風月庵だより

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山口の旅4 龍文寺歴代の墓所

2007-10-29 22:16:22 | Weblog
10月29日【山口の旅4 龍文寺歴住の墓所】(龍文寺墓所)

龍文寺歴代住職の墓所は山門の前の山の中にあった。開山竹居禅師から器之禅師や現在まで51代の住職の卵塔の並ぶ墓所で、一時間も過ごしてしまった。ほとんど朽ちて字は一切残っていない器之禅師のお墓であるが、他の単純な形の卵塔に比べて、あまりに洒落ていた。4世の弟子大庵須益禅師が建てた、当時のものかどうかは分からない。開山と2世の墓はあっさりとした卵塔である。

器之禅師の語録は大阪、奈良、京都、静岡などのお寺に書写したものが残されていることからも分かるように、日本の各地から雲衲が集まって教えを受けていたことが推察される。器之禅師が遷化なさったときはおそらく教えを受けた禅僧たちが駆けつけたのではなかろうか。弟子の大庵禅師は大寧寺から馳せ参じたという記録が残されている。この度バスや電車を使って、長門の大寧寺から周防の龍文寺まで訪ねてきたが、当時は峠を越えたりしての徒歩によるルートもあったと思うが、船を使っての往来も盛んであったろうことが現地を訪問して実感できた。

大内氏の対韓貿易を盛んにできたのも、船が充分に往来していたからであろう。龍文寺の脇には錦川が流れているが、この川を使って木材の切り出しも盛んになされたそうで、建物を造るだけでなく、造船にも大いに役に立っていたのではないかと想像する。すぐに駆けつけるにしても船に乗って来た可能性が高い。

さて、器之禅師は晩年、視雲亭という隱居所を建てて、悠々と空行く雲を友として遊んだ、ということが資料から読むことができるが、その跡は、今は一切残っていない。

そう言えば私も雲が好きで、いつも雲ばかり眺めている。器之禅師には及びもつかないが、趣味だけは似ていたようである。思いがけない類似点からの縁が、500年前からの縁を運んできたのかも知れない。禅師はかなりの学僧でその時代では有名であったようだ。そのような人の跡を追いかけるのは、そろそろやめようかと思っていたが、この山口行きで、もう少し頑張ってみようかという気がしてきた。現地を味わうと500年前のその人が少し身近に感じられるということは面白い。器之禅師さん、あらためまして、こんにちは、という感じである。しかしそこからなにを学ぶのかが問題だ。知識が増えるだけでは先行き短い命を賭ける意味がないだろう。

歴代の墓所に佇んで、この地で修行した禅僧たちの目指したものはなんであったかと思いを馳せた。器之為璠の伝言は何か。禅僧としていかに生きたか。それを学んで如何に生きるか。

山口の旅3-周防の名刹 龍文寺

2007-10-29 21:30:57 | Weblog
10月29日(月)晴れ【山口の旅3-周防の名刹 龍文寺】(龍文寺山門)

どのような縁によってか、器之為璠きしいはん(1404~1468)という禅僧の書かれた語録を研究することになった。私はもともとは中国の宋代の禅僧の研究をしていたのだが、いつの間にか器之さんになった。たまたま誰もこの語録を担当する人がいないので、私にまわってきたという経緯であるが、この禅師のお蔭で大寧寺さまにも声をかけて頂き、また龍文寺さまにまでお参りできることになった。

大寧寺は日本海側であるが、龍文寺は瀬戸内海側の周南市に位置している。しかし、かなり内陸に入るので、JRの徳山駅から車で20分ほどを要する。山口県は高い山はあまり無く、海岸線を離れるとすぐになだらかな山が眼前に見えてくる。龍文寺はそんな山の中にあった。

まず立派な山門が出迎えてくれた。最近建立されたようで木の香りさえしそうな感じである。この山門を建てられたのは、現住職の中村俊孝老師である。丁度開山忌(10月25日)前のお忙しい時に伺ってしまったのだが、ご親切にいろいろとご教授をいただいた。

この地で器之禅師は40歳前後より、示寂するまで(65歳)、ほとんどを過ごしている。大寧寺の五世にもなるが、大寧寺の方は弟子の大庵須益に任せて、ご自分は龍文寺の方に主に住していたのではないか、と想像していた。現地に来てみて、やはりそうだったのではなかろうかと思った。

龍文寺は開山は竹居正猷ちっきょしょうゆう禅師であるが、勧請開山かんじょうかいさんであり、実際は竹居の弟子の在山曇璿ざいさんどんせん(?~1445)が、永享元年(1429)に建立した。開基は大内家の家臣陶盛政である。このとき大内家の当主は27代の持世のときである。これ以後龍文寺は代々陶家の菩提所となり、当寺には陶家代々の墓所がある。

器之禅師が龍文寺の3世になったのは法兄ほうひんの在山が示寂した文安2年(1445)からであるが、示寂の年、応仁2年(1468)まで住職を勤めているので、歴代住職の中でも住山年数は長い方ではなかろうか。それだけ龍文寺に対しての器之禅師の思い入れは深いと察することができる。

住職をしてまもなくの2年後に、龍文寺は火災に遭っている。3年間は山口市の下小鯖にある寺に寓居し、復興のための努力をしていたことが語録の記録から読み取ることができる。復興にようやく着手できたのは3年後の宝徳2年(1450)であり、4年の歳月をかけて伽藍の復興を成し遂げたことが、やはり『龍文六代誌』や語録などから読み解くことができる。(この『龍文六代誌』という資料は在家の信者さんの家から発見されたそうである。)

この宝徳2年にはこのあたりに大暴雨風が吹き荒れて、大飢饉になっている。そのようなこともあって伽藍の復興に時間がかかったこともあるだろう。

この飢饉を救う為もあるだろうが、次のような伝説が残されている。童女に身を変えた毘沙門が現れて「龍門鼎裏 炊萬斛」(龍門の鼎裏、萬斛を炊ぐー龍門寺の竈ではたくさんの量の食料を煮炊きできるだろう)というお告げとともに粳米の長い穂を与えてくれたという。これがこの土地の長穂の謂われでもあるが、これも器之禅師の時代の伝承である。

また夢に門という字を文に改めるお告げを受けて、それまでの門という字を文に改めたのも器之禅師であり、これも宝徳2年のことと資料には記載されている。(日本全国のりゅうもんという名のお寺は、このお寺以外は龍門の字のほうが多い。)

器之禅師が龍文寺の中興と謂われる由縁は、火災からの復興と近隣の農家の稲作の改良を助けたのではなかろうか。器之禅師の永平寺復興に関する漢詩による功績もあるが、孫弟子達の永平寺復興の功績によって、「鎮西吉祥山」の山号を与えられている。

江戸時代には直末60ヵ寺、門末238ヵ寺をかかえていた。その元を築いたのは、実に器之禅師ということが言えよう。

明治12年に七堂伽藍が火災で焼失したそうで、現在の建物はその後建てられたものであるが、往時を感じられるような禅寺の雰囲気を漂わせている龍文寺の佇まいであった。

山口の旅2-山口 瑠璃光寺の五重塔

2007-10-28 21:12:51 | Weblog
10月28日(日)晴れ昼少し暑し【山口の旅2-山口 瑠璃光寺の五重塔】

瑠璃光寺の五重塔は国宝である。檜皮葺の屋根の重なりが美しい。法隆寺の五重塔、醍醐寺五重塔と並んで、日本の三名塔の一つである。大寧寺の岩田老師にお勧めいただいたので、お参りしたのだがお参りしてよかったと思っている。周りの緑の山々を背景にすっきりと聳えたつ姿は、まことに美しい。高さは31、2メートルだそうである。

五重塔は、25代義弘が応永の乱(1399年)で足利の幕府軍に敗れて戦死した後、弟の26代盛見もりはるが、義弘の菩提を弔うために建立に着手した。完成したのは28代の教弘のときで、嘉吉2年(1442)である。

この頃器之禅師は大寧寺の住職である竹居禅師のもとにいたか、もしくは周防の龍文寺にいた可能性もある。龍文寺の住職になったのは文安2年(1445)である。瑠璃光寺の開山は器之禅師の弟子の大庵須益だいあんしゅえき又はしゅやく禅師(1406~1473)である。師匠の器之より先に住職になっているのはおかしいが、瑠璃光寺の歴史は少しこみいっている。

瑠璃光寺自体はもと安養寺と称し文明3年(1471)の開創である。開基は陶弘房の夫人。五重塔は香積寺というお寺が現在の香山町にあった時代に建てられた塔である。香積寺は毛利氏の時代に萩に移築されている。しかし五重塔は移さないで欲しいという町民の嘆願によって現地に残されたのだという。それは元和2年(1616)のことであるという。そして瑠璃光寺はその後香積寺の跡地に、元禄3年(1690)に仁保という土地から移築されたのだという。もと香積寺五重塔であったが、元禄3年より瑠璃光寺五重塔と呼ばれるようになったということである。

瑠璃光寺も中国地方三ヵ寺の一つとして僧録司がおかれ、末寺170ヵ寺があったのである。

瑠璃光寺の開山、大庵須益については今年一年かけてこの禅師の上堂語や行状について研究したので、やはり参拝に伺ってよかったと思っている。実際に目にして実感することが多いし、文字の上だけだった世界が立体的に頭の中で構築されなおす感じがある。瑠璃光寺をお参りした後、いよいよ器之禅師の示寂の地となった龍文寺に向かった。どのようなところであるか、わくわくするような思いがした。

山口の旅1-長門の名刹 大寧寺

2007-10-27 15:19:55 | Weblog
10月27日(土)雨【山口の旅1-長門の名刹 大寧寺】(大寧寺本堂横から写す。梵鐘は一四世紀鋳造のもの)

先週の土曜日から、山口を訪問する機会を得た。長門市にある大寧寺たいねいじの岩田啓靖老師が、勉強の機会を下さったのでこの度の訪問が叶ったのである。毎年同寺で営まれている大内義隆公追善法要と、檀家さんたちの総供養の秋季法要にお呼び頂いたのである。

大寧寺は、私が研究するご縁となった、器之為璠きしいはん禅師(1404~1468)という方が五代目の住職を勤めた、この地方の名刹である。大寧寺の開創は応永17年(1410)。開山は石屋真梁せきおくしんりょう禅師(1345~1423)、開基は大内家の分家である、鷲頭わしのうず弘忠になる。

日本も室町時代(1392~1573)は、その前は南北朝の戦いもあり、室町後半は応仁の乱(1467)後、織田信長が15代将軍足利義昭を滅ぼすまでの戦国時代あり、戦さに継ぐ戦さの時代であるから、この大寧寺も何度か戦乱の嵐に巻き込まれている。

開基弘忠も文安5年(1448)には主家筋の大内家28代の教弘のりひろに滅ばされている。この時の住職は器之禅師の師匠、竹居正猷ちっきょしょうゆう禅師(通説は1380~1461。私の研究では1378~1459)である。竹居禅師はいったんはこの寺を退いたが、大内氏の懇願により再び大寧寺に戻り、弘忠公を祀り、以後大内家の菩提寺となった。

この竹居禅師という方は、かなり包容力のあった禅僧ではなかろうか、と推察できるいくつかの事例がある。鹿児島の島津家の分家である伊集院家の出身である。(現在伊集院は町名になっている)

大内家は第25代の義弘の頃から朝鮮貿易を開始してかなりの財力を養ったのである。教弘公の時も対外貿易によってかなりの経済的発展を遂げていた。31代の義隆公まで、大内家は対外貿易による財力を背景に、今に大内文化と言われる文化を長門、周防の地に残しているのである。

しかし、権勢を誇った大内家であるが、義隆は家臣の陶晴賢すえはるかたによって非業の最期を遂げている。大寧寺には、義隆公の墓を囲んで、十五歳で父に従って亡くなった二條姫と、哀れ七歳で一期を終えた義隆の子義尊の墓、さらにそれを取り囲むように家臣らの墓が、本堂の上に祀られている。(この後陶氏は毛利氏に滅ばされ、大寧寺は毛利家の菩提寺となる)

この戦火で大寧寺の堂宇は焼失しているし、その後も寛永17年(1640)に野火による火災に遭っている。現在の本堂は僧たちの衆寮を移築し、向拝や後陣を増設した建物で、県の指定有形文化財となっている。往時はどのような伽藍が広がっていたことであろうか。七堂伽藍が整っていたことを示す文献も残されている。実にお寺にとって火災ほど残念なことはない。曹洞宗中国三ヵ寺の一つであり、末寺五百十三ヶ寺を抱えていたと『日本名刹事典』に記載されている。

五百数十年の昔、器之禅師らもこの地を踏んでいたのだと思いながら、感慨ひとしおの思いで境内を歩かせて頂いた。

また応永年間(1391~1427)には三世の定庵殊禅禅師のとき、近隣に温泉が湧出して、今にいたるまで湯本温泉が残されていて賑わいをみせている。おそらく器之禅師もこの温泉に浸かったのではなかろうか。

(写真に写っている梵鐘は千三百年代に鋳造されたものなので、おそらく器之禅師も撞いていたのではないかと推察される。正確な年代は傍らに書いてあったのだが、メモをとらなかったので残念。)

逃げるという手があるー自殺に追いつめられる前に

2007-10-19 21:15:11 | Weblog
10月18日(水)  【逃げるという手があるー自殺に追いつめられる前に】(秋の朝)

(この一文は強く生きられる方には無用の一文です。私のように弱い人だけお読みいただければと存じます。)

先頃、上司の虐めにあって自殺した人に労災が認められた、というニュースがあった。人間の屑扱いをされれば、普通の神経の人なら、穏やかではいられないだろう。それが毎日のように続き、「給料泥棒」とか「消えろ」とか言われたのでは、神経がおかしくなってしまうことは本当に理解できるし、お気の毒でたまらない。

しかし、神経がズタズタになる前に、「逃げるという手があること」をお伝えしたかった。でも家族の生活のことを考えると、きっと頑張ろう、頑張ろう、となさったにちがいない。

私は逃げる手を使った。還暦になるまでの人生で、本当に嫌な目にあったということがある。それも大人になってからで、それまで充分に強く生きてきたと思っていた私でさえも、陰湿ないじめには負けた。そのとき、悪意のエネルギーの強烈さを知った。そこで骨を埋めてもよいと思っていたほどであったが、何回もそうされたことが分かって、そこから私は逃げた。今でもよりつかないで逃げている。負け犬と言われてもかまわない。理不尽なところで戦うよりも、逃げたほうがよい。

神経がズタズタにされてからでは、逃げる気力もでなくなってしまう。追いつめられる前に逃げて欲しい。負けよう、負けよう。そしてなんとか生きよう。生きていればなんとかなる。だから神経の修復がどうにも難しくなってしまう程頑張っては駄目。自分の神経が危ないな、と感じたら、空でもボーッと眺めていよう。何にもしなくても良いからボーッとしていよう。そして、逃げるという手があったか、と思ったりして、享年と言われるときがくるまでなんとか生きてみよう。

眠れなくなったら危ない、食べられなくなったら危ない、それは神経が疲れ切る前のシグナルだから、逃げよう。逃げるという手があるのだから。どこに逃げても地球の内だから、そしてこの大空はどこまでも一緒だから。自分の居場所を見つけるまで逃げればよい。そして一呼吸、深呼吸をして、また一呼吸、深呼吸をして、さらに一呼吸、深呼吸をして、そのうちなんとかなるから。

昨日、学術大会があって、山口賢明さんという方の「伝記史料・著述と逸話にみる良寛の教化」という発表を聞かせていただいた。そのなかに次のような和歌があった。

僧はただ 万事はいらず 常不軽じょうふぎょう 菩薩の行ぞ 殊勝なりける
(常不軽菩薩:あらゆる人の成仏を信じて、逢う人ごとに礼拝したという菩薩)
(僧はひたすらに常不軽菩薩の行をすることだけが、なによりもすぐれた行であることよな。他のことは一切しないでもよいほどに。)

人からどのような目にあっても、ある時から、良寛様はただ手を合わせて生きられたのであろう。

いつか時が流れて、心に余裕ができれば、良寛様のこのような和歌にも、そうだと頷ける時もくる。いじめる人にも手を合わせられる時もくる。神経を切られてしまうほどまで我慢してはいけない。

いつでも「そうだ、逃げるという手がある」と思いついて欲しい。一度きりしかないあなたの命だから。

でも、もし家族を自殺で失った方がいたら、決して自分を責めてはいけない、どうすることもできなかった、みんな自分持ちの人生だから。それまでよく頑張ったと思ってあげた方が浮かばれるのではないかしら。

享年

2007-10-17 23:14:34 | Weblog
10月17日(火)晴れ【享年】(夜明け前)

あるときの墓所開眼の折、白木のお位牌には享年73才と書いてあるのだが、墓石のほうに72才と刻まれていた。「これは?」と尋ねると、「お祖母ちゃんは満で72才だったので」と答えが返ってきた。確かに享年という年齢の書き方は亡くなったときにしか聞かない年齢なので、僧侶が間違えたのかと思ったのかもしれない。

享年というのは、天から享けた年、という意味であるが、仏教ではお腹に宿ったときから、すでに心があるので、お腹にいる間も年齢に数えるのである。藤本晃(宗教学の博士)という方の『功徳はなぜ廻向できるの?』という本に《人間に生まれるだけの功徳をもっている生命であれば、親の精子と卵子が結合して間もない細胞があるなら、その細胞に心がサッと宿ります。これが人間として「生まれた瞬間」です。》と説明されている。実に分かりやすい表現といえよう。ですから満年齢に10ヶ月を足した年齢が享年である。(胎教が大事なことは言うまでもない)

先日12日に黒川紀章という建築家の方が亡くなられたが、1934年4月のお生まれなので享年は74才ということになる。自由な発想で生きられた方のお一人だろう。最期の言葉も世の妻たちにとっては、羨ましい限りの言葉ではなかろうか。

しかし、どのように生きれても、最期は来てしまう。享年何歳と言われるまでの命である。自分に任された命であるから、なるべく心が清々とするように生きたいものだと願うのである。

東京タワー

2007-10-15 23:27:55 | Weblog
10月15日(月)曇り【東京タワー】

今日は芝の増上寺において、さまざまな宗教団体に所属する研究所(教団付置研究所)の懇話会があった。その内容の公表は発表者の論文発表に拘わるかもしれないので、ここに報告は控えるが、他宗の方々との交流は学術的なことだけでなくとも、ますますグローバル化していく世界の動きを見たときに当然必要な交流であると思う。一宗一派に凝り固まらない視点を持つことは、日本の平和、ひいては世界の平和のために大事なことであろう。特に宗教の違いによって、紛争が世界のあちこちで起きている現状を見たとき、日本にはそのようなことが起きないように、宗教間の繋がりを持って、お互いに助け合い理解しあうことが、必要な時代なのだと思う。

教義の違いで争うことがないのが原則であろう。神の唯一性を説くイスラム教の人々もいつか懇話会に加入するときがくればよいのだが。日本にも多くのイスラム教の人が増えているのだから。教義的に難しい問題もあるだろうが、決して争いを望んでいる宗教ではないはずだ。

さて、増上寺からの帰りに、きれいなバラに出会ったので、東京タワーを背景に撮ってみた。まだ東京タワーには昇ったことがない。母と一緒に昇ろうかと思ったら、母は二度も昇っているという。リリー・フランキーさんの『東京タワー』のおかんは私の方だった。タワーの目の前に勤めているというのに、まだ一度も昇っていないとは。いつか必ず東京タワーに昇って、東京を見てみよう。(バラがあまりきれいに映っていませんでした。やはり肉眼には、我が撮影の腕前は及びません)

南無釈迦牟尼仏のすすめ

2007-10-13 13:33:06 | Weblog
10月13日(土)晴れ【南無釋迦牟尼佛のすすめ】(南無釋迦牟尼佛 禪月翠巌老師筆)

浄土宗のお寺に10年ほどいたが、浄土宗では十念といって南無阿弥陀佛を十回、どんなときにも檀信徒さんと一緒にお唱えする。浄土真宗ではやはり南無阿弥陀佛のお念仏を何回でもよくお唱えする。台湾の尼僧の友人も歩いているときでさえ、「阿弥陀仏陀、阿弥陀仏陀(アミダブッダ)」とお唱えしながら歩いている。また日蓮宗の人たちは「南無妙法蓮華経」とお題目をあげることは、誰しも知っているだろう。

ところが、曹洞宗や禅宗ではそのようなお唱えごとは、あまりしないのではなかろうか。坐禅こそが大事な行であるから、自然にそうなるのではあろうが、実際問題としては、日常生活で坐禅をする人は少ないのではなかろうか。僧侶は別としても。

仏教の信仰を深めるためにも、僧侶任せではない、それぞれ自身の行が大事ではなかろうか、と私は思っている。法事などで在家の人々とお経をお唱えするたびにその思いを強くしている。法事の折は、列席の皆さんと一緒に、『般若心経』を誦したり、三帰依文を誦したりしている。そのような僧侶の人も多いと思う。

それでも日々に仏壇でお参りをするときに、在家の方々は、いつも『般若心経』など読誦できないときもあるのではなかろうか。まして坐禅はできないだろう。そこで私は「南無釈迦牟尼仏」とお唱えすることをおすすめしている。

南無とは、namasというサンスクリット語の音写で、仏の教えに帰依し、信を捧げます、という意味であるから、南無釈迦牟尼仏は、お釈迦様の教えに帰依し、信仰の真を捧げます、という意味になろう。そのように仏に帰依する功徳を、仏壇に祀ってある先祖に回向するのが、お参りである。ただ手を合わせれるだけでも、悪くはないが、十分ではないと言ってよいだろう。

「南無釈迦牟尼仏、お釈迦様、どうぞお父さんを宜しくお願いします、お母さんを宜しくお願いします、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんを宜しくお願いします」と亡き家族の冥福を祈ったり、苦しいことがあれば「南無釈迦牟尼仏、どうぞお見守り下さい」と祈るのもよいのではなかろうか。「南無釈迦牟尼仏」と一回でも十回でも百返でもお唱えしてもよいのではないだろうか。

有り難いことに曹洞宗は、あまり異安心いあんじんということを言わない。今はどうなのか知らないが、ある宗派ではちょっとでも教義から外れることをいうと、異安心として叱責を受けたそうだ。「南無釈迦牟尼仏」のお唱えは、曹洞宗儀礼規定にはないと言う方もいらっしゃるかもしれないが、御詠歌ではよくお唱えしているので、それほどに間違ったお勧めではないだろうと思っている。おそらく、私のようにしている僧侶の方もいらっしゃるだろうと思うのですが。

「南無釈迦牟尼仏」のお唱えを、勧められた方々も、今までどのようにお参りしてよいか分からなかったので、よかった、有り難い、と言ってくださる人が多い。信じる心を表すこと、表して信仰をさらに深める、ということがあるだろう。信仰は決してお坊さんだけのものではなく、全ての人の為のものなのだ。このような分かり切ったことであるが、お葬式や仏事のためだけに、仏教に接しているのは勿体ない。それぞれの命をしみじみと生きるため、自らの内を深めるために、お釈迦様の教えにふれて貰いたい。人にお勧めするだけではなく、私自身、南無釈迦牟尼仏、とお唱えしています。

お唱えの声は我が口より出づれども、我が耳より入り、我が全身に浸透する。称名やお念仏やお題目を挙げる宗教的実体験は、それを実践して初めて分かることですから、一人一人にとって、自分自身の信仰として意義のあることでしょう。

**上の写真ですが、師匠に揮毫していただいた書です。佛名を揮毫した書には、冠帽印は押さないのですが、私が師匠の行者をしていまして、押してしまいました。

仏舍利について

2007-10-08 21:43:22 | Weblog
10月8日(月)雨【仏舍利について】(金沢兼六公園から見えた白い舎利塔)

三日間、過ぎましたね。私は御陰様でようやく一区切りがつきました。一昨日はさあ始めようかと思いまして、作成途中の原稿をいれたUSBを家のパソコンで立ち上げようとしましたが、このUSBのドライバーが家のパソコンに入っていませんでした。泣きそうになりましたが、駒沢大学まで行きまして、友人に移し替えて貰って「めでたし」でした。こういう時も持つべきものは友ですね。

さて、この度は仏舍利ぶっしゃりに関することをいろいろと調べました。「舎利礼文」というお経に関する研究発表をしますので、それに関連して、仏舍利に関することも調べたりしましたので、そのうちの霊験譚を一つ紹介します。

それは『沙石集』という仏教説話集におさめられたお話。『沙石集』は無住道暁というお坊さんによっって、弘安6年(1283)に成立しました。無住は禅も密教も学んだ僧です。

「仏舍利感得の人の事」(仏舍利を願がかなって得た人の事)という題の話。(文章は私流に訳させてもらいました)河内の国(現在大阪府の東)に生蓮房というお坊さんがいたそうです。生蓮房は仏舍利を得たいものだと、とても強く願っていて、「舎利礼文」を毎日五百返唱え、五体投地をして礼拝していたそうです。それを14,5年も続けた後に、弘法大師の御廟を詣でて、さらに真剣に「仏舍利を吾になにとぞ」とおそらく願ったのでしょう。願いに応じるかのように御廟窟から一人の老僧が出てきました。そして「そこにおる者に頼みなされ」と云ったそうな。

生蓮房は驚いて、傍らに寝ている男を起こして頼みました。「舎利を持っているのでしょう、お渡し下さい」と云いましたところ、「浄土堂へいらっしゃい、お渡ししましょう、お安いことです」というではありませんか。生蓮房が付いていきますと、灯も無いのに光り輝いている水晶でできた塔のようなものを取り出し、その中から十粒ほどの舎利を出したそうな。「この中から一粒選びなさい」と生蓮房は云われました。「どれが吾に縁のある舎利なるか」と手を合わせて祈っていますと、なんと、一粒の舎利の方から、生蓮房に這ってきたそうです。生蓮房、「感涙抑えがたかりけり」と原文にあります。

さて、『沙石集』の話はまだ続きますが、ちょっと離れます。何故生蓮房はこんなにも仏舍利を手に入れたかったかというと、この時代は仏舍利信仰が盛んだったのです。仏舍利は早くには蘇我馬子(?~626)の時代にもたらされたそうですが、鑑真和上(688~763)もお持ちになったり、弘法大師空海(774~835)や慈覚大師円仁(794~864)も仏舍利を中国から持ち帰ったと云われます。お釈迦様の仏舍利がそんなにたくさんあったのかと不思議ですが、もっと不思議なことは、真言律宗の叡尊(1201~1290)という高僧が舎利を礼拜する舎利会しゃりえをしますと、2000粒ぐらいの舎利が4000粒ぐらいに増えている、舎利湧出ということがあったそうです。そこでわざわざ舎利を勘定する『舎利勘計記』などという記録まで残されています。

この舎利を持っていますと、いろいろな功徳があるということなので、天皇や貴族たちもこぞって手に入れたがったようです。舎利を頂くことを奉請ぶじょうと言って、一粒でも有り難く奉請したのです。そして一代一度舎利会といって、奉請した舎利で舎利会を行うことが流行ったそうです。その目的は後生を頼むことや今生の福を頼むことでしょうか。
一粒の舎利の有り難さを見せることができたのは、叡尊たち僧侶に不思議な力があったからでしょう。叡尊たちは、釈尊の教えを信じ、その舎利をその象徴として大切に祀り、真剣に人天の福を願い、平安を祈願したからではないでしょうか。

いずれにしましても、お釈迦様の舎利のみならず、お骨を大事にする民族は多いのではないでしょうか。仏教圏は確実にそうでしょう。

私が子どもの頃に観ました映画、『ビルマの竪琴』でもそうでした。安井昌二さんが演じた水島上等兵が、ビルマ僧の姿になって、日本に帰還する所属部隊を見送るシーンは、今でも脳裡に焼き付いています。「水島、一緒に帰ろう」と戦友たちは叫びます。しかし彼は無言で静かにその場を立ち去るのです。おそらく水島は、ビルマで戦死した戦友たちのお骨を弔うために、ビルマの土になることを決心していたのでしょう。これはフィクションですが、純粋な少女であった(?そういうときもありました)私にはとても心に残った話でした。少女時代にこの映画を観たことが、私が出家したことに、少なからず影響を与えているように思います。

この度ミャンマー(ビルマ)で拷問にかけられ、虐殺された僧侶の方々や市民の人々のご遺体は、荼毘に付されているのでしょうか。お袈裟をはぎ取られて、川に無慚に投げ込まれていた僧侶の方は、どなたかに荼毘に付して頂けたのでしょうか。気にかかります。

今日は長井健司さんの告別式でした。ご冥福を祈るばかりです。

助けられたり助けたり

2007-10-06 09:43:37 | Weblog
10月6日(土)晴れ【助けられたり助けたり】

今朝は朝焼けがとてもきれいだった。デジカメとパソコンを繋ぐケーブルを研究所に忘れてきたので、お見せできないのが残念。陽の出前の空は、まことに美しく荘厳なひとときである。殊に今朝の朝焼けは、連なる茜色の雲が、やがて黄金色に包まれ、次第に青空に吸収されていく様子は、あの我らが兄弟の僧侶たちがお袈裟に身を包まれて静かに行進し空に消えていく姿のようであった。誰もその袈裟をもぎ取ることはできないのだ。

さて今日から三連休、しばらくは通勤の電車に揺られないですむ人も多いでしょう。はや悠々とした時をお持ちの方もいるでしょう。私も、この三日間は休みです。部屋に籠もって書き上げなくてはならない宿題があります。

その前にちょっと、通勤電車での話をさせてください。昨日の帰りの電車でのこと。私が立っていた横の席が空きました。真ん前に立っていた青年が、「どうぞ」と私に勧めてくれました。私は喜んで坐らせて貰いました。そのうちにこの青年がいかにも辛そうな様子になりましたので、「どうぞお座り下さい」と私は立ちました。青年は助かったように、座席に座り込みました。おそらく飲み慣れない、または飲み始めのお酒を飲んで気持ちが悪くなり、立っていられなくなったのでしょう。私に席を譲ってくれる前から、立っているのがやっとだったのに、老尼に譲ってくれたのです。「気を付けて帰ってくださいね」と別れ際に言ったら、「有り難うございます」と頭を下げてくれた青年でした。

また数日前のこと、行きの電車では、赤ちゃんを抱えながら、乳母車を片手で降ろそうとしているママがいたので、乳母車を降ろすのを手伝いました。若いママはとても喜んでくれました。私は再び電車に飛び乗って、親子と手を振って別れました。

その日の帰りの電車でのこと、喉が渇いてしまい、ホームの売店でペットボトルのお水を買おうとしました。でも電車が入ってきてしまいます。この電車に乗らなくては、「ヒロシマ・ナガサキ」の映画の開演時間に間に合いませんので、この電車を逃したくありません。でも喉が渇いています。急いでお金を払って電車のドアに走り込もうとしましたら、長い「足」をホーム側からドアにかけてくれていた人がいます。「Thank you so much.」と言って、私は飛び乗りました。まもなくドアが閉まって電車がホームを離れました。ホームにいるアフリカ系の青年に私は手を振りました。彼もニコッと笑って手を振り返してくれました。(でも、皆さん、電車の駆け込み乗車はお気をつけ下さい。)

「助けられたり助けたり」、ちょっとしたふれあいを味わいながら、通勤している私の電車での風景です。

三日間のお休み、皆さんはどのようにお過ごしになりますか。三日後、私はなんとか発表原稿を書き上げて、ホッとしたログが書けますように。ではどうぞ秋の爽やかな日射しの中で、「あなた」をお過ごし下さいませ。