1月29日(日)晴れ【供養記 ある家のご法事にて】
今日のご法事は千葉県であった。往復100キロ運転し、ご法事を勤めて帰ってくるとさすがに少し疲れを感じる。しかしこのようにご法事を任せてくださるお寺があるお陰で、勉強を続けてこられたのである。どのような仕事でも楽な仕事は少ないと思う。
今日はS家の九十一歳でお亡くなりになったお母さんの三回忌のご法事だけの予定であったが、次男の方の納骨もすることになってしまった。二週間前に急に亡くなられたのである。母親の三回忌の供養にお塔婆をあげようとさえ申し込んでいた人が、供養される側になってしまったのである。
しかし親より先に逝ったのではないことが、救いであると思った。親孝行であったとさえ思った。1月19日投稿の【孤独なる死】に書かせてもらったが、私の兄は母より先に亡くなってしまったが、母の嘆きは筆舌を絶するものがある。親が長命の場合はなおさら逆縁になることもあるが、S家の次男さんは、母親を見送ってから自分の番を迎えられたことだけでも、よかったと思っているのではないかと勝手な想像をした。
まだまだ生きていたかった、勝手な想像をしないでほしい、と云っているかもしれない。
一年前は風の吹きすさぶ寒い日であったが、今日は暖かい日差しの中で、納骨をすませることができた。お墓でのお参りも、寒さにふるえることなく懇ろにそれぞれがお焼香することができた。それにしても、二歳半になる幼女がきちんと手をあわせて合掌している姿には感動さえ覚えた。ママが、「もういいのよ」というほど長いこと手を合わせている。たしか去年はまだそれほどきちんとはできなかったと思う。親や大人の姿を見て、子供は知らないうちに育っているのだ、と思った。
(合掌について、少し考えることがある。合掌は宗教色があるから学校の給食では、手を合わせさせないそうである。それは実に愚かとしか言えない判断だと私は考える。合掌は仏教と限ったことではないだろう。食材を作ってくれた人、食事を作ってくれた人、天地の惠み等々に感謝の心を表す手段であろう。合掌は自然な行為ともいえよう。子供たちから、このような人間が自然に身につけた美しい仕草を文部省(文部科学省)が取り上げることには反対である。)
「般若心経」を皆さんと唱えるが、この子もしっかりとお経の書かれた紙を手に持っている。きっと次の七回忌の法事には「カンジザイボサツ…… ショウケン……」と一緒に唱えてくれるであろう。子供のうちからご法事に列席して合掌したり、一緒にお経を唱えることは、その子の心の底に刻まれていくことだろう。
七回忌はあと四年後、私はたまたま今日納骨した方と同じ六十四歳になる。この子の可愛い般若心経を唱える声を聞きたいものだが、果たしてS家の七回忌のとき、私がこの世にいるかどうかはわからないことだ。
今日のご法事は千葉県であった。往復100キロ運転し、ご法事を勤めて帰ってくるとさすがに少し疲れを感じる。しかしこのようにご法事を任せてくださるお寺があるお陰で、勉強を続けてこられたのである。どのような仕事でも楽な仕事は少ないと思う。
今日はS家の九十一歳でお亡くなりになったお母さんの三回忌のご法事だけの予定であったが、次男の方の納骨もすることになってしまった。二週間前に急に亡くなられたのである。母親の三回忌の供養にお塔婆をあげようとさえ申し込んでいた人が、供養される側になってしまったのである。
しかし親より先に逝ったのではないことが、救いであると思った。親孝行であったとさえ思った。1月19日投稿の【孤独なる死】に書かせてもらったが、私の兄は母より先に亡くなってしまったが、母の嘆きは筆舌を絶するものがある。親が長命の場合はなおさら逆縁になることもあるが、S家の次男さんは、母親を見送ってから自分の番を迎えられたことだけでも、よかったと思っているのではないかと勝手な想像をした。
まだまだ生きていたかった、勝手な想像をしないでほしい、と云っているかもしれない。
一年前は風の吹きすさぶ寒い日であったが、今日は暖かい日差しの中で、納骨をすませることができた。お墓でのお参りも、寒さにふるえることなく懇ろにそれぞれがお焼香することができた。それにしても、二歳半になる幼女がきちんと手をあわせて合掌している姿には感動さえ覚えた。ママが、「もういいのよ」というほど長いこと手を合わせている。たしか去年はまだそれほどきちんとはできなかったと思う。親や大人の姿を見て、子供は知らないうちに育っているのだ、と思った。
(合掌について、少し考えることがある。合掌は宗教色があるから学校の給食では、手を合わせさせないそうである。それは実に愚かとしか言えない判断だと私は考える。合掌は仏教と限ったことではないだろう。食材を作ってくれた人、食事を作ってくれた人、天地の惠み等々に感謝の心を表す手段であろう。合掌は自然な行為ともいえよう。子供たちから、このような人間が自然に身につけた美しい仕草を文部省(文部科学省)が取り上げることには反対である。)
「般若心経」を皆さんと唱えるが、この子もしっかりとお経の書かれた紙を手に持っている。きっと次の七回忌の法事には「カンジザイボサツ…… ショウケン……」と一緒に唱えてくれるであろう。子供のうちからご法事に列席して合掌したり、一緒にお経を唱えることは、その子の心の底に刻まれていくことだろう。
七回忌はあと四年後、私はたまたま今日納骨した方と同じ六十四歳になる。この子の可愛い般若心経を唱える声を聞きたいものだが、果たしてS家の七回忌のとき、私がこの世にいるかどうかはわからないことだ。