は少し遅い朝食でしたので、昼食はパスです。

この頃、時々、ユーチューブを観ています。「ペンキ画家ショーゲン」さんのユーチューブに魅かれて、他の人たちのユーチューブに及んでいます。

実に面白い世界が展開されていました。私はかなり遅いユーチューブ見学者でしょうか。猫ちゃんたちの「にこねこ」は時々見ていましたが。

それで、私が関心を持ったユーチューブをいくつか紹介させてください。とにかく洞察も学びも超一流であろうと思います。

◎「ペンキ画家ショーゲン」

◎「ナオキマン」「naokiman」

◎「Toland Vlog」

◎「さとうみつろう」

◎高橋誠鮮さん

他にもあるかもしれませんが、それほど見ている時間がありませんので。皆様が楽しんでいるユーチューブがありましたら、お教えくださいませ。

とにかく、世の中は実に面白いですね。人類の最後の学びもできます。毎日の学びもできます。

しかし、何があっても道元禅師のおっしゃる「而今(にこん)」に生きるでしょう。ほかの宗教では「中今」という表現があるそうですね。ショーゲンさんは、ブンジュ村ではじめのうち「心ここにない人」とあだ名されていたそうです。

なにがあっても、心ここにおいて、うわの空でない生き方をしたいですね。そして、その積み重ねが、やがて………

今日も御機嫌よう。

ほとんど葉が落ちました。銅板の蓋をかぶせているのが見えていますね。この銅版の蓋は、実は数万円しましたが、銀杏さんの有終の美の為に奮発して正解だと思っています。さあ。あと何年くらい新芽を拭き、紅葉し、そして枯れ落ちる姿を見せてくれるでしょうか。

 

 


なぜ癌の人が多いのだろうか

2023-12-17 11:13:21 | Weblog

12月17日(日)晴れ【なぜ癌の人が多いのだろうか】

癌でお亡くなりになる人があまりに多い。

今のお寺の住職になって二年くらいの時も、あまりに癌でお亡くなりの人が多いので、食養を改めて学びに、東城百合子先生のもとに通いました。先生が出されている『あなたと健康』の愛読者ですので、玄米菜食や自然療法によって、多くの人が癌を克服、またはうまく共存しつつ元気で生きている事例をいつも読んでいましたので、きちんと学びなおして、檀家さんたちにも食事の大切なことを伝えたいと思ったのです。

しかし、この頃もあまりに多くの人が癌により、お亡くなりになっています。お寺の土木工事一切を「俺がやるよ」とすぐに言い、すぐに着手していてくれた方も癌でお亡くなりになりました。

またお寺にとって、本当に大切な業者の一人の方も、今、癌で闘病中です。

日本が一番、癌患者が多いのではないでしょうか。

台湾の友人も、おかしい、と言っていました。

この頃、RUという除草剤が気になっています。ホームセンターに行きますと、お店にずらりと並んでいます。近くの農家の人も、これは政府が承認している除草剤だから、住職、使っても大丈夫だよ、と、草取りに必死の私にアドバイスしてくれたものです。

これなどヨーロッパ諸国では使用禁止の除草剤だそうですよ。

ラットで実験したところ、すぐにあちこちに癌ができて使用禁止になっているそうです。

日本には、どんどん輸入されています。どこからか、アメリカだそうです。

遺伝子組み換えの大豆なども、アメリカからジャンジャン輸入されています。農薬を使い過ぎの小麦もアメリカ国内では売れないのに、日本にはジャンジャン輸入されているのだそうです。

規制の緩い日本、アメリカの言いなりの日本、あまりに癌でお亡くなりの人が多いことに、政治家は疑問を持たないのでしょうか。

ワクチンにしても、必要以上に買わされているのではないでしょうか。

政治家の人たちは、キックマネーでしたか、そんなことで争っていますが、もっと、真剣に日本のことを考えなくてはならないし、日本の土地をやたらに海外の人、特に中国の人達に買い占められていることを規制する法律を作らなくてはならないことに目覚めてほしいと思います。

そうして、私たちも、体に危険な除草剤や農薬の使用をしないことに目覚めなくてはならないですし、食品を買う時にも、注意して購入いたしましょう。

檀家さんの死因が、癌であることの多いことを心配している住職が、この日本の一隅にいます。

天から頂き物の、借り物とも言えますか、この体を大事に慎重に、使わせてもらって、大いにこの地球で楽しく遊んで、亡くなっていきましょう。


狂い咲きか、返り咲きか

2023-12-16 20:39:30 | Weblog

12月16日(土)晴れ【狂い咲きか 返り咲きか】

寒いのか暖かいのか、花も迷っています。

夏に咲きましたが、枯れた茎に並んで出てきた茎に花が咲きました。枯れた茎を取ってしまった人がいたので、並んでいる写真が撮れないのは残念ですが。これは高砂百合というのだそうです。

さつきもあちこちに咲いています。

だるまストーブで焼き芋をしました。


自己肯定感と自死について

2023-12-09 18:18:31 | Weblog

12月9日(土)晴れ【自己肯定感と自死について】

昨日は、自己肯定感と自己否定感について、記事を書きました。

自己肯定感を常に持っていたならば、自死をしようとは思わないのではなかろうか。

いじめに遭って、自死をしてしまう子どもたちのことを考えると、本当に胸が痛みます。

勿論子どもだけではありません。大人も同じことですが、子どものころから、自己肯定感を持つことを教えられていたら、誰がいじめようとも、はねつけられるのではないでしょうか。

日本人は、一歩下がることを美徳のように教え込まれたり、そのようなDNAも、民族性としてあるように思います。

自死をしてしまう子どもほど、なんでこんなに良い子が、自ら死を選ばなくてはならないのか、記事を目にするたびに、残念で、悔しい思いさえ起きてしまいます。

ネガティブに自分自身をとらえる習慣があると、この世に生きていても仕方がないのではないかと、せっかくの、天からの頂き物の命を、無下に扱ってしまうという、もったいないことをしてしまいがちです。

そうして本当に言いたいのは、自殺しても、決して楽にはなれません!

このことを宗教者は声を大にして言わねばなりません。自殺してしまった霊は、なかなか明るいところに出られないで、苦しんでいます。自殺して、明るいところにすぐに出られる霊は、ごく少ないでしょう。

見てきたようなことを、私は断定して申します。可愛い少年少女の自死を止めたいのです。やめさせたいのです。

ブンジュ村の子どもたちのように、お子さんをお持ちの方々や、周りに子どもたちがいる大人たちは、子どもたちが、自己肯定感を常に持つような習慣を持たせてあげてください。

最近、とんでもない教育者がいるという記事を見ました。ある生徒が、「生きていても仕方がないので死のうと思う。」というようなことを、先生に提出するノートに書いて提出したら、花丸をつけた上に"you can do it"と書いたそうです。

なんとも言えませんね。

生きていたら、楽しいことを大人たちが教えなくてはなりませんし、そのような姿を見せてあげなくてはね。

大人たちこそ、自己肯定感全開の生き方を、見せたいですね。

枯れてしまったかと諦めていた銀杏の木は、上を伐りましたが、それなりに枝が出て葉が出て紅葉の姿を見せてくれています。まだ数年は持つでしょう。

 

 


自己肯定観と自己否定感について

2023-12-08 19:24:23 | Weblog

12月8日(金)晴れ【自己肯定感と自己否定感について】

今日は、お釈迦様の成道会です。お釈迦様がお悟りを開かれた日として、仏教徒は特にこの日を成道会として法要を勤めます。

修行道場では、一日から1週間、坐禅修行を勤めます。臘八接心ろうはつせっしんと言います。

私は今年はパスしました。

今朝 は、懇ろに天のお釈迦様に感謝をしまして、法事を勤め、さらに今日は私の誕生日ですので、お祝いをしてくださる人がいて、ご馳走になりに出かけました。

さて、ペンキ画家のショーゲンさんが、ブンジュ村の子どもたちは自己肯定感が強いと言っていましたので、そのことについて考えました。自己肯定感は気をつけないと自己自慢にならないだろうか、と、その点について考えてみました。

ショーゲンさんの言葉によると、「子供たちも、自分の所作を自分で褒めている、自己肯定感がとても強い」と表現していました。自分の所作、顔を洗う時に両手を合わせて水を掬う、その手を美しい、と愛でる、自分が何かしたことを褒める、そのようなことだそうです。

つまり他と比較していませんね。ここが大事なポイントでしょう。

自己否定をする人は、「私なんか」とか「自分なんか」と、いうように自己卑下をしますね。そうして他との比較において、自分自身にダメ、というネガティブな判断をくだしています。

なんというもったいないことでしょうか。自分で作った命ではないですよね、それぞれの命は。天から頂いた命と、私は捉えています。自分を否定することは、つまり天を否定することに他なりません。

天から頂き物の命ですから、責任をもってそれぞれの命を生ききることが、先ず第一に大事なミッションです。

他と比べて劣っていることもあるでしょうが、その代わり、他より得意なこともあるでしょう。

私も今日のこの日、頂いた命に感謝し、合掌する自分の姿を素敵だと思い、リンゴの食べ方も「いいね」と思い、ちょっと猫たちとダンスをする姿を「いいね」と褒めて、自己肯定感に満ち溢れて今日のこの日を楽しみましょう。

ハッピーバースデー、私自身!!!

 


自己肯定感と自己否定感について

2023-12-08 19:24:23 | Weblog

12月8日(金)晴れ【自己肯定感と自己否定感について】

今日は、お釈迦様の成道会です。お釈迦様がお悟りを開かれた日として、仏教徒は特にこの日を成道会として法要を勤めます。

修行道場では、一日から1週間、坐禅修行を勤めます。臘八接心ろうはつせっしんと言います。

私は今年はパスしました。

今朝 は、懇ろに天のお釈迦様に感謝をしまして、法事を勤め、さらに今日は私の誕生日ですので、お祝いをしてくださる人がいて、ご馳走になりに出かけました。

さて、ペンキ画家のショーゲンさんが、ブンジュ村の子どもたちは自己肯定感が強いと言っていましたので、そのことについて考えました。自己肯定感は気をつけないと自己自慢にならないだろうか、と、その点について考えてみました。

ショーゲンさんの言葉によると、「子供たちも、自分の所作を自分で褒めている、自己肯定感がとても強い」と表現していました。自分の所作、顔を洗う時に両手を合わせて水を掬う、その手を美しい、と愛でる、自分が何かしたことを褒める、そのようなことだそうです。

つまり他と比較していませんね。ここが大事なポイントでしょう。

自己否定をする人は、「私なんか」とか「自分なんか」と、いうように自己卑下をしますね。そうして他との比較において、自分自身にダメ、というネガティブな判断をくだしています。

なんというもったいないことでしょうか。自分で作った命ではないですよね、それぞれの命は。天から頂いた命です。自分を否定することは、つまり天を否定することに他なりません。

天から頂き物の命ですから、責任をもってそれぞれの命を生ききることが、先ず第一に大事なミッションです。

他と比べて劣っていることもあるでしょうが、その代わり、他より得意なこともあるでしょう。

私も今日のこの日、頂いた命に感謝し、合掌する自分の姿を素敵だと思い、リンゴの食べ方も「いいね」と思い、ちょっと猫たちとダンスをする姿を「いいね」と褒めて、自己肯定感に満ち溢れて今日のこの日を楽しみましょう。

ハッピーバースデー、私自身!!!

 


喫茶去と且坐喫茶

2023-12-04 22:36:42 | Weblog

12月4日(月)晴れ【喫茶去と且坐喫茶】

毎日寒くなりました。毎日相変わらず忙しくしています。

でも空を見る心のゆとりはなんとかあります。猫と遊ぶ時間は少しだけあります。

さて、先日、「喫茶去」という言葉について、ちょっと気になりましたので、出典について書いてみます。この頃は仏教にあまり関係のない方もご訪問くださるようなので、少し丁寧に説明させてください。

この言葉は、趙州従諗じょうしゅうじゅうしん(778~897)という唐代の禅僧の言葉として有名です。茶道の世界では、床の間のお軸によく使われているようです。

どのような場面で趙州禅師が使われたか、見てみましょう。

ある日、修行僧が趙州のもとにやってきました。「ここに来たことはあるかね」「はい、あります」「そうか、それではお茶を飲んで出直してきなさい(喫茶去きっさこ)」

またある日、修行僧が挨拶にやってきました。「ここに来たことはあるかね」「いいえ、ありません」「茶を飲んで出直してきなさい(喫茶去)」

そばにいた監院が尋ねました、「どうして初めての僧にも、前に来たことがある僧にも、喫茶去、とおっしゃたのですか」と。すると「監院和尚」「ハイ」「お茶を飲んで出直してきなさい(喫茶去)」

と、このように修行する主体であるそれぞれの自己に、目覚めを呼び起こしている言葉として使われています。

ですから、あまり優しく「どうぞお茶でもお飲みください」という感じではないようです。

しかし、喫茶去、の言葉の方が浸透していますので、それはそれとしまして、間違いというほどのこともないでしょう。ただ且坐喫茶さざきっさという言葉のほうが、「しばらくお座りになってお茶でもいかがですか」のニュアンスの言葉のようです。

たまたまインターネットの写真の中に、この文言のお軸がかかっているお茶席の風景を目にしました。

いよいよ師走で、皆さんもなんとなく忙しいのではありませんか。忙しい中にも「且坐喫茶」、ちょっとお茶をお飲みになるお時間をお楽しみくださいませ。

寒いですから、風邪にもご注意くださいませ。