思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

考えるとは物と親身に交わる事だ

2017年07月20日 | 哲学
 『人生の鍛練 小林秀雄の言葉』(新潮新書)の「考えるとは物と親身に交わる事だ」という章に個人的に好きな箇所がある。小林先生57歳から61歳の頃の講演会録(新潮社CD)にも語られた言葉で、

 愛する事と知る事とが、全く同じ事であった様な学問を、私達現代人は、余程努力して想像してみなければ、納得しにくくなっている。一冊の書物を三十年間も好きで通せば、ただの好きではない。そういう好きでなければ持つ事の出来ぬ忍耐カや注意力、透徹した認識カが、「古事記伝」の文勢に、明らかに感じられる。これは、今日言う実証的方法とは質を異にしている。私達は、好き嫌いの心の働きの価値を、ひどく下落させて了(しま)った。(p190)

 人間の良心に、外部から近づく道はない。無理にも近づこうとすれば、良心は消えてしまう。これはいかにも不思議な事ではないか。人間の内部は、見透しの利かぬものだ。そんな事なら誰も言うが、人間がお互の眼に見透しのものなら、その途端に、人間は生きるのを止めるだろう。何んという不思議か、とは考えてみないものだ。恐らくそれは、あまりに深い真理であるが為であろうか。ともあれ、良心の問題は、人間各自謎を秘めて生きねばならぬという絶対的な条件に、固く結ばれている事には間違いなさそうである。仏は覚者だったから、照魔鏡(しょうまきょう)などというろくでもないものは、閻魔(えんま)に持たしておけばよいと考えたのであろう。(p191)

 彼(本居宣長)の説によれば「かんがふ」は、「かむかふ」の音便で、もともと、むかえるという言葉なのである。「かれとこれとを、比校(アヒムカ)へて思ひめぐらす意」と解する。それなら、私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひむかふ」という意になろう。「むかふ」の「む」は「身」であり、「かふ」は「交ふ」であると解していいなら、考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう。(p201)

今回は、「考えるとは物と親身に交わる事だ」という章題に注目したいと思う。文中の物には他者も含まれることは公演中にご本人が語られており、「交わる事だ」との言及は「これで善しとする」先生の考えである。
 疑いなき善しとする自己決定、これについて哲学者木村素衛先生の次の言葉が浮かぶ。
 
 鶏肉屋から逃げた鳥を店主の親爺が追いかけ、捕まえたとたんに鶏の羽を折り、首をひねり回し殺す様子を目撃しその残酷さに衝撃を受けた時の話である(木村素衛著『魂の静かなる時に』燈影撰書18・p15)。

 おお世界の根本に横たわるこの根本悪よ!汝は見るに堪え難ねた恐ろしい姿をしている。わたしたちは悪人だ。今の唯一の場合を考えても、食わんと欲する私たちがいなければ殺すあの親爺も生じなかっただろう。私達は悪人だ。生きるということそれ自身が悪から離れることのできない事なのだ。そして、私は生きるということが絶対のそして最高の善であるという自覚を持っている。それを持たざるを得ない。
 何とした矛盾であろう。私は真に真面目にならなければならない。「生」ということを知らなければならない。あの鶏のために考えてやらなければならない。

 木村素衛先生の個性で本当にまじめに何事にも取り組む人で、たかだか鶏の命ではないかと思われましょうがこれで善しとするところに木村先生という人が現れる。

「私は生きるということが絶対のそして最高の善であるという自覚を持っている。」

 木村先生は生ということ、生命ということを見つめる機会に遭遇しそこから問いを受け、「生きるということ」それ自身が最高の善だと自覚する。実存精神分析にV・E・フランクルは「人間は期待されている存在である」と言う。見ること、触れること、聞くこと等の諸器官の作用はまさに事象をも含めた他者を認知する。

 西田哲学ならば「物が来たりて我を照らす」という言葉や「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する」という言葉になる。

 「この『世界』とは、物の集合としての対照的な世界の意味ではなく、我々の自覚を媒介してくれる場所のようなものである。」と臨床哲学の木村敏先生は語るが、私も場の論理の「場所」とはそういうことのように思う。
 私の見ているものが実際に私が見ている通りに存在しているか分からない、しかし私にはそれが確かにそう「見えて」いるように「思われる」。この「・・・と思われる」あるいは「・・・と見える」ということは絶対に疑いようがない。デカルトのコギトとは実はこのことだ。私が考えているから私がある。というような単純なことではない。私があることの確かさは、私が物を見たり、聞いたり、感じたりしていると「思われる」ことの確かさであり、物がしかじかに見えたり、聞こえたり、聞いたり、感じられたりすることの確かさである。(木村敏著『分裂症の詩と真実』河合文化教育研究所・p31)

このように考えると、

「考えるということは、疑うということです。」

という哲学的言及は小林秀雄の

「考えるとは物と親身に交わる事だ」

という言及よりも思考過程における後的な結論に思う。

 我々の思考は世界と接することからはじまる。純粋経験は疑念なきところからはじまるのである。世界に色を付けること無き世界が現れているということだ。言葉を変えれば自己の認識はそこにおいては現象の奴隷ではないということである。

 自分に起きる事象、見つめる他者の現われに「させられ体験」が見るものはすでに従属性に固執、執着している。

 仏教でいう色相とはまさにそこにある。「疑いのまなざし」とはまさに個的色付けの世界観である。

 人間の最も純なるものは何であろうか。

 105歳で亡くなられた日野原先生は「生きること」「生命への畏敬」を常に語られていた。上記の木村素衛先生の「私は生きるということが絶対のそして最高の善であるという自覚を持っている。」という言葉が重なる。

 人間存在の哲学的な思考の根源には何があるのか。混沌からの現われのそこに、存在の自覚の問いがある。人間が人間であるための問いである。

 最高の善は、最高の善しはそこにあるように思う。
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