風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

ある家のご法事にて

2006-01-31 18:46:52 | Weblog
1月29日(日)晴れ【供養記 ある家のご法事にて
今日のご法事は千葉県であった。往復100キロ運転し、ご法事を勤めて帰ってくるとさすがに少し疲れを感じる。しかしこのようにご法事を任せてくださるお寺があるお陰で、勉強を続けてこられたのである。どのような仕事でも楽な仕事は少ないと思う。

今日はS家の九十一歳でお亡くなりになったお母さんの三回忌のご法事だけの予定であったが、次男の方の納骨もすることになってしまった。二週間前に急に亡くなられたのである。母親の三回忌の供養にお塔婆をあげようとさえ申し込んでいた人が、供養される側になってしまったのである。

しかし親より先に逝ったのではないことが、救いであると思った。親孝行であったとさえ思った。1月19日投稿の【孤独なる死】に書かせてもらったが、私の兄は母より先に亡くなってしまったが、母の嘆きは筆舌を絶するものがある。親が長命の場合はなおさら逆縁になることもあるが、S家の次男さんは、母親を見送ってから自分の番を迎えられたことだけでも、よかったと思っているのではないかと勝手な想像をした。

まだまだ生きていたかった、勝手な想像をしないでほしい、と云っているかもしれない。

一年前は風の吹きすさぶ寒い日であったが、今日は暖かい日差しの中で、納骨をすませることができた。お墓でのお参りも、寒さにふるえることなく懇ろにそれぞれがお焼香することができた。それにしても、二歳半になる幼女がきちんと手をあわせて合掌している姿には感動さえ覚えた。ママが、「もういいのよ」というほど長いこと手を合わせている。たしか去年はまだそれほどきちんとはできなかったと思う。親や大人の姿を見て、子供は知らないうちに育っているのだ、と思った。

(合掌について、少し考えることがある。合掌は宗教色があるから学校の給食では、手を合わせさせないそうである。それは実に愚かとしか言えない判断だと私は考える。合掌は仏教と限ったことではないだろう。食材を作ってくれた人、食事を作ってくれた人、天地の惠み等々に感謝の心を表す手段であろう。合掌は自然な行為ともいえよう。子供たちから、このような人間が自然に身につけた美しい仕草を文部省(文部科学省)が取り上げることには反対である。)

「般若心経」を皆さんと唱えるが、この子もしっかりとお経の書かれた紙を手に持っている。きっと次の七回忌の法事には「カンジザイボサツ…… ショウケン……」と一緒に唱えてくれるであろう。子供のうちからご法事に列席して合掌したり、一緒にお経を唱えることは、その子の心の底に刻まれていくことだろう。

七回忌はあと四年後、私はたまたま今日納骨した方と同じ六十四歳になる。この子の可愛い般若心経を唱える声を聞きたいものだが、果たしてS家の七回忌のとき、私がこの世にいるかどうかはわからないことだ。

無関心おばさんとお節介おばさん

2006-01-27 11:50:53 | Weblog
1月26日(木)晴れ【無関心おばさんとお節介おばさん
朝、バスを待っているとき、中学生くらいの少年が小銭をばらまいてしまった。私は両手に重い荷物を抱えていたのですぐに拾ってあげられなかった。中年女性の目の前に硬貨が転がっていったが、その人は全くの無反応、ピクリともしない。少年はおばさんの足の先の硬貨を拾った。

バスが来た。前の人たちが乗ったが、小学生のところで止まってしまった。後ろから覗いてみると、どうもお金を落としてしまったらしい。運転手さんが、運転席側から下のほうをあちこち見つけている。その少年の後ろの中年女性(先刻とは別のご婦人)は真っ直ぐに立ったままでピクリともしない。そのおばさんの位置からの方がちょっとかがめば、運転手さんよりよく見えるはずだ。が、ピクリともしない。運転手さんは少年に指さしてみても埒があかないので、自分で乗車ステップに出てきて探したようである。

おばさん、少しは反応を示してくれてもよいのではない?「あら、どうしたの」くらいの反応があってもよいのではない?サッと十円玉を拾ってくれてもよいのではないか?

こんな大人といつも接していたら、少年たちだって、他人のことには無反応な、無関心な人間になってしまうのではなかろうか。しかし私と同じくらいの年齢のご婦人たちが、目の前で起きていることに反応を示さないことが、私には不思議でたまらない。

ある時、通勤時間帯ではないが、電車の中で赤ちゃんが泣き続けていた。泣き叫ぶと言った方がよいだろう。その車両はとても静かで、全く話し声もない車両であった。たまたま乗客の誰にも連れがなく、人間同士の交流の気が少しも流れていない空間であった。ただ火のついたように赤ちゃんが泣く声だけが流れていた。ところが、赤ちゃんのママもパパも困ったような顔をしているが、赤ちゃんに話しかけようとしない。赤ちゃんをあやすことに慣れていないのであろうか。それともあやし疲れたのかもしれない。

どうしたのだろうか。私は気になってならない。乗客は仮面のように押し黙っているだけである。なんだかこの雰囲気が異常のように感じた。何十人かの人間が一堂に集まっているのに、そこに人間同士の交流が全くない空間の異様さを感じた。

私は赤ちゃんの所に行った。「こんにちは、おりこうさんね」と話しかけた。するとピタッと赤ちゃんは泣くのをやめた。「初めて電車に乗ったので、驚いたのかしらね。」ママが「ええ」というように頷いた。「知っている人が誰もいないので、きっと不思議な気持ちになったのかもしれませんね。」と言ったら、「そうでしょうか。」とパパが言った。

「これからどこに行くのかな」「お家に帰るの」「パパもママも一緒なのだから安心してね」等々赤ちゃんに話しかけると、赤ちゃんはジッと私を見つめてくれて、そのまま泣くことを忘れてしまったようだ。泣きやんだのはたまたまであろうが、赤ちゃんの笑顔を見られて、お節介おばさんは嬉しかった。

駅の券売機の前で、少年が使用済みのパスネットを集めていた。私も珍しい柄のパスネットがあったので、「あげようか」と聞いたら、少年は頷いた。「はい」とあげたら、それを手に取ってそのまま行こうとした。「ちょっとお待ち」と私は言った。少年は怪訝そうな顔をした。「あのね、人から物をもらったら、有り難うって言うのよ。」と少年の顔を覗いたら、「ありがとう。」と言葉が返ってきた。

「鉄は熱いうちに打て」

自分も子供時代に大人に育てられた。年齢は小さくとも友として接し、相手の尊厳を傷つけないアドバイスなら素直に聞き入れてくれるだろう。十歳位までが大人の云うことを聞き入れてくれる限界だと思う。

無表情な無関心なおばさんにはなるまい。お節介おばさんであることお許しを。いや、僧形なので髪がないから、おじさんと思われているかもしれないが。

ホリエモン青年の夢

2006-01-25 17:44:18 | Weblog
1月24日(火)晴れ、寒し【日本号危うからずや】
ライブドアの堀江氏は遂に逮捕され、堀江社長が堀江容疑者と言われるようになってしまった。21日の私のブログに「虚業にふりまわされる」とはじめ書いたのだが、「マネーゲームにふりまわされる」と書き換えた。それは虚業という表現ではライブドアの社員の人に悪いかと思ったのだ。社員の人は気の毒であると思う。株主の人も気の毒である。株にはリスクが伴うとはいえ、この場合詐欺行為に等しいのである。

それにしても昨日あたりはどのチャンネルを回してもライブドア一色であった。同じようなことを何回も放映している。ライブドア関連の情報を追いかけて、マスコミが同一方向に大移動するのを見ていると、それでよいのかと疑問がわいてくる。母に聞くところによると一日中ライブドア関連のニュースばかりだという。

邯鄲の夢」(盧生という若者が、呂翁という仙人の枕を借りて寝ている間に見た夢。人間一生の栄枯盛衰は、一場のはかない夢に過ぎない喩え。邯鄲は都のな名。唐代の書物に採録される。ご存じとは思うが、念のため。)ならぬ「ホリエモン青年(六本木ヒルズ)の夢」を追いかけているよりも、もっと大事なことがあるだろう。

月曜日にも電車の人身事故で大幅なダイヤの乱れに遭遇した。先週は二回も人身事故があり、やはりダイヤが乱れたための満員電車で押しつぶされそうになった。人身事故というのはほとんどが、飛び降り自殺である。なぜ自殺しなくてはならないのか、それぞれの状況を追跡して自殺防止を社会がもっと考えてもよいのではないか。たった一度の人生なのだから、死に急がなくても、自殺以外の道があることを考えてもよいのではなかろうか。

景気は上向きなどと言っているが、果たして本当にそうであろうか。マスコミが目をつけるべきところは、ライブドアばかりではなく、もっと庶民の生活に根ざしたところにいくらでもあると思う。

世間を騒がしている事件にばかり振り回されていると、もっと庶民の生活にとって大事なことが置き去りにされていくような心配を覚える。
虚業ばかりではない。今は実業も危ない。耐震構造偽造問題もまさにそれである。拝金主義に陥った典型的な例である。


日本の国自体も危ないのではなかろうか。八百兆円に近い国債と借入金があり、国力以上の借金をしているにも拘わらず、どんどんお金をあちこちにばらまいている。歳入と歳出のバランスがとれていないのに、多額な国債の発行等でお金を集めている点は、ライブドアと似ているのではないだろうか。

また歳入を増やすために、これ以上の増税をすることは、共食いをするようなものだということを認識しなくてはならないだろう。いや鮹が自分の足を食べるようなことをしているのではなかろうか。

日本号が沈没しないためにも、マスコミの目も、社会の舵取りをしてくれている人々(なぜ高い報酬をもらえているか国会議員は考えてほしい)の目も、一人一人の目も、目の前でチラチラしていることばかりに、振り回されていてはならないだろう。特に拝金主義に。

私事で恐縮だが、私の研究は中国禅の一端である。あの中国大陸を北に南に、求道の行脚(旅)をした禅僧の生き様を学んでいる。道元禅師の教えも学ばせて頂いている。現代人はもっと時の流れを足の裏に感じる時代を振り返ってはどうであろうか。古い奴だとお思いでしょうが、じっくりとしたものが見えてくる世界の展開があるように思う。

日本の、東京の、満員電車の片隅で、潰されそうになりながら、電車の飛び込みは止めてほしいなと切実に思いながら、一度しかない人生なんとかならなかったのかと思いを馳せながら、こんなことを考えている一人の庵主である。

天才少年と胎教

2006-01-22 12:53:16 | Weblog
1月22日(日)晴れ【天才少年と胎教】
今日は一転して空は晴れ。近所の子供と作った雪だるまは既に半分溶けかかっている。

雪国育ちなので、雪が降ると子供の頃のことをいろいろと思い出す。年齢に関係なく近所中の子が集まって路地裏で雪合戦をしたり、坂道や斜面の畑でそり遊びをしたり、雪だるまをつくったり、忙しく遊んだものである。
この頃の子供はどんな風に遊んでいるのだろうか。

去年の暮れに、ギターの天才少年をテレビで観た。五歳とは信じられないほどの腕前とギターに関しての知識に大人も顔負けであった。このR少年がこのままたゆまない努力を重ねていったら、世界に誇るギタリストになるであろうと思った。

このような少年が生まれるにはママのお腹にいるときから、ギターを聞いていただろうとは想像に難くない。果たせるかなこの少年のパパはロック大好き、ギター大好きで素人の域を超えたギタリストであるようだ。

天才はお腹の中から育てられている。

最近胎児の脳の仕組みについて興味ある記事を読んだので紹介しておきたい。
脳の仕組みがこの頃少しわかってきたといっても、まだ犯罪防止や裁判に使えるほど解明されたわけじゃない。脳細胞は胎児の2~3カ月間に爆発的に増殖する。このときの胎児の環境と遺伝子の相互作用によって脳の基本的構造ができあがるわけだけど、じゃあ、どういう環境とどんな遺伝子が組み合わされば、脳の基本的構造はこうなる、といえるほどわかっちゃいない。(「脳と犯罪」『AERA』64号掲載。生物学者池田清彦氏の言)

このように述べられている。この意見は胎教についても参考になるのではなかろうか。犯罪ばかりでなく、また天才と限ることでもないが、お腹のなかにいるときのことが、生まれてからの人格にも影響する可能性はあると思うのである。

曹洞宗の四世、瑩山紹瑾禅師(1268~1325)のお母さんは観音信仰の強い方で、瑩山禅師を身籠もる前からも観音様を常に念じていられたという。そして幼少の頃から瑩山禅師も観音信仰に已に感化され、八歳で永平寺に入門しているのである。

瑩山禅師とは比べようもないが、私事で恐縮ながら、五人兄弟のなかで私だけが子供の頃から宗教に関心を持っていた。私のすぐ上の姉が一歳で亡くなってから、一年後に私が生まれた。おそらくお坊さんのお経や法話をお腹のなかで聞いて育ったと思う。母も一層仏様に手を合わせたであろう。中学から東京に出てきたのだが、近所にキリスト教の教会があって、真剣に毎週通ったものである。大学を卒業してからまもなく、出家の意志を持つようにさえなった。実際に出家が叶ったのは紆余曲折の後ではあるが。

お腹にいるときも大事、幼児期も大事。大事でないときはないが、白紙のような、辺り一面の真っ白な雪景色のような胎児の心、幼児の心に与えるものには注意が肝要だろう。ホラー映画や残虐な映像を目にしたら、そのまま胎児にストレートにそれが伝わると思ってもらいたい。科学的裏付けが無くても私はそう確信している。

一方、優しいママの歌声や優しい言葉、家族の楽しい会話、きちんと生きるママとパパの生き方、感動のある生き方、それが胎児や幼児にとっていかほど素晴らしい影響があるか、はかりしれない。


異常な犯罪を犯すような哀れな少年をつくらないためにも、胎教を大事にしなくてはと、昨日の続きで思った次第である。役にも立たないブログ上の空論かもしれませんが、お腹の大きなママを見たら、私はこの思いを波動で送っているのです。ホラー漫画は見ないでと、お節介もします。(去年の12月3日にホラ-画と胎教について書かせてもらったが、再び書きました。若い方がちょっとでも読んで、頭の片隅に入れておいてくれたら有り難いと思う。)

付記:『バトルロワイヤル』のような映画をなぜ作ったのか制作者たちに聞いてみたい。深作監督ははや冥界の方であるが。話題性のある映画を作りさえすればよいというものではあるまい。

宮崎勤事件に思う

2006-01-21 23:45:33 | Weblog
 
1月21日(土)雪雪雪【宮崎勤事件に思う】
東京地方に珍しく雪が降っている。窓の外を見ながら今日は雪ごもりだ。

このところ世の中はライブドアの証券取引法違反の問題で騒がしいが、マネーゲームに振り回される世の中の方が目を覚ますチャンスであろう。しかし、堀江さんの友人であるという社長なる人が自分のブログに、彼が意気消沈している様子で電話をかけてきた、と言うことを書いているそうであるが、こういうことが私には受け入れがたい。

堀江さんとその社長はお互いに危うい社会を泳ぎまわっている同志ではないのか。友が世の中からはじき出されようとしている危機存亡の時に、その苦しむ姿をブログに公表するようなことは、私のような古い奴には理解できない。

話は変わるが、宮崎勤の死刑がついに確定したという。事件発生から十八年がたっている。随分時間がかかりすぎているのではなかろうか。加害者の人権ばかり大事にして、被害者の人権を無視しているのではないか。兵庫の少年の事件もおかしいと思う。被害者の親の立場になってみたらどうか。本当に世の中に出して問題はないのであろうか。加害者の人権ばかりを大事にしすぎてはいないか。被害者は泣き寝入りするだけなのか。

第二の事件を起こさせない監視システムができているのか。自分の身内が被害者であったら、あなたならどうするだろうか。少年犯罪にも少女を狙った性犯罪にも、社会はもっと注意深くなくてはならないように思う。

そして異常な犯罪を犯す犯人たちの精神分析に、神経も時間もお金もかけているが、はたしてどれほどの事がわかるのであろうか。
犯人だけを調べても充分ではないだろう。なぜ事件を起こしてしまうような子ができたのか親にも責任はあるはずだ。

お腹に赤ちゃんがいるときに恐いものを見聞きしなかったか、恐ろしい映像を目にしなかったか、幼児期にも同じことがいえる。子供が見聞きすることには、今のような世の中だから、一層親は気をつける責任がある。

テレビゲームの責任も大きい。子供が現実と仮想の世界と混乱してしまうおそれがあることは誰でも判っているのに、放置状態である。売る人間が悪い。売れればよいというものではないだろう。テレビゲームは大人の遊びであって、理解力の育っていない子供の遊びとするには、子供の脳に危険なのではなかろうか。

だからといって、テレビゲームをした子供が、全て犯罪者になっているわけではないのだから、ゲームソフト会社を敵にまわすこともないかもしれないが、少年犯罪に対して全く責任が無いとは言えないだろう。

また食事こそ子供の成長にとって見落としてはならない大事なことであるが、親は子供にご飯と味噌汁をきちんと食べさせてくれただろうか。おむすびを自分の手で握って食べさせてくれただろうか。ご馳走はなくても親の手作りの食事は子供にとって、心にも体にもなによりの宝にも等しい。

異常な犯罪を犯してしまった少年や若者について、どのような育て方をされたのかというような情報は開示されてもよいのではなかろうか。加害者の人権を守るよりも、社会が同じような被害に遭わないようにすることが大事なのではなかろうか。そして自分の子供を犯罪者にしないための子育てのヒントにもなるだろう。

分析好きな現代なのだから、こういうことこそ大いに分析してもらいたい。

犯罪者に育ってしまった少年や若者が実は哀れである。私は自分の子を持たないから、高見の見物のようなことが言えるのかもしれないが、自分の子が犯罪者になってしまったら私は子供と刺し違えても責任をとりたい。

被害者になってしまったとしたら、どうなってしまうかわからない。宮崎勤にあまりにむごい方法で殺されてしまった子供たちの親御さんたちは、一生辛いことであろう。最近の事件にしても可愛い子たちが被害にあってしまっている。栃木の事件の犯人はどうなったのであろうか。報道規制がなされているのだろうか。

子供たちの冥福を祈るのは、たやすいことではない。とても私のような未熟な者の手にはおえない。
社会が曖昧な似非ヒューマニストぶって加害者の人権ばかり守っていると、あなたの子が被害に遭わないとは限らない。

どのような条件のもとで犯罪者となったのか情報を開示し、そして異常な犯罪を犯した少年たちを社会復帰させるには、国は再犯の危険性がないことを、社会に情報を開示する責任があるだろう。個人の仇討ちを許していないからには。

辺り一面真っ白な美しい雪景色を楽しむよりも、無惨にも命を奪われてしまったいたいけな少女たちのことを想い長々と書いてしまいました。

付記:昨晩私は堪山貴子さんという人のソプラノ・リサイタルに出かけてきた。天使のような歌声に心が清められたような気がした。澄んだ歌声に清められるという経験は初めてのことである。そして今日の白い雪。何か感動的なことが書けてよいように思うが、私の心から湧き出た言葉は犯罪に関することであった。いたいけな少女たちに鎮魂の思いを届けたい。


孤独なる死

2006-01-19 17:54:10 | Weblog
1月17日(火)曇り一時晴れ【孤独なる死
今日は阪神大震災発生の日で、あれから十一年の歳月が流れたことになる。六千四百三十四人の命がその地震で失われてしまった。あらためてご冥福を祈ります。

関連するニュースで、災害復興住宅で孤独な死を迎えた人が昨年一年で六十九人であったという。平成十二年からの合計は三百九十六人にのぼり、このうち一割の方が自殺であるという。

孤独死については、私自身にもふりかかってくることとして、身につまされる思いがする。今は母と二人暮らしであるが、そのうちに一人暮らしになる。長兄が十三年前に亡くなったのだが、その時つくつぐと母より先に亡くなる不孝を実感した。そして私はどんなことがあっても母より先には死ぬまいと誓ったのである。よって私は予定としては、母を見送って、一人になるということになる。つまり孤独なる死は私にもやってくるのだ。
 
この頃は独身の男性も女性も増えて、孤独死が社会現象になる日も近いであろう。晩婚も増えるかもしれないが、結局はどちらかが残る。私を含め人知れず死んでいく者の心構えについて考える時がやってくる。親戚に頼んでおいて連絡網をつくるのもよいかもしれない。友人同士の「生きてますか連絡網」をつくるのもよいかもしれない。地域社会の連絡網も考えられる。

しかしどんなに家族に見守られても、死んでいくのは一人なのだ、誰にもお供を頼めることではない。日頃から死ぬ覚悟をつけておくことは、孤独に死ぬときにも安心があるというものだろう。仏教のお話を聞くもよし、イエス様の教えを受けるもよし、縁のある宗教の助けを頼んで、心の平静を養っておくことは、いよいよの時に役立つ一つの要素ということはいえよう。
また形有る物をいろいろと後に残していくので、その始末についての配慮はしておきたい。最たる残存物である骸の始末をして頂くことの配慮も、しておくに越したことはないだろう。独身者の死は後々までの配慮が大変である。

しかし孤独であるからこそ、病院のベットで管に繋がれるような死にかたをしないで済む可能性も高い。まさに死のお迎えがきた時、きっぱりと死にきれる幸せがある。この世の人生の旅を終え、これからは果てしのない旅に飛翔する時だ。グレートジャーニー(大いなる旅)への旅立ちである。

長渕剛の「ガンジス」という歌に次のような歌詞がある。
   「神様はどこにいるのか」と尋ねたら
   老婆は自分の胸をさした
   笑いながら自分の胸をさした

私は仏教僧であるので、神様を仏様と言い換えさせてもらいたいがー長渕さんは嫌がるでしょうー素朴に生きていれば、誰にでもそれがわかると私は思う。素朴に空を眺め、雲を眺め、海を眺め、野の花を眺め、空飛ぶ鳥を眺めているならわかると思う。山を見続け、岩を見続けてもわかるだろう。

中学生のときの国語の教科書に、ナサニエル・ホーソンの「巨人の岩」(『人面の大岩』)という小説が載っていて、四十年以上たっても覚えている。それは少年の頃から尊厳有る人の顔をした岩を見続けて生きた人が、大人になって真の賢者になったというような話しであった。

大自然に頭を垂れて生きさえすれば、自分もその産物の一つであることがわかるだろう。この安心さえあれば孤独なる死も怖くはない。 
しかしこの安心がなくても怖くはない。死の瞬間には先に逝った親しい人が迎えに来てくれるそうだ。仏菩薩(光であろう)も来てくださるかもしれない。

安心して孤独なる死を迎えよう。

でも、復興住宅で独り死に逝く人の手を、握っていてあげたかったと、きっと皆さんも思ったことでしょう。ご冥福を祈ります。

ビッグイシュー 

2006-01-16 18:02:53 | Weblog
1月16日(月)曇り【ビッグイシュー ホームレスの支援雑誌】

今日は表参道に行く日。この交差点の一隅で『THE BIG ISSUE』を買うのが、私の楽しみである。この雑誌は街角でしか買うことはできない。ホームレスの人たちの自立を応援する雑誌で、彼らしか販売できない貴重な雑誌であるからだ。
この雑誌のファンの人も多いと思うが、内容が実に面白い。この雑誌で多岐にわたる情報を私は得ている。

町田康という小説家を知ったのもこの雑誌である。早速『きれぎれ』という彼の作品を読んだところ、素晴らしい力量のある作家であることを知った。この作品の紹介はここではしないが、水木しげる氏が美人画やなんでも描ける漫画家であるように、彼も普通の脈絡のある小説が書けるから、きれぎれな飛んだ文章が書け、切れ切れのようでいて一つの世界なのであり、1+1=2の世界に汲々としている読者の感性を弄んでくれる(肯定的な意味です)作品だと私は受け取った。世の人の情報は、もっと早くに彼を知っているであろうが、私には『ビッグイシュー』情報で充分なのである。

因みに今回42号の特集は「やなせたかしさんとアンパンマン」である。映画情報もいつも面白い。1冊200円。110円が販売者の収入である。
ところで、このことは最初に書きたかったこと。いつもの販売の人と違う顔だったので尋ねたところ、就職なさったのだという。その人はホームレスを卒業したかったので、本当におめでとう。嬉しいですね。

法力有りや

2006-01-15 18:00:58 | Weblog
1月15日(日)晴れ暖か【供養記 法力有りや
今日は一周忌の法事であった。昨年私が四十九日と納骨をお任せいただいた方の、はや一周忌なのである。
亡き人に対して更なる冥福を願うことが、法事の一つの意味であろう。しかし私はあの世にそのような波動を送るほどの法力もなし、寺の住職としての権威もなし、なんの力もない一介の雲水にすぎない。僧侶であるから法事をつとめさせていただくことは当たり前のように思われるかもしれないが、私はまだまだ未熟な僧侶である。

この世の生業としていろいろな職業があり、それぞれその職業においてプロにならなければお金を手にすることはできない。僧侶だけはその枠から外れるということはなかろうと思う。お布施を頂く以上は僧侶は僧侶としてプロでなくてはならないだろう。私は出家する以前は小さいながらも会社の経営をしていたので、お金を稼ぐということのいかに大変なことか身にしみて味わっている。その経験が僧侶もお金を頂く以上はプロでなくてはならない、という考えを私に強く抱かせていると思うのだが、その判定からすると、まだまだプロになりきれていない私である。一切お布施も頂かず、自給自足で生き、仏道修行をしていく僧侶は別格である。

とにかく未熟者である以上、僧侶の独壇場を演じてはならないと肝に銘じている。参列の皆さんの心を故人に向けて一つにまとめることを私は心がけている。故人を想う遺族や親族や知人たちの冥福を願う強いお力を頼って、共にご法事を営むというのが、微力な私の法事のつとめかたである。そしてさらに仏菩薩に頼り切らなくては、この願いを届けることはできないだろう。

今日は小学生のお孫さんがいたので、そのお孫さんに向かって法話をさせていただいた。大人にも大事であるが、子供さんにこそ法話は大事である。今日の可愛いお孫さんも一生懸命なお顔で話を聞いてくれた。その時によって話は違うが、基本的にはいつかはこの世から消えていくことを話す。嫌な庵主であろうか。しかし、帰るときにわざわざ見送りに出てくれて、ニコニコと「さよなら」と言ってくれた。深いところで聞いてくれている心が、子供にはある。自分も子供の頃、真剣に語ってくれた大人の言葉に、大人になってから感謝したという経験がある。

子供のときにこそ大事な話を伝えなくてはならないと思う。大人になってからでは遅い。料理や掃除も子供の時からさせてあげなくては、ご飯も炊けない娘や息子、ゴミ一つ捨てられないお嬢さんやお坊ちゃんにしてしまうだろう。

私が法事やご葬儀などの供養を、僧侶としての大事な役目として受け取っている根底には、霊界交渉の経験があるが、それについて機会があれば、いつか書かせていただくかもしれない。しかし誤解も受ける危ないことでもあろう。しかし目に見えない世界は無限の広がりがあるようだとは思いませんか。


古いやつだとお思いでしょうが

2006-01-14 15:26:01 | Weblog
1月14日(土)雨【古いやつだとお思いでしょうが】
雨がひどく降ってきた。大雪の地方も雨とのことで、雪崩や雪が屋根から突然落ちてくることによる被害が心配である。

さて私のこの日記はあまり尼僧らしからぬ記述が多いかもしれない。仏教的な情報発信としては「つらつら日暮らし」先生のようなブログがあるので、私は尼僧として半世紀近く生き、かつ還暦というおめでたい歳を迎える者とし、かつまもなくこの世を去りゆくであろう者として、若者とは違った角度での一言があると自負するので、それを書かせて頂こうかと思って始めたブログである。(この自負が実は古いのでしょうが。)
 
たぶんに自己満足的な要素がある。かつ若いときには思ってもみなかった古くさい考え、古くさい意見を披瀝しているようにも思う。「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴ほど新しいものをほしがるもんでございます」という鶴田浩二さんの歌の歌詞をちょっと思い出した。こんな言葉を書くとはますます尼僧らしからぬかもしれないが、私の大学時代には高倉健さんの唐獅子牡丹さえ「背中の銀杏が泣いている」などと言い、T大の学生の間にも流行したと思うし、こちらは吉良常であった。今から四十年ほど前の話である。
 
いずれにしても、ちょっとでもお読み頂く方に、本当に御礼申し上げたい。もう少しお読み頂くのに工夫も必要であろうと思う。パソコンをようやくポチポチ叩いている状態なので、今のところお許し願いたい。そのうち読みやすいようにいろいろと努力致します。
だいたい一日の文章が長すぎることが、お読みくださる方に迷惑であろうと思うので、なるべく短くするように努力致しましょう。

 今日は東京地方は雨。私も修行の一日を過ごさせていただきましょう。
 大雪の地方の皆様どうぞお気をつけください

大雪 故郷の家危うし

2006-01-13 15:19:42 | Weblog
1月13日(金)曇り一時雨【大雪 故郷の家危うし】
 今年の大雪は各地に被害をもたらしている。今日までに八十五人ものかたがこの雪の除雪や屋根の雪下ろしで命を落とされてしまった。本当にお気の毒でたまりません。

 私が生まれ育った故郷は、水上(今はみなかみ)というところであるが、昨日も降雪2.2メートルとテレビで報道されていた。屋根の雪下ろしを知り合いの人に頼んではいるものの、手が回らないということでどうすることもできない。暮れから母と心配しどおしであちこちの知り合いに電話をして情報を得ているのだが、役場の職員の人もほとんど総出で夜までボランティアで雪下ろしや除雪で大変なのだという。
 「○○ちゃんの家つぶれちゃうよ」と小学校の同級生から電話が入った。
私が生まれる一年前に建てられたので、家の年齢は六十年になる。この家は父が建てた家である。父は腕の良い大工であった。父が建てたその家は、今まで大した補強をしなくてもビクともしていなかったのであるが、この大雪のせいでついに潰れてしまうのだろうか。しかし今故郷に私が飛んでいったところで、どうすることもできないだろう。
 
 この雪のせいでお亡くなりになってしまった方々や、今住んでいるのに雪で家がつぶされてしまった方々のことを思えば、たまに帰るだけの家が潰ったとしても、諦めなくてはならないだろう。
 
 私が子供の頃は大雪が降ったけれども、これほどの大雪はなかった。
 このような異常ともいえる天候は、地球の自然のサイクルがやはり狂ってしまっているということなのだろうか。これ以上の被害がでないように祈るばかりである。