風月庵だより

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夢で石仏が立ち上がったこと

2006-05-29 23:24:33 | Weblog
5月29日(月)晴れ暑し【夢で石仏が立ち上がったこと】

一昨日の朝、夢を見た。私はこの頃はほとんど夢を見た覚えがない。しかし夢は寝ている間、結構見ているのだそうだが、起きる前の夢しか覚えていないのだという話を聞いた。一昨日の夢はあまりに意外な夢であったので、跳び起きたのである。

白っぽい石でできている仏の坐像が突然立ち上がった。私はびっくりして傍らの兄に「お不動様が立ち上がった!」と叫んだ。今は亡き兄なのだが、その兄が右の傍らにいることに、夢のなかの私は全く違和感を持っていないようだ。兄も「立ち上がった」と言った。するとまたすぐに石仏は坐相になった。お不動様と瞬間的に夢の中で、反応していたが、そのお姿はいわゆるの剣を片手に持った形ではなかったようだ。

再びカッと目を開いて、石仏が立ち上がった。カット目を見開いた樣子が、夢の中の私に不動明王を思い起こさせたのであろう。「また立ち上がった」と私が言った。その言葉が終わらないうちに、また石仏は坐相に戻った。するとその傍らに、今は亡き師匠がお立ちになられていた。「どうしてお不動様は立ったのでしょうか」と、私が尋ねると、「それはな、この仏様の開眼をしたお坊さんが本当の坊さんだったからだろう」とお答えくだっさったのである。

私はその答えに、傍らの兄を見て、「あの仏様をご自分が開眼なさったこと、忘れているみたい」とつぶやいた。

そんな夢であった。兄の夢もめったに見ないし、師匠の夢もほとんど見ないので、パッと目が覚めて、そのことに不思議な気がした。開眼の夢を見せられるとは、私が未熟なことを師匠が心配なさって、活を入れに出てきて下さったのだろうか。僧侶としての修行が実に未熟であると、大いに反省をした。

本当におろそかに生きられないと、あらためて思った。師匠は死してもなお弟子のことを、しこんでいてくださるのだ、これは空からお見通しに違いないとも思ったのである。

一日たった昨日、ジャワ島の地震のことを気にかけているとき、「石仏が立ち上がった」夢のことをふと思ったら、不思議な符合を感じた。ボロブドゥールの石仏のことを思い出したら、夢のなかの石仏が似ていたことに気がついた。そしてボロブドゥール遺跡をお参りしたとき、石仏の傍らでなんとも言えない強いエネルギーを受けたことが思い起こされた。人間は地球と繋がっているのではなかろうか

一昨日の夢は、夢を見た時間と、地震のあった地域の石仏がたまたま符合しただけのことだが、それで何のお役に立つわけではないし、坊さんとして未熟な自分に気合いをいれることのほうに受けとめて、一昨日の夢判断は終わります。でもちょっと不思議な感じの夢でした。

今夜も被災地の人々は、眠られぬ夜を過ごされていることであろう。

ジャワ島中部地震

2006-05-28 21:55:09 | Weblog
5月28日(日)午前中雨午後より晴れ【ジャワ島中部地震】

昨日は夜までテレビを観なかったので、ジャワ島で昨日の朝に発生した地震について知らないで過ごしてしまった。今日までの発表によると4290人の方の死亡が確認されたという。私もジョグジャカルタに知人がいるので心配している。

ジョグジャカルの北西にある、ボロブドゥール遺跡を五年ほど前に訪ねたのであるが、その折りにお世話になったガイドさんの家族である。彼等はジョグジャカル市内に住んでいるのだが、果たして無事でいてくれるだろうか。

震源地はジョグジャカルタの南にあるバントゥルの方らしいが、ジョグジャカルタの市内の被害もかなりひどいという報道である。ネットではジョグジャカルタの東方にあるヒンドゥー教の寺院、プランバナンの石が、地震によって崩れ落ちているところの写真が写されていた。震源地からはかなり離れているところにも被害が及んでいるようである。

古都ジョグジャカルタは緑の美しい街であったと記憶している。美しい宮殿があったり、立派な大学があって学生たちもジャカルタに次いで多いところである。人口もジャワ島中部はジャワ島の西にあるジャカルタに次いで多いところではなかろうか。ジャワ島にはインドネシアの人口の六割が住んでいるといわれるので、この中部にも人口が密集していると思う。

頑丈な造りをしていない家並も多かったように覚えているが、それも被害を大きくしているかもしれない。これから被害の様子などが明らかになってくるであろうが、被害の少ないことを祈らずにはおれない。そして世界中からの救援が早く着いて下さいますように、と願わずにはおれない。私も些少ではあるが郵便局で、寄付をしたいと思う。テレビに写された少女のもとにパンの一つでも届けて頂ければ、有り難い限りだ。

ボロブドゥールの仏教遺跡は震源地からは離れているので、被害は少ないのではないかと、予想しているが、安山岩のブロックを積み上げて造られているので、はたしてどうであろうか。この遺跡は十九世紀の初頭に、ジャングルの地中に埋もれているのを発見されて二十年の歳月をかけて掘り出されたという謎の遺跡である。

釈尊の生涯や、ジャータカなどが刻まれたレリーフが回廊にはある。また『華厳経入法界品』に因んだパネルもある。中央の仏舍利塔を囲むように多くのストゥーパがあり、そのなかにはそれぞれ一体ずつ石造りの仏像が祀られている。私はこの石仏の傍らでなんともいえないエネルギーを受けた。

人間のことのほうが比較にならないほど大事であるが、ボロブドゥールのような、世界に貴重な遺跡も無事であってくれるとよいが、と祈らずにはおれない。自然の脅威の前に人間は無力である。このような大破壊が地球では時々起きてしまうのだから、人間自らが破壊するような愚行は少しでも慎まなくてはならないだろう。こんな時助け合うために、世界は富を蓄えておくのだと、思うことはできないものだろうか。

一瞬にして命を終えてしまった人々に哀悼の意を表します。

画家と詩人 ヘルマン・ヘッセ展

2006-05-27 18:00:04 | Weblog
5月27日(土)雨【画家と詩人 ヘルマン・ヘッセ展】

久しぶりに一日休みがとれた。世田谷文学館のヘルマン・ヘッセ展が明日までなので、思い切って母と出かけた。「何とか食べていけるの?」と心配してくれているような優しい高校時代の恩師が送って下さっていた招待券があったので、このような企画があることも知り、ヘッセ(1877~1962)に久しぶりに触れることができたのである。

ヘッセの作品はほとんど高校時代に読破していた。『車輪の下』 『デミアン』 『ナルチスとゴルトムント(知と愛)』そして『シッタルダ』等々。私の感性がまだみずみずしい頃、夢中になって読んだことを思い出す。出家してからも『シッタルダ』も読み返したし、師匠がお好きだと言われた『デミアン』なども読み返している。

思えば私の感性も、ヘッセによってもどれほど育てられたか分からないと言えよう。世界中の多くの人が影響を受けた作家であり、詩人である。しかし、その人の画家としての一面には全く触れることなくきていたが、今日は、お陰様で、ヘッセが描いた、やわらかな、透き通るように澄んだ、あたたかい、静かな、そんな水彩画に出逢ってこられた。ヘッセは2000枚近い水彩画を残したという。


このような企画が明日で終わりなので、もっと早くにご紹介できればよかったのであるが、東京在住の方で、明日いらっしゃれる方は、是非。(会場で名古屋からこのために来られたという人に出会った。)

世田谷文学館:京王線芦花公園駅南口から徒歩5分
       10時~6時(但し入場は5時半まで)


*絵はお見せできませんが、詩を写してきましたので、ご鑑賞下さい

老いてゆく中で
若さを保つことや善をなすことはやさしい
すべての卑劣なことから遠ざかっていることも
だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと
それを学ばなくてはならない

それができる人は老いてはいない
彼はなお明るく燃える炎の中に立ち
その拳の力で世界の両極を
曲げて折り重ねることができる

死があそこに待っているのが見えるから
立ち止まったままでいるのはよそう
私たちは死に向かって歩いて行こう
私たちは死を追い払おう

死は特定の場所にいるものではない
死はあらゆる小道に立っている
私たちが生を見捨てるやいなや
死は君の中にも入り込む

『人は成熟するにつれて若くなる』(岡田朝雄訳 草思社)所収

すべての人間の生活は
自己自身への道であり
一つの道の試みであり
一つのささやかな道の暗示である
どんな人もかつて完全に彼自身ではなかった
しかしめいめい自分自身になろうと努めている
ある人はもうろうと
ある人はより明るくめいめい力に応じて

『デミアン』(高橋健二訳 新潮文庫)所収

ヘルマン・ヘッセ年譜
1877年 7月2日、ドイツの北の町、カルプに生まれる。
1891(14才)難関を突破し州試験に合格。マウルブロン神学校に入学する。
1892(15才)高等学校に入学するが、退学してしまう。失恋による自殺未遂。
1895(18才)チュービンゲンの書店の見習い店員となる。
1899(22才)スイスにあるバーゼルの書店に移る。 
1904(27才)小説『ペーター・カーメンチント(郷愁)』を出版。
         一躍人気作家となる。
         マリーア・ベルヌーリと結婚。ボーデン湖畔ガイエンホーフェンに移住。
1905(28才)『車輪の下』出版。
1909(31才)この頃から絵を描き始める。
1911(34才)マレー・セイロン・スマトラに旅行する。この年三男が産まれる。
1912(35才)スイスのベルンに移住。
1914(37才)第一次世界大戦。兵役に志願するが、近視のため不合格になる。反戦。
1916(39才)『青春は美わし』出版。捕虜のために人道的な見地から闘う。
         この頃、父の死や、妻の精神病悪化。ヘッセ自身も神経症の治療をうける。
1917(40才)『デミアン』を執筆。2年後出版。
1919(42才)イタリア国境に近いモンタニョーラに移住。
1920(43才)『シッタルダ』執筆。翌年出版。
1923(46才)マーリアと離婚。
1924(47才)ルート・ヴェンガーと結婚。
1927(50才)ルートと離婚。『荒野の狼』出版。
1931(54才)友人が建ててくれた家(カーサ・ヘッセ)に移り住む。
         ファンでもあったニノン・アウスレンダーと結婚。彼女と終生を共にする。
(*50才以降も多くの詩集や作品を発表し続ける。)
1946(69才)ノーベル文学賞受賞。
1962(85才)8月 モンタニョーラの自宅、カーサ・ヘッセで永眠。

*『ヘッセの水彩画』(平凡社2004年刊)に載せられた年譜をもとに、さらに簡単にした年譜を紹介したが、ヘッセの生涯も特に若い頃はたやすいものではないし、おちこぼれとも言える。(この表現お許しを。そう言われる若者を勇気づけたいのだ。)また詩人の魂は孤独との戦いであったろう。我々も社会のレールに乗れなかったと言っても、ヘッセに勇気づけられて、詩人の魂を失わずに生きていこう。詩人の魂は誰にでもある。詩人の魂とは、天地から頂いたこの命を信じつづける心と、私は言おうか。詩人の魂とは、なにか、それぞれの言葉があると思いますが。

*ヘッセの従兄弟(母方の叔父の息子)ヴィルヘルム・グンデルトに『碧巌録』のドイツ語訳がある。

前出師表-恩義の世界に生きる

2006-05-26 18:45:22 | Weblog

5月26日(金)曇り【前出師表-恩義の世界に生きる】

21日のブログに「出師の表」について書かせて頂いた。たまたま宋代の武将、岳飛が揮毫した「前出師の表」がプリントされたスカーフを頂いたので、その部分だけ訓読を紹介させてもらった。しかしどうも中途半端な感じがあるのと、私淑する井波律子先生の『三国志演義』のなかに「前出師の表」の訳文があったので、(『三国志』関係の本の中にこの表があるのは、当然のことなのだが、21日の時点では見落としていたのである。)一応全文の訓読と、先生の訳文を、原文と対比させながら載せさせて頂きたい。

もっと仏教的なものを載せた方がよいのであろうが、21日のブログが中途なので、きりをつけさせて頂きたい。吉川英治氏の『三国志』を若い頃に読んで、諸葛亮の活躍や、関羽や張飛の活躍に感激したのであるが、所詮は封建社会の、魏、呉、蜀三国の領土争いの話しである。諸葛亮が丞相を勤める蜀の立場から読めば、他国の者は全て逆賊となる。蜀も他国から見れば逆賊である。

学生運動を若い頃盛んにやっていた私の友人がいる。二年ほど前に会ったとき、中国のチベット占領について、「あれはひどいのではないか」と私が言ったところ、「僧侶が貴族化していたのだから、それから人民を解放してやったのだ。」という答が返ってきた。私はダライラマの側からみるが、友人は中国政府の側から見ているわけである。どの位置から見るかによって、逆賊の立場は変わるものである。

諸葛亮は先帝劉備玄徳に三顧の礼をもって迎え入れられたことの恩義に報いるためにも、後をまかされたことに大いに責任を感じているのである。先帝の息子劉禅には劉備ほどの器量がないことは分かっているので、自分の命のある間になんとか蜀の領土を拡大し、覇権を劉禅におさめさせたい一心なのである。それが表されているのが、「出師の表」である。

自分の力を認め、見出してくれた人への恩義を『三国志』に描かれる武将たちほどに、深く感じ入ることは世に少ないだろう。『三国志』を愛する人々はそこに魅了されるのであろう。「千里の馬は常にはあれども、伯楽は常には有らず。 (千里馬常有、而伯楽不常有。-韓文公「雑説下」所収 )」とも言う。諸葛亮もこの世で劉備という伯楽に出会った喜びが、いかなる艱難辛苦に遭おうとも、それをものともさせないほどのものなのである。

諸葛亮は、酷暑の南方征伐で、南蛮王孟獲と激烈な戦いをし、ようやく制圧して帰還し、休む間もなく、魏が勢力を伸ばしている中原を伐ちに行こうとしているのである。身命をなげうって、恩義を感じて生きる人間のロマンを「出師の表」に見てみよう。現代において、恩義を感じて生きられるような幸せな人間はどれほどいるだろうか。(師は軍隊のこと。表は上表文)

ライブドア事件でも堀江貴文氏に恩義を感じられなかった宮内亮治氏等はさぞや残念であったろう。ともに世界一の会社を作ろうと夢見た同志であったろうが、劉備でもなく諸葛亮でもなかった。その人のために生きるための義も無く、生かす器量も無かったことが、お互いに分かったということだろう。この人の為なら死ねるとまで思えたなら、それは富を手に入れる以上の喜びであったろう。案外そんな熱い思いを持ちたいと、今の若者たちも思っているのではあるまいか。(たまたま今日はライブドアの宮内氏の公判が開かれたようだ。)

〈原文〉
前出師表 臣亮言。先帝創業未半、而中道崩殂。今天下三分、益州疲弊、此誠危急存亡之秋也。然侍衞之臣、不懈於内、忠志之士、忘身於外者。蓋追先帝之殊遇、欲報之於陛下也。誠宜開張聖聴、以光先帝遺徳、恢弘志士之氣。不宜妄自菲薄、引喩失、義以塞忠諫之路也。

〈訓読〉
前出師の表
 臣亮言う、先帝創業未だ半ばならざるに、中道に崩殂(ほうそー崩御に同じ)したまう。今、天下三分して益州疲弊せり。これ誠に危急存亡の秋なり。然れども侍衛の臣、内に懈(おこた)らず、忠志の士、身を外に忘るる者は蓋し先帝の殊遇(しゅぐうー特別のてあつい待遇)を追って、これを陛下に報いんとするものなり。誠に宜しく聖聴(せいちょうー天子の耳)を開張し、以て先帝の遣徳を光(かがや)かし、志士の気を恢弘(かいこうーひろめること)すべし。宣しく妄りに自ら菲薄(ひはくー才能や徳が乏しいこと)し、喩(たとえ)を引いて義を失い、以て忠諌(ちゅうかんーまごころからのいましめ)の路を塞ぐべからざるなり。
〈井波先生の訳〉
 臣(わたくし)諸葛亮が申し上げます。先帝(劉備)は始められた事業がまだ半分にも達しないのに、中道にしておかくれになりました。今、天下は三国に分かれ、益州(蜀)は疲弊しきっております。これはまことに危急存亡の瀬戸際です。さりながら、近侍の文官は内で職務に精励し、忠実な臣下は外で身を粉にしております。思いますに、これは先帝の格別のご恩顧を追慕し、陛下にお報いしようと願っているからにほかなりません。陛下はまさに御耳を開き、先帝のお残しになった徳を輝かせて、志ある者の気持ちをのびのびと広げられるべきです。みだりに自分を卑小な者とみなし、誤った比喩を引用して道義を失い、臣下の忠言や諌言の道を閉ざしてはなりません。


〈原文〉
 宮中府中、倶為一體。陟罰臧否、不宜異同。若有作奸犯科、及為忠善者、宜付有司、論其刑賞、以昭陛下平明之治。不宜偏私、使内外異法也。
 侍中・侍郭攸之・費禕・董允等、此皆良實、志慮忠純、是以先帝簡拔以遺陛下。愚以為宮中之事、事無大小、悉以咨之、然後施行、必能裨補闕漏、有所廣益。

〈訓読〉
 宮中・府中倶(とも)に一体為り。臧否(ぞうひ)を陟罰(ちょくばつ)するに宜しく異同あるべからず。若(も)し奸(かん)を作(な)し、科(とが)を犯し、及び忠善を為す者有らば、宣しく有司に付して、其の刑賞を論じ、以て陛下平明の治を昭(あきら)かにすべし。宜しく私に偏(かたよ)り、内外をして法を異にせしむべからざるなり。
 侍中・侍郎の郭攸之(かくゆうし)・費禕(ひい)・董允(とういん)等は、これ皆な良実、志慮忠純なり。是を以ちて先帝簡抜して以て陛下に遣(のこ)せり。愚、以為(おもえらく)宮中の事、事に大小無く、悉(ことごと)く以て之に咨(はか)り、然る後に施行せば、必ず能く闕漏(けつろう)を稗補(ひほ)し、広く益する所有るなり
〈井波先生の訳〉
 宮廷と政府が一体となり、善悪の評価や賞罰に食い違いがあってはなりません。もし、悪事をなして法を犯す者がいたり、また忠義や善事をなす者がいれば、当該官庁に付託して、その刑罰や恩賞を判定させ、陛下の公平な政治を明らかにされるべきであり、私情に引きずられて、内(宮廷)と外(政府)で法を異にするようなことがあってはなりません。
 侍中・侍郎の郭攸之(かくゆうし)・費禕(ひい)・董允(とういん)らは、みな善良・忠実で、志は忠義・純粋であります。このために、先帝は抜擢なさって陛下のもとにお残しになったのです。思いますに、宮中の事柄は大小を問わず、ことごとぐ彼らに相談なさってから実施なさったならば、必ずや手落ちを補い、広い利益が得られるでありましょう。


〈原文〉
 將軍向寵、性行淑均、曉暢軍事。試用於昔日、先帝稱之曰能、是以衆議舉寵為督。愚以為營中之事、事無大小、悉以咨之、必能使行陣和睦、優劣得所。
 親賢臣遠小人、此先漢所以興隆也。親小人遠賢臣、此後漢所以傾頽也。先帝在時、毎與臣論此事、未嘗不歎息痛恨於桓靈也。侍中・尚書・長史・參軍、此悉貞亮死節之臣也。陛下親之、信之、則漢室之隆、可計日而待也。

〈訓読〉
将軍の向寵(しょうちょう)は、性行淑均(しゅくきん)にして、軍事に暁暢(ぎょうちょう)す。昔日に試用せられ、先帝之を称して能と曰えり。是に衆議を以て寵を挙げて督(とく)と為す。愚、以為、営中の事は、事に大小無く、悉く以って之に咨れば、必ず能く行陣和睦させ、優劣をして所を得せしめんと。
 賢臣に親しみ小人を遠ざけしは、此れ先漢の興隆せし所以(ゆえん)なり。小人に親しみ賢臣を遠ざけしは、此れ後漢の傾頽(けいたい)せし所以なり。先帝在りし時、臣と此の事を論ずる毎(たび)に、未だ嘗(かつ)て桓霊に歎息痛恨せざることあらざりき。侍中・尚書・長史・参軍、此れ悉く貞亮(ていりょう)にして節に死するの臣なり。陛下之に親しみ、之を信ぜられたまえ。則ち漢室の隆(さかん)なるこ、日を計りて待つべきなり。
〈井波先生の訳〉
 将軍の向寵(しょうちょう)は性格や行為が善良・公平で、軍事に通暁しており、かつて試みに用いて見ましたところ、先帝は有能だとおっしゃいました。このために、人々の意見によって、向寵は督(司令官)に推挙されました。思いますに、軍中の事柄は大小を問わず、ことごとく彼に相談なさったならば、必ずや軍隊を仲むつまじくさせ、優れた者も劣った者もそれぞれ適当な働き場所を得るでありましょう。
 賢明な臣下に親しみ小人物を遠ざけたことが、前漢の興隆した原因であり、小人物に親しみ賢明な臣下を遠ざけたことが、後漢の衰退した原因です。先帝ご在世のみぎり、私とこのことを議論なさるたびに、桓帝・霊帝(いずれも後漢末の皇帝)に対して、嘆息され痛恨なさったものです。侍中・尚書・長史・参軍はみな誠実・善良で、死んでも節を曲げない者ばかりです。どうか陛下には彼らを親愛なされ、信頼なさってください。そうすれば、この漢室(蜀を指す)の隆盛は、日を数えて待つことができるでしょう。


〈原文〉
臣本布衣、躬耕南陽、苟全性命於亂世、不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於草廬之中、諮臣以當世之事。由是感激、遂許先帝以馳驅。後値傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之間。爾來二十有一年矣。
〈訓読〉
臣、本、布衣(ふい)にして、躬(みずか)ら南陽に耕し、荀くも性命を乱世に全うせんとして、聞達(ぶんたつ)を諸侯に求めず。先帝、臣の卑鄙(ひひ)なるを以てせず、猥りに自ら枉屈(おうくつー貴人が身を屈しへりくだって来訪すること)して三たび臣を草廬の中に顧み、臣に諮(はか)るに当世の事を以てす。是に由りて感激し、遂に先帝に許すに駆馳(くち)を以てす。後、傾覆(けいふくー国が覆ること)に値(あ)い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。爾来二十有一年なり。
〈井波先生の訳〉
 私はもともと無官の身であり、南陽(湖北省襄樊市)で農耕に従事しておりました。乱世に生命を全うするのがせいぜいで、諸侯の間に名が知られることなど願っておりませんでした。先帝は私を身分卑しき者とみなされず、みずから辞を低くして三度も私を草廬のうちにご訪問くださり、当代の情勢についておたずねになりました。これによって感激し、先帝の手足となって奔走することを承諾したのです。その後、、天地がくつがえるような大事件がおこり、戦いに敗北したさい、大任を受け、危難のさなかにご命令を奉じてから、二十一年が経過しました。


〈原文〉
 先帝知臣謹愼、故臨崩(岳飛の字、終)寄臣以大事也。受命以來、夙夜憂慮、恐付託不效、以傷先帝之明。故五月渡瀘、深入不毛。今南方已定、甲兵已足、當奬帥三軍、北定中原、庶竭駑鈍、攘除姦凶、興復漢室、還於舊都。此臣所以報先帝而忠陛下之職分也。至於斟酌損益、進盡忠言、則攸之・禕・允之任也。
〈訓読〉
 先帝、臣の謹慎なるを知りたまい、故に崩ずるに臨み臣に寄するに大事を以てせんとす。命を受けて以来、夙夜(しゅくや)憂歎(ゆうたん)し、託付の效あらずして、以て先帝の明を傷うことを恐る。故に五月、瀘を渡り深く不毛に入りしなり。今、南方已に定まれり。甲兵已に足る。当に三軍を奨帥(しょうそつーはげまし率いる)し、、北のかた中原を定むべし。庶(こいねが)わくば駑鈍(どどん)を竭(つく)し、姦凶(かんきょう)を壤除(じょうじょー攘除)し漢室を興復し旧都に還さんことを。此れ臣が先帝に報いて陛下に忠なる所以の職分なり。損益を斟酌し忠言を進め尽すに至りては、則ち攸之(ゆうし)・(い)・允(いん)の任なり。
〈井波先生の訳〉
 先帝は私の謹み深い点をお認めになり、崩御なされるにあたって、私に国家の大事をおまかせになりました。ご命令をお受けしてから、私は日夜憂慮し、委託されたことについてなんら功績をあげることなく、先帝のご聡明さを傷つけることになるのではないかと、恐れおののいてまいりました。このため、五月に濾水を渡り、深く不毛の地に進み入った次第です。現在、南方はすでに平定され、軍備も完備いたしました。まさに三軍を率い、北方中原の地を奪回すべきときです。願わくは愚鈍の才を尽くし、凶悪な者どもを追い払って、漢王朝を復興し、旧都(洛陽)を取りもどしたいと存じます。これこそ、私が先帝のご恩に報い、陛下に忠節を尽くすために果たさねばならない責務です。国家の利害を斟酌し、進み出て忠言を尽くすのは、郭攸之・費禕・董允の任務であります。


〈原文〉
 願陛下託臣以討賊興復之效、不效則治臣之罪、以告先帝之靈。若興無言則責攸之・禕・允等之咎、以彰其慢。陛下亦宜自謀、以諮諏善道、察納雅言、深追先帝遺詔。臣不勝受恩感激、今當遠離、臨表涕泣、不知所云。
〈訓読〉
願わくば陛下、臣に託するに討賊・興復の效を以てせよ。效あらずんば則ち臣の罪を治め、以て先帝の霊に告げ、若し興の言無くんば則ち攸之(ゆうし)・禕(い)・允(いん)等の咎を責め、以て其の慢を彰(あらわ)せ。陛下も亦た宣しく自ら謀り、以て善道を諮諏(ししゅ)し深く先帝の遣詔を追い、雅言を察納し深く先帝の遣詔を追うべし。 臣、恩を受くる感激に勝(た)えず。今、遠く離るるに当り、表するに臨みて涕泣し、言う所を知らず。、
〈井波先生の訳〉
 どうか陛下におかれましては、私に逆賊を討伐し、漢王朝を再興する功績をあげさせてください。もし功績をあげられなければ、私の罪を処断して、先帝の御霊(みたま)にご報告ください。また、もし陛下の徳を盛んにする言葉がなければ、郭攸之・費禕・董允の咎(とが)を責め、彼らの怠慢をはっきりお示しになってください。陛下もまたよろしくみずからお考えになって、臣下に正しい道理をおたずねになり、正しい言葉を判断のうえお受け入れください。どうか深く先帝の遺詔(いしよう)を思い起こされますように。私は先帝の大恩を受けた感激に堪えません。今、遠く離れて出征するにあたり、この表を前にして涙があふれ、申し上げる言葉を知りません。


*原文は『大漢和』による。
*訓読については、力及ばざるところは、ネットより「古代史獺祭」のお助けを借りた。「古代史獺祭」と、私の訓読とは異なる箇所もある。
*訳文は井波律子先生の『三国志演義』(ちくま文庫)六巻125頁から128頁に掲載されたものを原文と対照させて掲載させて頂いた。

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女子高生に睨まれて

2006-05-24 12:27:33 | Weblog
5月24日(水)晴れ【女子高生に睨まれて】
 
昨日の帰りのバスでの出来事。私の住んでいる街の駅から狭い商店街と住宅街を通り抜けて隣の駅の間を循環しているバスがある。通常のバスよりは一回り小さいバスである。それぞれの家の近くにバス停があるので利用客が割合に多い。特に老人には好評なようで、乗客は若い人よりも老人の方が多いようである。

昨日も小型バスはほぼ満員状態であった。座れるところはないものかと見ると、二人がけの座席に女子高生が一人座り、その横の席は黒のビニールバッグが占領していた。「これ、あなたの?」と私は女子校生に尋ねた。女子高生は「それがなんなのよ」という目つきで私を見た。「座らせてね」と私は言った。

女子高生は私を睨んだが、それでもバッグを自分の膝の上に置き直してくれたので、席が一つ空いた。私は立っている老人に勧めたが、「いやいや、あなたがどうぞ」と言われるので、紳士の言に従って座らせて貰った。(私も老人のうちであるが)女子高生はむっとした樣子で外を眺めている。

はてさてどうしたものだろうか。座席に自分の荷物を置いて平気な顔をしているのは、中年のおばさん、という記事を読んだことはあるが、女子高生が混んだバスのなかで、老人が立っているにも拘わらず、のうのうと座り、それだけではなく自分の荷物で無神経に座席を占領しているとは。困ったことだと、正直思った。それにつけても、女子高生に睨まれるとは、これも驚きであった。このごろは簡単に切れる子がいて、すぐにグサリという事件があるので、私も正直言いましてビビリました。

時々女子高生にはお節介をしている庵主であるが、女子高生に睨まれる経験は、はじめてのことである。先日も電車の中で前に座った女子高生に、お節介をした。足が長いので膝を合わせていないと、どうしても奥まで見えてしまうのである。それが三人も並んでいると、実に壮観である。(失礼)女性でも目のやり場に困ってしまうほどである。

そこで、「あなた方の足は素敵に長いので、お膝を合わせないと丸見えよ」と側に行ってそっと申し上げたのである。(ちょっと男性の敵であろう。)彼女たちは可愛らしく笑って「有り難う」と言った。私が電車から降りるときも「有り難うございました」とさえ言ってくれた。そんなことで、私にはあまり睨まれるような経験はなかったのである。

バスで隣り合わせた女子高生も、見れば、あどけなさの残る可愛い子である。私も睨まれるような言い方はしていないし、混んだ座席に荷物を置くことは明らかに間違いであるし、ましてよその大人を睨むなどと、このお嬢さんはどうしたのだろう。なにか嫌なことが学校であったとしても、このような反応は普通ではない。なにか彼女の生活に睨まなくてはいられないようなことがあるのではなかろうか。

このまま黙ったままでは別れ難いと思った。お節介おばさんとしては何か一言言って別れたい、と思った。このあどけない顔をしたお嬢さんが、本当はあどけない可愛いらしさが素直に出せるような一言を言えないものだろうか。まもなく私の降りるバス停だ。「年寄りに席を空けてくれて有り難う」と言おうか。いやいやそれでは大人が卑屈になる。大人が卑屈になってはならない。

バス停に着いた。私は女子高生の顔を覗き込んで言った。「有り難うね。またね。」と。女子高生の顔に、ちょっと柔らかい表情が走ったように私は感じた。また会ったとき、笑って「こんにちは」と挨拶を交わせるかもしれない。また女子高生は年寄りに席を空けようという気になってくれるかもしれない。

可愛らしい女子高生の日々が、笑いで満ちあふれるようになりますように


三国志-出師の表

2006-05-21 20:59:36 | Weblog

5月21日(日)晴れ【三国志-出師の表】

上海から帰ってきた中国人の友人から、絹のスカーフをおみやげにもらった。岳飛の筆になる『出師(すいし)の表』が書かれたものの写しである。岳飛といえば宋代の有名な武将である。宋王朝は金の侵略によって南下させられたが、岳飛は南宋に仕えて、たびたび金を破った英雄である。しかし秦檜(しんかい)の謀略によって獄死した非業の将軍でもある。因みに公案禅を鼓舞した大慧宗杲(1089~1163)も秦檜によって流刑の目に遭っている。

兵法に精通した武将が、見事な筆を揮っていることに、あらためて感心した。蜀の軍略家、諸葛孔明(亮)の赤心を表した名文であれば、武将岳飛が筆を揮う意味はさらに深いものがある。出師表とは、軍隊を出すについての上表文であるが、単に出師表といえば、その名文をもって諸葛孔明の出師表のことをいうようだ。建興五年(227)、北伐(魏)に向かうにあたって、蜀の皇帝劉禅に奉ったものである。

建興六年にも出師表が出されたと『三国志演義』などにはあるようだが、正史の『三国志』にはないので、後世の偽作とされているようだ。五年に出されたものを前出師表といい、六年のを後出師表と呼んでいる。私が勝手に私淑している井波律子先生が全訳を出された『三国志演義』の中に前出師表の訳は無いかと探したが、後出師表の方は載っていたが前の方は残念ながら見つけられなかった。(*「前出師の表」は井波先生の『三国志演義』6巻125~128頁に掲載されていました。失礼しました。先生の訳文をもとにまた後日このブログに訳を書き足しますので、興味のある方は二週間後ぐらいにこのブログをご訪問下さい。)**26日のブログに全文を掲載しました。 

三顧の礼をもって劉備玄徳に迎えられたことに、深い恩義を感じている諸葛孔明の臣としての赤心が表されている上表文に、涙しない者は無かったという。『三国志』の世界における、人のまことを岳飛の筆を頼りに味わってみたい。(『大漢和』の活字を参考にする。)

〈原文〉
前出師表
臣亮言。先帝創業未半、而中道崩殂。今天下三分、益州罷(岳飛の字は疲に見える)敝、此誠危急存亡之秋也。然侍衞之臣、不懈於内、忠志之士、忘身於外者。蓋追先帝之殊遇、欲報之於陛下也。誠宜開張聖聴、以光先帝遺徳、恢弘志士之氣。不宜妄自菲薄、引喩失義、以塞忠諫之路也。

〈読み下し文〉
前出師の表
臣亮言う、先帝創業未だ半ばならざるに、中道に崩殂(ほうそー崩御に同じ)したまう。今、天下三分して益州疲敝(弊)せり。これ誠に危急存亡の秋なり。然れども侍衛の臣、内に懈(おこた)らず、忠志の士、身を外に忘るる者は蓋し先帝の殊遇(しゅぐうー特別のてあつい待遇)を追って、これを陛下に報いんとするものなり。誠に宜しく聖聴(せいちょうー天子の耳)を開張し、以て先帝の遣徳を光(かがや)かし、志士の気を恢弘(かいこうーひろめること)すべし。宣しく妄りに自ら菲薄(ひはくー才能や徳が乏しいこと)し、喩(たとえ)を引いて義を失い、以て忠諌(ちゅうかんーまごころからのいましめ)の路を塞ぐべからざるなり。

〈省略〉
(*岳飛の墨跡はここより省略されている。宮中府中、倶爲一體。陟罰臧否、不宜異同。若有作奸犯科、及爲忠善者、宜付有司、論其刑賞、以昭陛下平明之治。不宜偏私、使内外異法也。侍中・侍郭攸之・費禕・董允等、此皆良實、志慮忠純、是以先帝簡拔以遺陛下。愚以爲宮中之事、事無大小、悉以咨之、然後施行、必能裨補闕漏、有所廣益。將軍向寵、性行淑均、曉暢軍事、試用於昔日、先帝稱之曰能、是以衆議舉寵爲督。愚以爲營中之事、事無大小、悉以咨之、必能使行陣和睦、優劣得所。親賢臣、遠小人、此先漢所以興隆也。親小人、遠賢臣、此後漢所以傾頽也。先帝在時、毎與臣論此事、未嘗不歎息痛恨於桓靈也!侍中・尚書・長史・參軍、此悉貞亮死節之臣也。陛下親之、信之、則漢室之隆、可計日而待也。*ここまで省略されている。)

〈原文〉
臣本布衣、躬耕南陽、苟全性命於亂世、不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於草廬之中、諮臣以當世之事。由是感激、遂(岳飛にこの字有り)許先帝以馳驅。後値傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之間。
〈読み下し文〉
臣、本、布衣(ふいー官位のない人、庶民)にして躬(みずか)ら南陽に耕し、荀くも性命を乱世に全うせんとして、聞達(ぶんたつー名が世間に聞こえ表れること)を諸侯に求めず。先帝、臣の卑鄙(ひひーいやしいこと)なるを以てせず、猥りに自ら枉屈(おうくつー貴人が身を屈しへりくだって来訪すること)して三たび臣を草廬の中に顧み、臣に諮(はか)るに当世の事を以てす。是に由りて感激し、遂に先帝に許すに駆馳(くちー車馬を馳せること)を以てす。後、傾覆(けいふくー国が覆ること)に値(あ)い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。

〈原文〉
爾來二十有一年矣。先帝知臣謹愼、故臨崩(岳飛の字、終)寄臣以大事也。受命以來、夙夜憂慮、恐託付不效、以傷先帝之明。故五月渡瀘、深入不毛。今南方已定、甲兵已足、當奬帥三軍、北定中原、庶竭駑鈍、攘除姦凶、興復漢室、還於舊都。
〈読み下し文〉
爾来二十有一年。先帝、臣の謹慎なるを知りたまえり。故に崩ずるに臨み臣に寄するに大事を以てせんとす。命を受けて以来、夙夜(しゅくやーあさゆう)憂歎(ゆうたん)し、託付の效あらずして、以て先帝の明を傷うことを恐る。故に五月、瀘を渡り深く不毛に入りて、今、南方已に定まれり。甲兵已に足る。当に三軍を奨帥(しょうそつーはげまし率いる)し、、北のかた中原を定むべし。庶(こいねが)わくば駑鈍(どどん-才が鈍く智恵の足りないこと)を竭(つく)し、姦凶(かんきょうー悪巧みをする悪者)を壤除(じょうじょー攘除、はらい除く)し漢室を興復し旧都に還さんことを。

〈省略〉
(*ここより岳飛は省略)此臣所以報先帝而忠陛下之職分也。至於斟酌損益、進盡忠言、則攸之・禕・允之任也。願陛下託臣以討賊興復之效、不效則治臣之罪、以告先帝之靈。則責攸之・禕・允等之咎、以彰其慢。陛下亦宜自謀、以諮諏善道、察納雅言、(*ここまで省略)

〈原文〉
深追先帝遺詔。臣不勝受恩感激!今當遠離、臨表涕泣、不知所云。岳飛
〈読み下し文〉
深く先帝の遣詔を追う。 臣、恩を受くる感激に勝(た)えず。今、遠く離るるに当り、表するに臨みて涕泣し、言う所を知らず。

岳飛の書(スカーフ)はあまりにみごとな行草書なので、『大漢和』の助けがなくては読めなかった。三カ所ほど明らかに『大漢和』の字と違うところもある。手本とする書の違いであろう。また頂いたスカーフは全てが書かれていないのであるが、果たして岳飛の書いたもともとの書は、出師表を省略したものなのだろうか。またはこのスカーフのもとは、西安の碑林にでも保存されている石に彫られたものかもしれないので、もともとの岳飛の墨跡を敢えて石に彫るのに際して省略しているのかもしれない。そのことについての知識がないのでご容赦。

訳はつけないが、読み下し文を省略したところには、人材を大事にすることが述べられている。若い皇帝を残して、北伐に出かける諸葛孔明の危惧が表されているのである。どの時代にも大事なのは人材であろう。そしてすぐれた人材を見抜けないと国は滅びるのである。狡獪な秦檜の言を入れて、岳飛のような真実のある人物を死に追いやった南宋もまもなく滅びることになるのである。

日本もまことの人材を見抜けないと、危ういことになる。三国志の時代は人材を選ぶのは皇帝や重臣であるが、今の日本国は誰であろう。決して首相ではない。われわれ国民一人一人にその権利があることを自覚しようではないか。三顧の礼をもって迎えたいようなまことの政治家は果たしてどなた様なのであろうか。経済ばかりが先行する社会は子どもの社会である。経済に動かされず、経済を動かせる理念のある大人の社会にしなくてはならない。人の世の道を知る、人類の遠い先を見通せるような人物が、政界にも、経済界にも出てくれますように。

『三国志』は単なる戦の書ではない。義に生きる姿を学ばせてもらうことができる書である。社会でまことの活躍をしたいと願う人には学んでもらいたい書である。

三顧の礼:蜀の劉備が三度諸葛亮の廬(いおり)を訪ねて遂に軍師として迎えた故事。そのことから目上の人が礼を厚くして、人に仕事を引き受けてくれるように頼むこと。単に目上、目下に拘わらずに使う場合もある。

碑林:中国西安市の孔子廟にある二千三百余基の碑石および陳列所のこと。ここで関羽が曹操に捕らえられたとき、劉備に送った竹の絵が書かれた書簡の碑を見たことがある。西安碑林が名高いが、ほかにもある。

井波律子先生:中国文学者。また項をあらためて後日ご紹介をしたい。


教育を考える、その5-可愛い子には蟻を殺させることなかれ・熏習ということ

2006-05-19 17:23:26 | Weblog
5月19日(金)雨後曇り【教育を考える、その5-可愛い子には蟻を殺させることなかれ・熏習ということ】

この頃幼い子どもが犧牲になる事件が多すぎる。一昨日も秋田で 米山豪憲君という七歳の少年が犧牲になってしまった。本当に日本はどうなってしまったのであろうか。ほんの二十年前でも、これほどに酷くはなかったのではなかろうか。殺人を犯す人々は生まれついて殺人鬼ではあるまい。後天的ななんらかの要因が、幼いときには可愛らしかった少年たちを殺人鬼に仕立て上げてしまったのではなかろうか。

本当に教育を真剣に考え直さなくてはならない。どこか、なにかが間違っていることは明白である。教育基本法の表面的なことばかりに、時間とお金をかけて議論の為の議論をしている余裕はどこにもない。多くの殺人者たちをその幼年時代から調査をして、どこに問題が有るか探る必要がある。人権などというのなら、殺された子供たちの人権を第一としてもらいたい。


先日お墓でのお参りの時に、幼ない子が蟻を追いかけて、手にした石でつぶそうとした。「ダメだよ、そんなことをしては」と私は急いで其れを制した。坊やはびっくりして、キョトンという顔をした。「あのね、アリさんもね、僕と同じように生きているんだよ。」「だからね、ころしちゃいけないんだよ。」「わかった?」と言うと、坊やは 頷いた。

生き物を殺してはいけないということに、理屈は不用である。理屈抜きに、そのようなことはしてはいけないことなのだ。小さいうちから、虫でも蟻でもなんでも、子どもが面白がって殺そうとするとき、そのたびに生き物を殺してはならないことを、言い聞かせる必要があるのではなかろうか。命の大事なことを言い聞かせる必要があるのではなかろうか。

諭すべき大人が、不用意にテーブルの虫を捻りつぶしている情景をよく目にする。ブータンという国では、ゴキブリでもテーブルの上に這ってきたら、そっとどけてあげることが徹底しているという。

寺子屋をしているとき、小学生から高校生まで教えていたが、その時に蚊の生け捕り方法を子供たちに伝授した。飛んでいる蚊をいかにして上手に捕まえて、外に逃がすか、ちょっとしたコツが分かれば、生け捕りは簡単である。でもあまりにひどく血を吸われているときは、おもわずバチリとやるときもあるが。

子供たちに勉強も教えたが、草取りやトランプやボール投げやら、勉強以外のこともいろいろみんなで楽しんだ。その子たちが大きくなって、お墓の草取りに来たとき、蟻を殺そうとしたお祖母ちゃんに、「だめだよ、蟻を殺したら、蟻だって生きてるんだから」と言ったのだという。庵主さんに小さい時に教えられたのだそうですよ、と言ってお祖母ちゃんは笑っていた。

小さいときから、何が人間として、してはならないことか、しなくてはならないことか、教えこむ事が大事じゃなかろうか。蟻をつぶそうとする度ごとに、虫を殺そうとする度ごとに、それはいけないこととして、教え込むこと。これを仏教的には熏習(くんじゅう)と言う。洗脳という表現より素敵であろう。小さなことの積み重ねであるが、子どもの心が優しく育つように、〈熏習〉に心がけたいものである。

二十年前をあらためて振り返ってみると、あの頃は小学生の自殺が多かったことが思い出される。寺子屋の子供たちと、いじめで自殺した子供たち、鹿内君という少年もいたと思うが、彼らの冥福を共に祈ったことを思い出す。自ずと命について皆で考えた。

勉強は二の次でもかまわない。とにかく戦後、特にバブル期以後の教育は大きな間違いを犯していることは、確かである。子どもを取り巻く環境全てを含んで、改めて教育を見直そう。宝物の子どもたちのために。


熏習:香の匂うこと。香を薫じると元々香りのなかった衣服にも香りが漂うように、われわれの身体やことばや心の動きの残留する影響作用。習慣によって心に染みついたもの。習慣性。唯識学派では、無表業(表面には表れない行為)が種子をアーラヤ識に植えつけること。われらの心に起こる善悪の言動と、意に起こる善悪の思想は必ず種子が自己の心の本体(アーラヤ識)に残留する作用とする。

*バブル期以後だけが悪いのではないので、また項をあらためて考えたい。

教育を考える・その4-可愛い子こそ法事の主役

2006-05-15 23:10:33 | Weblog
5月15日(月)晴れ【教育を考える・その4-可愛い子こそ法事の主役】

幼児は何も分からないと疑いもなく思っている人が、多いのではないかと推察するが、いかがであろう。そう思っている親は、頭ごなしにただダメと怒ったり、我が儘を通そうとして泣き叫ぶ子どもを、諭すということができないのではなかろうか。

私は幼児でも心(この言葉は仏教的には問題のある言葉だが)の深いところでは全て分かっていると信じている。これは理屈ではなく、法事の度の経験を通して確信していることである。どこの家の法事でも子どもがいたなら、子どもに向かって法事の意味を説明するようにしている。子どもへの説明を通して大人も改めて法事の意味を反芻することができよう。法事の説明はその時々の状況によって異なる。

昨日はお祖父ちゃんとお祖母ちゃん、お二人の三回忌と十三回忌ということで、四人の可愛いお孫さんたちも列席をした。一番の小さい子は三歳である。元気な男の子で少しの間もじっとしていることはできないのだが、それでも一緒に合掌するところは合掌しているし、般若心経の書かれたしおりも一人前に持っている。お経の間、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんに僕も自由に何か言っても良いよ、と言うと、時々お経の声に混じって、自由な僕の声が聞こえる。

「南無観世音菩薩」と皆で唱えたので、「観音様にお祖母ちゃんのことを、どうぞお守り下さいって頼んだのよ、僕もお唱えしてみる?」と聞いたら、「うん」と答えが返ってきた。真剣な顔をして「ナム」「カン…オン」「バサツ」と一緒に一声お唱えしてくれた。三歳のその子に、どこまでその意味が分かっているかは分からないが、小さなお手々を合わせて「 ナムカン…オンボサツ」と唱えたことは、坊やの心の奥にしみ込んでいてくれるだろうと、私は信じている。

お焼香の方法も子どもに向かって、きちんと説明をする。まずちゃんと合掌して頭を下げること。お香をつまんだら、それを額のところで念をこめること。「お祖父ちゃん、いつも有り難う。お祖母ちゃん、可愛がって下さったこと有り難う」ときちんと念じることを教える。それからお香を捧げるのよ、そしてまたきちんと合掌して頭を下げるのよ、と説明をすると、子どもたちは一生懸命それに習ってお焼香をしてくれるのである。

合掌やらお焼香やら一つ一つのことは、亡き人に捧げる真なのだから、心をこめて勤めることが大事である。私は子どもを信頼して、それを説明をする。大人にとってもこのような説明は無駄ではないだろう。三回お焼香を忙しげにする人が多いが、どうもその方法には念が込められないように見受けるので、私はその方法はお勧めしない。

三歳の坊やが一歳の時にそのお祖母ちゃんは亡くなられたのだが、「覚えている?」と聞くと「うん」と答えてくれた。お祖母ちゃんが遺影の中で微笑んでいるような気がする。他の孫たちはお祖母ちゃんのことは勿論よく覚えているが、お祖父ちゃんは産まれる以前に亡くなられているので、遺影でしか知りようはないが、法事の度にその存在のあったことを確認することが、子どもにとって連綿と受け継いでいる血の流れを知る大事なことである。

先々週のことだが、私は二歳の坊やに感動させられた。その日は坊やにとってお祖父ちゃんの七回忌であった。坊やは勿論そのお祖父ちゃんのことは知らない。でも私は二歳の坊やに向かって話した。お祖父ちゃんから僕に命がつながっていることを。お祖父ちゃんに今日は有り難うございますって感謝する日なのよ、とお話をした。

お部屋での誦経の後、お墓に皆でお参りに行った。お参りの終わった後で、坊やに私は尋ねた。「○○ちゃん、お空のお祖父ちゃんに有り難うって伝えられた?」「られたよっ」と坊やは、お空に向かってちいちゃな手をパッと伸ばした。

その瞬間に坊やと天がパッと繋がったかのような感じがした。二歳でも本当の意味が分かるのだ、と私は感じた。大人になったとき、このときのことを覚えているとは思わないが、坊やの心の奥底にしっかりと入っているのではないかと思うのだ。次の法事は六年後、坊やは八歳、小学生になっている。また会えるのが楽しみである。

人は亡くなった後どうなるのか、誰も本当のところは分かっていないだろう。その議論をするよりも、受け継がれていく命のことを伝え、感謝することを伝えていくことの方が大事だろう。そして幼いのだから多少騒いでもよいから、法事の席に一人前に列席し、法事を共に勤めさせてあげることは、教育として最たるものだと確信しているのである。

合掌は仏教に限ったことではない。天地人のエネルギーが集約される行為である。かつ天地に対する人の祈りの姿である。天地に示す人間の敬虔なる姿である。祖先への感謝を表す姿でもある。キリスト教社会、イスラム教社会では、幼いうちから祈りの姿を教えられるが、仏教国とされる日本では、日常的にはそれがないのである。子どもにとって惜しいことだ。せめて法事のときには列席させてあげて、祈りと感謝を子どものうちに植え付けてあげたいものだと思う。

宗教教育を排除するような教育は、頭でっかちな教育であることに気づいてほしいものである。


『ヨガ行者の一生』と私の断食経験

2006-05-13 19:47:12 | Weblog
5月13日(土)晴れ【『ヨガ行者の一生』と私の断食経験】

今回の風邪はお陰様で、完治宣言を出せそうである。(しかし油断は禁物)結局ぐずぐずと十日に及んだ。その間一週間はほとんど断食状態である。風邪を引くと食欲が全くなくなるので、かえって食べないほうが胃腸にとってよいので、食べるのをやめている。

私は二十代の頃、ヨガナンダ・パラマンサの『ヨガ行者の一生』(聖者ヨガナンダの自叙伝)(関書院新社1967年刊)という本をユーゴスラビア(現セルビア・モンテネグロ)出身の友人に勧められて読んだ。この本の細かい内容については今すぐには思い出せないが、三十年以上たっていても書名も著者名も鮮明に焼き付いているほど印象深い本であった。

特に印象的であったのは、断食についてである。ママ様という五十年以上も何も食べていない女性のヨガ行者の話も印象的に覚えている。この本から、私はヨガについて興味はあまり持たなかったようだ。同じ本を読んでも、その本から受ける印象や影響は個々人それぞれであろう。もっともヨガには興味をそれほどに持たなかったが、出家して坐禅修行者となった。

この本の影響が一番強いと思うが、二十代、三十代にはときどき断食をした。一週間から十日までで、それ以上長い断食はしていない。その時々で状況は違う。ある時は大学に通い、アルバイトも通常にこなしている日常生活のなかで、ある時は友人たちと食事療法の合宿中、ある時は山奥でたった一人で、等等。

断食は指導を受けてやらないと危険なので、初めは食事療法の研究をしている先輩のアドバイスを受けながら実行した。段々に食事を減らしていき、最後は重湯にして、それから断食に入る。また断食開けは段々に重湯から食事を増やしていく。断食の期間中は私はお水を一合は飲むようにしている。水切り断食は危険なので、止めたほうがよいという意見が多い。

断食を実行すると三日目までは空腹を感じるが、それ以降は全く空腹を感じなくなる。ある時体重を量りながら断食をした時、面白いことに気づいた。三日目まで体重は減っていくのであるが、四日目からは減らなかった。三十三キロ。これが私の限界体重なのではないかと思った。根拠はない。

また三日目あたりから木々の葉の一枚一枚が鮮明に見えてくる。遠くの葉の葉脈まで見えるほどになる。私の場合、一週間ぐらいであれば、普通に日常生活を送ることができる。かえって身が軽く感じて動きやすいとさえ感じる。精神的な状況は、常とは違い非常に敬虔な思いが強くなるように思った。

一人で誰もいない山中に籠もったときの断食は、それまでとはちょっと違ったものであった。あるお寺の奥の院の山で、お許し頂いて実行した。一山のどこにも誰もいないし、小屋の所までは細い山道なので、麓からは容易には上がってこられない場所である。麓から離れたところに一軒の宿があるだけで、街からは遠く離れている。そこで十日間の断食を試みた。

山には三十三観音様の石仏が点在していて、相輪橖が頂上に建てられていたので、毎日囘峰行をして、祈りを捧げながらお参りをしたのだった。きれいな水が湧き出ているところが一カ所あり、そこで一日お椀一杯だけの清水を頂いた。

空腹は一日目から感じなかった。体中が初めから断食体勢にコントロールされていたのである。十日間は食べない、と決めれば、体はすぐにそれに順応できることが分かった。マインド・コントロールをすれば、ボディー・コントロールはすぐに可能だということだろう。

ただこのとき一度だけ恐いと思ったのは、誰もいないはずの山なのだが、夜中に小屋の戸がトントンと叩かれたことだ。おそらく狸か狢だと思うが、戸の心張り棒をしっかりと押さえたことを思い出す。翌朝、外に出てみると、清々しい山の冷気は心地良く、空は青く晴れていて、なんの危険もなかった。狸も常は真っ暗闇の山の中に懐中電灯の灯りが見えたので、おそらく誘われて訪問して来たのであろう。そんな余裕を持って、夜中の音を笑うことができた。それから夜も恐くなくなった。

漆黒の闇のなかで過ごす経験も得難いものであったし、囘峰行が終わり、一杯のお水を頂き、山の斜面に寝ころんで、見上げた空の広がり、木々を渡る風の音、時折の鳥の声、ゆったりと形を変えながら流れる雲、山に溶けこんでいくような気がした。一杯のお水で十分に満たされ、疲れも感じない十日間であったことを思い出す。残念ながらあのときのように爽やかな心身の状態を、その後感じたことはない。

しかし、このときの断食開けは失敗してしまった。麓に下りてきたとき、梅が簀の子に干されてあって、あまりにおいしそうだったので、一つ食べてしまったのだ。太陽の光と熱を受け、塩分のきつい梅干しは、陰陽という表現をすれば、極陽性の食物になる。それを断食開けに食べてしまったので、それから十日以上全く眠れなくなってしまった。目はつむるのだが、頭は冴え冴えとしていて、夜空の星が輝いているような状態である。

体は全く疲れを知らないので、昼間普通に働けるのであるが、これでは心身のバランスを欠いてしまうだろうと思ったので、針灸の先生のところで体のバランスを取って貰って、なんとか眠られる体に直して貰ったのである。このようなとき不思議な体の状態を面白がっていると、大事なバランス感覚を壊してしまうのではないかと思う。あやまたない判断が必要である。普通の人間は、夜は眠り、朝は起きるリズム<を持つことが生きていく上で大事なことだと、その時に学んだ。

この頃は、仕事の為に車の運転をすることも多いし、限界体重に近いので、これ以上痩せては風に吹かれてしまうので、敢えて断食はしない。お釈迦様も苦行は不必要と言われたように、断食は決して修行ではない。私にとっては単に趣味である。苦行としてならする必要のないことである。

この十年ぐらいは、一年に一度、風邪を引くと、自然に断食に近い状態は経験している。しかし、全くの断食ではない。咳のために蓮根の卸し汁を飲む。また一日に四,五回発汗をしてしまうので、新しい塩気の補給に梅生番茶というのを飲む。さらに玄米の重湯を飲む。薬は一切飲まないので、風邪菌の思うがままに任せているのである。そのうちに自然に治って、一年間はまた体が動いてくれることが、有り難い。

天井を仰いで寝ながら、不思議な気持ちに襲われた。いつの日か、この身が、この世から無くなるのだ、という不思議である。時々この不思議な気持ちに襲われる。この世からいなくなるということ。本当に消えるということ。………人間である間は、時々はおいしい山の幸、海の幸に感謝して、友や家族と食べることを楽しみ、そう、たまにおいしいご酒を友と飲めれば、亦楽しからず也。

『ヨガ行者の一生』は、またいつか読み返してみたいと思う。若いときとは違った目で読めるかもしれない。私が出家するのに影響のあった一冊の本である。消える前に読んでみようと思う。

梅生番茶:梅干し、生姜の卸し汁適当、醤油適当、熱い番茶を注いでよくかき混ぜる。

発汗::体に溜まった重金属の毒素は、汗でしか排出できないとなにかで読んだ気がする。サウナもその効果があるのではなかろうか。

相輪橖::九輪がかたどられた塔柱。青銅や鉄で柱が組まれたのみのものをいう。

宿便::腸内に長い間溜まった便。これを排出すると健康によいと東洋医学ではいうようである。微食にすると出やすい。産まれたばかりの赤ちゃんの腸内には、同じようなカニババと言われる宿便のようなものがあり、これは母親のにがい初乳によってしか出でないとされる。産まれたばかりの赤ちゃんに人工のミルクをあげてはならないそうだ。

*苦行実践の無益:釈尊は苦行の無益なことについて諸所で語っている。
 ▲「(前略。)このようにして半月にいたるまでも措いて回数食の実践にふけって住んでも、かれに、かの戒の完成が、心の完成が、慧の完成が修習されず、目の当たり見られないならば、かれは沙門の道から遠いだけであり、バラモンの道から遠いだけなのです。」(『長部戒蘊篇』巻8「大獅子吼経」片山一良訳パーリー仏典第二期2p175)
 ▲「(前略)また、現在のいかなる沙門、あるいはバラモンが奮発による烈しい苛酷な苦を感受しているにしても、これが最高であり、これ以上のものはないしかし、苛酷な難行によっても、私は』人法を超えた最勝智見を得ることがない。覚りへの道が他にあるのではないか」(『中部根本五十経篇』第36ー18「大サッチャカ経」片山一良訳パーリー仏典第一期2p215)

身を保つ食についても釈尊は語っている
 ▲「われわれは食べ物に量を知るものになろう。正しく観察し、食べ物を摂ろう。戯れのためでもなく、心酔のためでもなく、魅力のためでもなく、美容のためでもない。あくまでもこの身体の存続のため、維持のため、害の制止のため、梵行をささえるためである。このようにしてわれわれは古い苦痛(空腹の苦痛)を克服しよう。また新しい苦痛(食べ過ぎの苦痛)を起こさないようにしよう。そうすればわれわれは生き存え、過誤がなく、安らかに住むことになるであろう。」(『中部根本五十経篇』第39ー8「大アッサプラ経」片山一良訳パーリー仏典第一期2p273)



教育を考える、その3-可愛い子には食事をきちんと

2006-05-10 23:15:42 | Weblog
5月10日(水)曇り【教育を考える、その3-可愛い子には食事をきちんと】

ようやく出かけられるようになって、勤めに行く途中、今朝も多くのママ達が子どもを保育園に預けに行く姿に出逢った。いつも時間帯が同じなので、出逢うのは同じ親子であることが多い。私は心の中で、ママさん達ご苦労様です、と言っている。そしてこんなに可愛い子供たちが、キレル子や、引きこもりの子や、労働意欲のない子に育たないようにと願わずにはいられない

昨日は小学校の教師になった青年から電話を貰った。今の子供たちは注意欠陥多動性障害(ADHD)という病気ではなかろうかという子が実に多いのだという。授業中じっとしていることのできない子、先生の話の聞けない子、教室を抜け出してしまう子、等々であるという。

脳の障害であると言われるが、私も一人そのような行動をとる子どもを知っているのだが、その子の生活を見てみると、後天的な要素が多いように見受けられる。先ず親がまともに食事を作らないのだ。朝ご飯も前日にコンビニで買って置いたおむすび一つ、お湯も沸かしてくれないという。その親は家のガスは一切使わないのだという。夕飯はどうするのかというと、外食である。炊事を作らないことが離婚の理由の一つだそうだが、その子の家は母子家庭である。

昨日の青年教師も言うことには、食事をきちんとしていない子が多いのだという。キレタり、ひきこもりやらの問題の根底に「食」のことがあるのではないかと、私は推察しているが、青年教師と話して、やはりそうであろうと思った。脳障害とか難しいことを言って、危ない治療薬を使うよりも、母親なり父親なり家の人が、きちんとした食事を与えてくれていれば、病的に動き回る子どもの数が減るのではないかと考える。

ご馳走であることはない。ご馳走はかえって毒である。肉体労働をするのでもない子どもに、肉食は一週間に一度で十分である。過度の肉食はかえってバランスを崩すだろう。伝統的に肉食の国にはそれなりのバランスのある伝統レシピがあるはずだ。それを知っているのならよいが、肉だけを料理するような食事では、子どものみならず大人でも心身のバランスを欠いて、切れやすい状態を招いてしまうのではなかろうか。

朝はお味噌汁と御飯さえきちんと料理してくれれば、おかずは簡単で充分。卵焼きやら納豆やらなんでも一品ありさえすれば充分なのだから、子どもに朝食を作ってもらいたい。それさえきちんとしていれば、問題の70パーセントは解決済みだとさえ思う。ただ電子レンジは非常に悪い。理屈抜きに悪い。どんな料理番組でも使っているが、キレル子どもにしたくなかったら、電子レンジは使わないことだ。私は理屈は分からないが断言する。

他にはテレビゲームをさせないこと。こんなものを作ったN堂もS社も責任は重大である。私の知っている子は学校に上がる前からテレビゲームの虜で、小学校に入ったら徘徊する子になっていた。テレビゲームはADHDの子どもを作ってしまうのではなかろうか。暴言であろうが、理屈抜きにそう思う。大人になってから、すくなくとも十五歳を過ぎてから、テレビゲームに興じるのなら、まだ被害は少ないだろう。

十歳までが子どもにとって、勝負と言える。十歳までの育て方で、その子の将来が左右されると言ってもよいだろう。私はお勉強の教育を論じるつもりはない。それは専門家に任せたいが、生活習慣やしつけの教育に目を向けたいのである。

牧野富太郎博士(1862~1957)にしても小学校も卒業はしていない。それにも拘わらず、植物博士として素晴らしい業績を残された。最近の中国には、高校には行かないで、好きな古典の研究をし、大学で講義をするほどの李里氏という人をテレビで紹介していた。その講義ぶりを映していたが、見事であった。勉強にはあくせくとすることは一切ない。競争社会というが、まずあなたから抜け出せばよいだけのことである。競争社会に子どもを走らせて、行き着く先が、その子を自殺に追い込むような馬鹿げたことを、親はしないほうがどれだけよいだろう。

実は子どもではなく、教育しなくてはいけないのは親だった。親たちを教育しなくては子供たちは救われないのだ。親を教育することを真剣に社会が取り組まないと、キレル子どもや、引きこもりの子たちがますます増えてしまうであろう。社会は行き着くところまで行かないと、どうしようもないのだろうか。毎朝出会うつぶらな瞳の子ども達が、楽しい人間として育ってくれるように、と願わずにはいられない。お節介な庵主の無駄な遠吠えである。

*ADHD:(Attention deficit hyperactivity disorder)注意欠陥多動性障害と訳される。注意力散漫、過度に活動的、衝動的行動を示す子どもたちの行動パターンについてつけられた病名。脳障害ではない。大人になっても症状は続くとされている。
一応世の中ではこのような名をつけているが、あまりに病名に拘らず、足元を見直す事が大事ではなかろうか。このような行動を示すお子さんを持ち、苦しんでいるご家族の方たちには心から同情いたします。なんとか治るといいですね。