風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

お地蔵様の雨囲い

2015-06-28 22:23:09 | Weblog

6月29日(月)  【お地蔵様の雨囲い】

お地蔵様の廻りに透明のクロスをとりつけました。屋根の垂木はだいぶスカスカになっているので、新しい木枠をぐるりと打ち付けて、そこにクロスを打ちつけました。なんとか予想通りにできました。いつかお地蔵様の御堂をつくりたいと思っていますが、まだできませんので、それまでの応急処置です。(少し大変でしたので、腕の良い大工だった父の助けを願って、金槌を使いました。)

とても優しいお顔のお地蔵様なので、雨や風からお守りしたいと思っています。お地蔵様の不老帽は、恐縮ながら、ぼろぼろになってしまったお袈裟で縫わせていただきました。

ひょっとすると、お地蔵様が御礼に何か………笠地蔵のお話ではありませんが。そんな恩着せがましいことを勿論思ってもいません。これは冗談です。

でももしもお聞き届けくださいますならば、私をもっと働かせていただきたい、という願いだけです。このお寺に入る前、私も母も本当に良き隣人たちに恵まれ、都会では珍しい住みよい住環境に恵まれていました。それらに別れを告げて、お寺の住職になったのは、このお寺のためにもう一働きをさせてもらって、あの世に帰ろうかという思いからでした。(こんな機会をくださった、前の住職に、実は感謝しているのです。)

法話をあまり聞いたことがない檀家の皆さんに教えを伝え、お寺という場を現在の檀家さんのためにも子孫のためにも、仏教のためにも、しっかりと残せれば、という願いだけです。

私は、いつか人類は滅亡するだろう、という考えを持っていますが、それは自分がこの地球にいる間ではないだろうと予測しています。しかし、永遠不滅のものは一つとしてありません。勿論このお寺もですが。

それでも、人として今できる精いっぱいのことを、それぞれが勤めていくことだと思っています。楽な生き方、よりよい生活を望むのは僧侶のとるべき道ではありません。カッコいいようですが、私はいつも楽よりも大変な方を選んで歩いてきたような気がします。でも、それで面白い人生です。ロマンですね、人生は。

誰しもにやってくる最期の時に、自分なりに尽くして生きた、しかし、尽くしたりなかったが、と、そんな風にちらりと思って、今生の目を閉じれれば、それでよし、と思うのです。

願わくは、透徹した目で、何事にも瞞着されず、最期までしっかりと生きられますように、お地蔵様、どうぞ、ご覧になっていてくださいませ。

 


失敗

2015-06-27 07:58:32 | Weblog

6月27日(土)雨 【失敗】

今、お寺の門前を工事しています。実は以前から建っていた石の門柱が、地震がきたらこれはあぶない、と常々思っていて、なんとか立て替えられないものかと考えていました。ひょろ長い石柱の上に、重たそうな石のアタマが乗っているタイプで、地震がきたらこのアタマが先ず落ちてくるだろうと、思っていました。

この度、お陰様で、昔その門柱を寄贈してくださった家の子孫の方が寄付してくださることになって、先日取り外させてもらいました。想像は的中と言ってもよいですが、そのアタマは簡単に外れてしまいました。単に四角い石柱の上に重みで乗っかっていただけで、昔のことですから、十分な接着剤もなかったのではないでしょうか。大地震さえなければ、問題はないかもしれません。しかし、この頃のように頻繁に地震が起きていますので、心配していたのです。これは取り換えることにしてもらって、よかったと思っています。

しかし、新しい門柱の設置の位置と、設置の方法に失敗しました。

参道が道路に対して、120度と一方から見れば60度の角度をもって斜めなので、道路に対して平行に設置しようとしましたら、門柱の向きがお寺から見ますと、あらぬ方向を見てしまうことになってしまいました。

これはすぐに気が付きましたので、石屋さんに無理をお願いしまして、向きを変えてもらうことができました。本当にホッとしました。

それで、道路に平行に打った一方の門柱の基礎は、参道に対して直角に位置するように位置を変えましたので、基礎を打ち直してもらうことになりました。

ここまではメデタシメデタシだったのですが、翌日、すでに建ててある一本の門柱を眺めていまして、台座が道路面からかなり下に入っていることに気が付きました。立派な台座ですので、上に見えた方が勿論よいのですが、当初、以前の台座は、地面から半分顔を出しているだけでしたので、問題とも思わずに、当然台座というものは半分地中に入るものと思い込んでいたのです。

もはや、完全に接着されてしまっていますので、やりかえることはできません。こちらは現代の接着剤が強力で、さらに中に基礎と台座と門柱本体をつないでいる一本の棒が入っていて接着されいますので、これのために簡単にははずせないのです。以前の石柱は接着が充分でないだろうと思っていて危ないと思ったのですが、今度は接着が十分すぎてやり直しがきかないということであり、片や悪し、片や良し。

まことに残念としか言いようがありません。知恵と経験が足りませんでした。もはや来世にもう一度門柱を立て替えるチャンスにめぐり2会えたなら、この経験を活かしたいと思っている次第です。

しかし、もはややりかえることができないのなら、これでよかったのだ、と受け入れていく方が利口でしょうが、多くのことに後悔先に立たず、とか、チャンスに後ろ髪はない(僧侶ですから前髪もありませんが)とかいいますが、自分個人のことでしたらよいのですが、お寺という公共のためのものですから、もう少し深く考えなくてはなりません。未熟だと痛感している次第です。

道元禅師様の『正法眼蔵』「有時」巻に「住法位の活撥撥地なる、これ有時なり」という文言があります。「カッパッパッチ」(ぱっという文字は特殊な文字ででませんが(魚+發)という字です。撥でもよいので便宜上使いました)という意味は、生き生きとして活気のある様子をいいますが、既成の概念にとらわれない自由な働き、これが欠如していました。

(しっかりと目を開けて、カッパッパッチに生きてね、和尚さん)

 


恩を売らない

2015-06-24 12:43:23 | Weblog

6月23日晴れ【恩を売らない】

梅雨というのに、今日も晴れです。でも夜は降ったようですので、農家の方々には貴重な雨でしょうか。豪雨の街の方々は、災害に苦しんでいらっしゃいますでしょうか。それぞれの立場や状況で、雨についても受け取りはいろいろとあります。私のお寺では、今、参道と門前の工事をしていますので、ほどほどの降りですと有難いです。今日あたりまでは、あまり日が強くありませんでしたから、工事の人にとっては、有難い曇りでした。

全てのことは、それぞれの置かれた立場と状況によって、有難かったり、苦しめられたり、同じ条件でも、その受け取り方は違うのではないでしょうか。

私は今、尼僧団の仕事で、その原稿や編輯に忙しいのですが、任に当たってやむを得ず引き受け、やむを得ず勤めている仕事ですが、つくづく恩を売るようなことではいけないし、他の人が自分の仕事に対して、有難がってくださっているだろう、という思いを抱いてはならないと肝に銘じています。

常に自分の時間を費やす場合、大変ですね、とか有難う、と言われても、"It 's my pleasure."(どういたしまして、の意味であるが、それは我が楽しみです、が直訳ですから)と受け止めて、他に恩を売らず、また他が有難がってくれているだろうと思わずに、さらりと努めたいですね。

しかし、わざわざそんなことをブログに書いてみようかという気持ちは、実は来月はお施食ですし、塔婆は書かねばならず、ご案内は出さねばならず、考えると仕事は満載なのです。で、実は大変だと思っているのです。一方、大変な思いをして編輯したり、原稿を書いたりしても、「あ、私、全然、読んでいないわ、ごめんなさい、忙しくって」なんていう人もいるのです。あまり自分の仕事を重要視しないことですね。

他が喜んでくれているだろうか、有難がってくれているだろうか、なんて他の思いは全く私の仕事とは別問題なのです。自分は自分の誠を尽くすだけ。とにかくなんとしても今週中にはこの原稿をまとめなくてはなりません。頑張ります。

皆さんも暑いでしょうが、くれぐれもご健康に留意してください。熱中症にはお気をつけて。母にはOS1を飲んでもらっています。

(テレビの中の子猫ちゃんたちを不思議そうに見ているタロー君。同じ親から同時に産まれても、白い子猫ちゃんや黒っぽい子猫ちゃんや、いろいろですね。人生いろいろ、子猫もいろいろ、なにがよいか悪いかわかりません。思い出しましたが、タロー君がテレビの中の子猫のころに、5匹の兄弟でぞろぞろとやってきた時から、食事の世話をしてきました。でもタロー君たちに恩は売りません、売ってもわからないでしょう。)

 

 

 


かぶき者慶次

2015-06-17 15:17:03 | Weblog

6月17日(水) 曇り【かぶき者慶次】

今日は蒸し暑い一日です。皆さんお元気ですか。私は諸々で忙しくしています。忙しいとはいえ、たまにテレビ番組を楽しみに観ています。NHKの『かぶき者慶次』という番組を観ています。明日は最終回ですので、もしお時間のある方は、ご覧になってはいかがでしょう。

物語とはいえ、このような男性がいたら、どんなによいでしょう。理想の男性像ともいえます。実在の人物をモデルにしているそうですね。具志堅さんが毎年お墓参りに行くと言っていましたので、実在の人物だったのかと知った次第です。

前田利家が義理の叔父さんにあたるようですね。利家の兄の養子だったそうです。晩年は争いを好まず、人を大事にして、人の命を大切に、和合を心がけ、自分の生きざまを貫き、とにかくカッコよすぎるほどの人物だと思います。

まわりと争いごとを起こす人は、自分は正しい、相手が間違っている、と思って譲らない人がほとんどです。相手の言うことにも耳を傾け、どんなに理不尽な相手でも、じっくりと対してみれば、心の窓を開けてくれるのではないでしょうか。それを相手が悪すぎるので、相手にならないとばかりに罵倒しているばかりでは、どこにも風穴は開きません。お互いに不幸です。

特に僧侶たるもの、仏法だけではなく、世法もわからなければ、道を説くことはできないでしょう。世法だけでは、仏法にはもちろんなりませんし、道元禅師様も、「世法を捨てて、仏法を受持せん」とはたしかにおっしゃていますが、現代の僧侶には、世法を理解する心の巾は必要だと思います。特に、一人山の中で坐禅をしているのではなく、人々に道を説く僧侶には、世法も人情も理解する巾が必要だと思います。

「かぶき者慶次」さまに憧れてしまいますね。物語は実際の慶次さんとは、違うでしょうが、とにかくカッコよくて、素敵です。男性諸君は、是非こんな男になってもらいたいですね。明日は最終回です。どうぞ、皆さまご覧ください。(藤竜也さんが実はまことに適役で、一層魅力を引き立てているのだと思います)-大変俗っぽい尼僧で失礼いたしました。

(今は亡きモカちゃんです。思わない日はありません。)