風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

空飛ぶ雲

2007-09-29 13:06:32 | Weblog
9月29日(土)雨【空飛ぶ雲】

昨日は母を病院に連れて行った。特にどこというわけではないが、本人が気になる体の状態を調べて貰っている。前回来たときに、空がよく晴れていて、渋谷からのパノラマが楽しめたので、昨日はデジカメ持参で病院のお供をしてきた。

左側に赤く見えるビルの横には東京タワーが見える。そのさらに左には六本木ヒルズが建っている。東京タワーの右の方には曹洞宗の宗務庁が入っているグランドホテルが見えるはずだが、どれがそれだか定かではない。また右手前に三段のようなビルは國學院大学である。

首都高速も左寄りに見える。走っている車の姿も見える。数え切れないビル群が一枚の写真にも収められている。丁度そのビル群の上に大鳥のような形をした雲が見えたので、シャッターを押した。

平和な日本、東京の一角。この空の下の日本にも軍部が権力を握って、圧政を敷いていた時代が、ほんの60数年前にはあったのだ。ミャンマーの軍事政権の圧政がいつやむことがあるのだろうか。まして僧侶に暴力を振るい、弾圧を加えているような事態が引き起こされるほどになってしまった。この事態は、信仰心の厚いと言われるミャンマーで、想像だにしえない出来事であろう。

軍事政権の後ろには、かつて人民のために共産主義を唱えた中国とロシアが控えている可能性があり、貧しい人々、善良な人民に銃口を向けさせることに加担しているといえるだろう(武器の供給など)。そのようなことを言えば、日本政府もかなりの援助をしていたので、そのお金も武器を買う資金に変わっていたであろう。地球人類は全く愚かしい。此の世で栄耀栄華な生活を送っても、それは幻のようなものだと知らない哀れな人々。いつかそれは終わる日がくるだろう。その時、人間の英知が地球を救えるように希望を失ってはならない。

希望の翼を広げて、大空の鳥よ、世界中を駆けめぐっておくれ。
平和のメッセージを届けに、忙しく飛び回っておくれ。

銃弾に倒れた長井健司さんや、市民や、おそらく殺害された可能性もある多くの僧侶の方々に、遙かに哀悼の意を捧げます。1000人以上(おそらくこの人数以上なのではなかろうか)が殺害された1988年の惨事が再び起ころうとしているミャンマー。長井さんの死を無駄にしないように、日本政府も真相を調べてからなどと悠長なことを言っていないで、なにかしてはくれないだろうか。他国のリーダーは武力制圧に対しての反対声明をいち早く出しているというのに、呑気なことを言っている福田慎重居士殿。彼は真後ろから打たれたのである。そして世界中が拘束された僧侶を救う手だてを考えてはくれないだろうか。国際紛争が起きない方法で、助けて貰いたい。

このような事態が起きているミャンマーでも、一方のうのうと生きている軍部やその家族、お金持ちのビジネスマンやその家族がいて、軍事態勢がいつまでも存続して貰いたいと願っているのである。アウン・サン・スー・チーさんが自由の身になれるのは何時か。理不尽なことが山ほど行われている世界を、一人一人が大鳥になって、平和の願いを届けよう。せめて自分たちのなんでもない平和な生活の一方に、苦しんでいる人たちがいることを思いながら生きていきたい。

東尋坊にて

2007-09-28 23:54:59 | Weblog
東尋坊に初めて行くことができた。永平寺の法要まで時間があるので、その合間に随行の檀家さんたちと見学に出かけた。松本清張の小説にも出てくるそうだが、自殺の名所と聞く。

しかし、あまり不気味な感じはしない。天気が良かったせいもあろうが、海はゆったりと、空にも海の波のような雲。人間のはからいにはビクともしない雄大な自然が眼前に広がっていた。

朝焼け

2007-09-28 23:51:22 | Weblog
(朝焼け雲)

永平寺からの帰路に宿泊したホテルからの朝焼け。いつも忙しく働いているお寺の奥さんと、檀家さんの奥さんたちと、刻刻に変化する雲と太陽の光の織りなす空の景色を楽しむ。朝焼けを楽しむのは私の趣味とも言えるが、皆さんはいつも朝は忙しいので、このような時間はなかったと言って楽しまれた。





永平寺にて:中秋の名月

2007-09-28 19:44:14 | Weblog
9月28日(金)晴れまだ暑し【永平寺にて:中秋の名月】

25日は中秋でした。この夜の月を中秋の名月というので、必ずしも満月とは限らないようです。今年は中秋の月は月齢が13日のようです。満月は27日です。過去六年ほどを暦で調べましたが、中秋と満月が一日違いの年もあります。

さてこの中秋の名月を今年は永平寺で拝むことができました。私の法幢師が、御征忌ごしょうきの焼香師を拝命しましたので、随喜致しました。(在家の読者の方には、専門用語が多いので、このログの終わりに説明をつけます。)

また見んと思いしときの秋だにも こよいの月に寝られやはする

道元禅師がいよいよ御最期の中秋の夜、名月をご覧になってお詠みになられた和歌です。この和歌については昨年のブログに書きましたので、そちらをお読みいただければ幸甚です。http://blog.goo.ne.jp/fugetu3483/d/20061007

付記;
法幢師ほうどうし:曹洞宗では出家得度の師を受業師じゅごうし、第2段階の立職りっしょくの師を法幢師、第3段階の嗣法しほうの師を本師といいます。私の法幢師は、埼玉県にある浄空院の住職である浅田泰徳老師という方です。
御征忌:道元禅師のご命日9月29日に因んで、9月23日から29日まで、永平寺において営まれるご法要のこと。
焼香師:法会に際して、香語をとなえ香を拈じる式師のことで、導師のこと。
随喜:法要に参加すること。もとは人が善事をなすことを喜ぶこと、転じて、助力、賛成、尽力を意味する。




「ヒロシマナガサキ」

2007-09-22 22:25:04 | Weblog
9月22日(土)晴れ【「ヒロシマナガサキ」】(新総理を待つ国会議事堂)

明日は自民党の総裁選挙である。今日もたまたま国会図書館に行ったので、よく見慣れた国会の建物ではあるが、写真に収めてみた。国会の正面まで行ったのは初めてである。上の部分はライトアップしているようだ。

今週もいろいろなことがあって、アッという間に一週間が過ぎてしまった。自身のことでは、ただ資料集めやそれを読むだけで終わってしまった。これで論文が書き上がるだろうか、不安になる。来月の中旬には研究発表をしなくてはならない。どうしても扱ってみたい課題があり、ほとんど他の論題の研究はできていたのだが、無謀にも新しい論題に取りかかっている。しかし、やはり面白い論題であったと、調べるほど分かってくることがある。それで、国会図書館にしかない資料があったので、その帰りに議事堂の写真を撮ったりしてきたのである。

さて、実は昨日は、図書館の帰りに、岩波ホールで「ヒロシマナガサキ」を観た。この映画の監督、スティーヴン・オザキ氏は日系ではあるが、アメリカ人である。監督に2国の血が流れていてこそ、原爆の悲惨さを描くだけではなく、戦争責任や原爆を落とした側の論理も描けたのであろう。またアメリカ国籍がなくては入手できないであろうと思われる映像も多々あり、この監督にして初めてヒロシマナガサキを、公平な目で描き出せたのではなかろうかと思う。この映画こそ、世界に核兵器廃絶のための警鐘となりうる映画であると思った。これはドキュメンタリー映画である。(ヒロシマとナガサキの原爆投下を扱った『父と暮らせば』や『TOMMORROW/明日』の黒木和夫監督も、生きていらっしゃったら、どんなにか喜ばれたであろうか。)

ヒロシマに落とされた”リトルボーイ”は15キロトンのウラン爆弾、ナガサキに落とされた”ファットマン”は21キロトンのプルトニウム爆弾、これらの爆弾が運び出される様子の資料映像が、この映画には映し出されている。この異なる2種類の原爆の威力の違いをアメリカは、見てみたかった、ということがあったであろう。投下後の悲惨さは落として初めて知ったのかもしれない。おそらく想像を絶するものだったであろう。

数人の当時の航空士がインタビューに答えている。その中の一人、エノラ・ゲイに乗っていた航空士の言葉、「戦争を終わらせるために原爆を使ったんだ。一刻も早く終わらせ勝つためだ。同情も後悔も全くない」と。これはアメリカの多くの人の意見であると聞いたことがある。

被爆者の方々は、ヒロシマとナガサキから14人が語っている。何十回にも及ぶ手術を受けても、顔にも手にもいまだ消しがたいケロイドが残っている笹森恵子さん。顔の右半分は耳も焼けただれてしまったという吉田勝二さん。体中のケロイドとあばら骨まで焼けただれた体を見せてくれた谷口さん。在校生620人のうちただ一人生き残ったという居森清子さん。弟や姉、そして父親を目の前で一瞬にして失った中沢啓治さん、「はだしのゲン」の作者である。妹と二人だけ生き残ったという下平作江さんは、その妹さんも自殺してしまったというが、最後にこう言われた。

「体の傷と、心の傷、両方の傷を背負いながら生きている。苦しみはもう私たちで十分です、と言いたいですね」と。

この映画には一切の解説もナレーションもない。ただ淡々と被爆した方々が当時の経験を語り、その後を語っているだけである。そして時々に当時の被爆者の焼けただれた姿や、真っ黒になっている夥しい死体の写真、おそらくアメリカ軍が保存していた資料であろう、また被爆者の方々が描いた真っ赤な炎に包まれて焼けている人の絵や、垂れ下がった皮膚の人の絵(おそらくそのような写真や絵であったと思う、実は時々正視できなかった)などが織り込まれている。

余計なナレーションがなくても、悲惨なことは十分に観客に伝わってくる。私は映画を観ていて、胸がつまってワッと泣き出しそうになった経験は初めてであった。この映画を世界中の人々が観てくれたなら、核兵器は廃絶すべきだという人間としての想いを、多くの人が抱いてくれることだろう。

そしてこのようなことを起こさせてしまった原因は、時の為政者が起こした戦争にあることを忘れてはならない。日本の舵取りを担う政治家の人々に、決して戦争を起こさないことを改めて誓って欲しい。アメリカに押しつけられたものではあるが、憲法九条を遵守することをあらためて誓って欲しい。安倍さんは九条の改変を企んでいたが、これも強行採決するつもりであったろうが、してはならないことなのだと改めて思った。明日、麻生さんになろうが、福田さんになろうが、善政を敷いて貰いたいと切に願って議事堂の写真を撮ってきた。(しかし丸腰ではこの日本の平和は守れない。)


今月中は「ヒロシマナガサキ」は岩波ホールで上映されています。(もしかしたら10月5日まで、お調べ下さい)

日射病

2007-09-17 22:45:56 | Weblog
9月17日(月)敬老の日、晴れ残暑厳しい【日射病】(勇者が空を駈けているような雲)

今日も暑い一日だった。空行く雲は、秋の気配を感じさせてくれるのに、暑さは少しも和らいではくれない。

たまたまこの暑さに、納骨を頼まれたので、日射病予防の対策を持って出かけた。クーラーボックスに氷と、濡らしたタオル、そして水。

しかし、お経が終わってしばらくしたら、目の前の高校生がバタッと倒れてきた。はじめ何が起きたか分からなかった。お墓にぶつかって少し怪我もしてしまい、血がほとばしった。すぐに救急車を呼んで貰い、クーラーボックスからタオルと水を持ってきて、頭や首の後ろを冷やした。(このようなことに、まさか役に立つとは思わなかった)

徹夜で勉強していたそうで、寝不足がたたったようだ。日射病だけではなく、貧血も起こしたのではなかろうか。日射病の場合はバタッというよりフラフラッとした倒れかたをするのではなかろうか。

先ほど電話を入れたら、頭も打っていないし、傷の手当てをして、今日中には家に帰れるということなので、一安心はしたが、このような経験は初めてであったので、ショックであった。

日本の気候は数十年前から比べると、かなり変化しているし、特に暑さが増しているように感じる。以前はペットボトルの水を時々飲むことなど必要の無い気候だったと思う。よくよく注意をしなくてはならないし、特に幼い子どもには炎天下では帽子をかぶらせることが必要ではなかろうか。大人と子どもの体力は全く違うことも常に意識してほしい。このようなちょっとした配慮が欠けているのではないかと思うことがよくある。また今日のように、高校生だからといって、体力があるとは限らないし、寝不足で太陽の下に立っていることは大変に無謀なことだ。

今日は敬老の日だったが、日本全国で日射病や熱中症で倒れたお年寄りはいなかっただろうか。まだまだ残暑が厳しいので、油断しないようにしてもらいたい。倒れた高校生は大事に至らなかったので、ホッとしたが、お疲れさまの一日であった。皆さんもくれぐれもお気をつけ下さい。自分しか自分の体調は分かりません。安倍さんが体調が悪かったこと、テレビの映像では、それほどとは分からなかったように。

心不可得

2007-09-16 23:19:45 | Weblog
9月16日(日)晴れ、残暑【心不可得】(空の一隅)

今日は仕事で八王子まで行って来た。中央高速は渋滞がひどかったが、お陰で空の雲を楽しむことができた。いろんな形の雲が、空を自由に飛び交っていた。それこそ湧いては消え、またいつの間にか湧いてきて、流れていた。どこから湧いてくるのだろうか。

唐の時代に、徳山宣鑑とくさんせんかん(780~865)というお坊さんがいた。この人は『金剛経』というお経のエキスパートだったので、周金剛と謂われていた。周はこの人の俗姓。この周さんは律についてもよく学んでいたし、金剛経にもよく通じていたし、南方で盛んになっている禅と対決してやろうとして、現在の湖南省にある龍潭というところにやってきた。ところがそこで庵を結んでいた龍潭崇信りゅうたんそうしん(生卒年不詳)のもとで、かえって禅に帰依してしまった、という禅僧である。

この徳山さんが、おそらく龍潭さんのところに参じていく途中であろう。路上で餅を売っている老婆に出会った。その老婆は徳山に尋ねた。「背中に背負っている物は何かね」と。「これは金剛経の註釈書というものだ」と徳山は答えた。それに対して、老婆は「婆の問いに答えられたら、餅を布施してやってもいいがね」と言った。

(なんだ、この婆さんは)、と徳山は心のなかで思っただろうが、「言ってご覧」と言った。「(金剛経には)過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得とあるが、お坊さんよ、さあさあ言ってご覧なさい、これをどの心に食べさせようというのか。(経中道、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得。上座鼎鼎、是點那箇心。)」〈『聯燈会要』巻20〉

これに対して、原文には「山無対」と書かれている。徳山は老婆の問いに何も答えられなかった。というのが「山無対」の普通の訳であり、文献によっては、この後、老婆の指示で龍潭のところに参じた、と書かれているのもある。しかし、私は「何も答えられなかった」ではなく「何も答えなかった」という訳もあるだろう、と思う。

如来は死後にも存在するか、等の問いに対して、釈尊は「無記」と記されている。これは分からなくて答えなかったのではない。同じようにこの徳山の無対も、分からなくて答えなかったのではなく、過去心も現在心も未来心も、ころっとあるものではなく、無自性なのだから、どの心にも食べさせるものではない、という答えが「無対」なのだと、私は訳したい。

「心不可得」とは心は把捉することができないもの、固定不変な本体がないもの、そのようにとりあえず訳しておきたい。(道元禅師は『正法眼蔵』「心不可得」巻で、少し違った角度から、この言葉の意味をとらえていらっしゃるが、それはここではおいておきたい)

人間の構成要素を五蘊と釈尊はとらえた。(人間のみならずあらゆる存在の構成要素を五蘊ととらえた)。五蘊とは色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊のことで、色蘊は身、あとの受、想、行、識が心に関するものになる。この五蘊は皆空である、と釈尊は説かれた。

「この心には実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。(中略)流れる水のように、また灯火のようにうつり変わっている。また、心の騒ぎ動くこと猿のように、しばらくの間も静かにとどまることがない。」

だから大事なことは次の言葉になるだろう。「智慧あるものは、このように見、このように聞いて、身と心に対する執着を去らなければならない。心身ともに執着を離れたとき、悟りが得られる」(『仏教聖典』より、『中部経典』出典)

心に実体のないことを私ならば、「空行く雲のように、うつり変わっている」といいたいところである。だから、執着をなげうつために、私は、いつも雲を眺めているのですよ、とかっこよく言いたいところですが、実はボーっとしているだけなのです。今日も、渋滞の車を運転しながら、雲が織りなす空の万華鏡を楽しんでいました。

追加:『ダンマ・パタ』の中に既に「心不可得」の語があると、フクロウ博士からお教えいただいたので、その箇所をご紹介します。「心は捉えがたく、軽々として、欲するままのおもむく。その心をおさめることは善いことである。おさめられた心は安楽である。」

この前のログに追加:「私即私の心」というコメントを頂き、私は「私即私の身心」と書きましたが、更に「私即私の身心及び私を取り巻く環境(縁)」としておきます。

翻る、五色の幡、風に

2007-09-10 23:57:47 | Weblog
9月10日(月)曇り時々雨【翻る、五色の幡、風に】。

昨日は群馬県の安中にある桂昌寺というお寺で、晉山式(しんさんしき-お寺の新しい住職として、正式に入寺する式)という行事があって、随喜(ずいきーお手伝いのこと)してきた。お寺の真ん前には九十九曲川(つくもがわ)が流れていて、一昨日まで台風九号で増水していたそうだが、式の当日は台風一過の晴天に恵まれた。

さて、風にひるがえる五色の幡はたを見ていて、六祖慧能ろくそえのう(638~713)の風幡ふうばんの話を思い出した。慧能さんが五祖弘忍ごそこうにん(688~761)から法を嗣いでから五年ほど後に、広州の法性寺というお寺にやってきた。丁度印宗法師が涅槃経の講義しているところだったという。そのときたまたま風が吹いてきて幡がゆらいだ。

ある僧が言った、「幡が動いている。」べつの僧が言った、「あれは風が動いているのだ」と。そう言って争っているのを見て、慧能さんは言われた、「幡動き風動くに非ず、人の心自ずから動くなり(幡が動くのでも、風が動くのでもないよ、君たちの心が動いているのだよ)」と。このやりとりを耳にした印宗法師は(慧能の力量を)恐れてぞっとしたという。

『六祖壇経ろくそだんきょう』にはこのような話が収録されている。達磨さんから数えて六番目の祖師である慧能和尚は、出家する前は薪を売って生計を立てていたと書かれている。文字も読めなかった、とも書かれているが、文字通りには受け取れないようだ。涅槃経も法華経もその講義をしたことが伝えられている。ただ四書五経や諸々の書に通じている学者ではなかったということだろう。

この風幡の話では、一切の存在や現象は、ただ心の現れにすぎないのだということを慧能さんは教えたと、この話はとってよいのだろう。
また、現象を現象として認識することはよいが、それに是非の分別をつけることの過ちを指摘しているともとれようか。

身近な問題に置き換えて考えれば、例えば、辛いことがある。しかし、どこに「辛い」という実体があるのだ、それを見せてみよ、見せられないだろう、自分の心が創り出しているにすぎないのだ、と気がつけば、自ずと「辛い」を手放せるのではないか、というふうに考えることができる。いろんな感情や認識も空の雲のようだと思うこともできようか。さて今日はどんな雲が心に浮かんでいるのやら、とどこかに気楽に眺める気持ちを持ってはどうだろう。(厳密に言えば、気持ちは持てませんけれど)

辛い辛いの、正体見たり、我が心
苦しい苦しいの、正体見たり、我が心
あの人嫌だ嫌だの、正体見たり、我が心
自分をも嫌だ嫌だの、正体見れば、我が心

はてさて我が心さえ、実はどこにもありゃしない

風にゆらぐ五色の幡よ。ゆらゆらと楽しそうにゆれながら、お寺の祝い事を眺めているのかい。あ、幡が動いた、とも、風が動いたとも争う人も、その下には無い。

ただ幡の下でくりひろげられる儀式の上に翻っているだけ。おめでたい晉山式でした。

眉山遙拝

2007-09-07 16:17:18 | Weblog
9月7日(金)朝9時頃まで台風の余波、雨と風、後曇り【眉山遙拝】

遙かに見えるなだらかな山は、眉山である。徳島の駅前からもこの姿を眺めることができたし、滞在したホテルからもよく見ることができた。眉山は徳島の町なかの山である。

この写真は四国大学のすぐ近くで撮影した。手前に見えるのは吉野川である。四国大学はこのような風光に恵まれた環境にある。

眉山の山上にはパゴダ(仏塔)が祀られているというので、目の前ではあるし、ロープウェーもあるのでお参りしたいと思ったが、残念ながら時間がなかったので、遙かに拝した。

『眉山』という映画が今年封切られたが、宮本信子が演じるお龍さんがひょいと歩いていそうな徳島の町であった。