1月31日(火)晴れ【宗教の風光(八)坐禅】(富士山もすっかり雪景色。電線越しで残念ですが、見えるだけでも嬉しいです)
しばらくお休みしていましたが、今日は、余語翠巖老師の『宗教の風光』から、坐禅について身体と呼吸のととのえ方について説かれた箇所を紹介してみます。
「第一に身体のととのえ方である。兀兀として坐定するとあるように、動かざるかたちである。孤高なる不動の様子である。身体のすがたは図示することもできるわけであるが、一人一人身体の様子も異なるから自らの工夫がいる。
「蒲団を用う」というのは坐蒲を用いることである。坐蒲とはお尻の下に置く丸いふとんである。ともかく安定したすがたである。尻と両の膝でつくる三角形という形は、ほかのどの形よりも力学的に安定しているのである。
「第二に呼吸のととのえ方である。欠気一息しとされてあるが、簡単にいえば深呼吸である。深呼吸をすると、生理的にいえば胸がふくらむわけである。その気を吐くときに、半分を下腹に落とし込む、半分を吐き出すというようにする。下腹に落とし込むというのは、力を入れずにきわめて自然に、静かに落とし込むのである。力むと身体的によい結果とならぬ。
かくて下腹に充満した気力を持続せしめる。慣れればいつも充満しているようになるものであるが、慣れぬうちは、注意していないと、すぐに気が抜けているものである。この下腹に気が充満している様子を「丹田に力が入る」といわれる。丹田に満ちた力を持続せしめる工夫をして、いかなるときも動じないようになるという坐禅の功徳を「腹がすわる」などというわけである。丹田に気が充満したまま、長短にまかせて静かに呼吸を続けるのである。
第三に心のととのえ方である。心の様子は身体の如く形をとらないから、自分でととのえるよりしかたがない。一例をいえば、坐っているといろいろの物音が聞こえる。静かな山の中の坐堂に坐っているときせせらぎの音が聞こえ、鳥の啼き声が聞こえる。時には風のざわめきが聞こえ、暁鐘の音が聞こえる。それらの音は「聞こえている」のである。自らの意志で聴こうとしているわけではない。音楽を聴こうというときのすがたではない。意志のはからいの全くないありさまである。このように身心を放下したありさまのままでいることである。」
坐禅の基本をあらためて見直してみようと、本師の教えに触れてみました。しかし、どうも呼吸は、私にはちょっとこの通りにはしていません。坐禅人の皆さんはいかがですか。
このところ、かなり寒いですが、皆さん、くれぐれもお体お大切に。
雪が降ったり、あまりに寒いので、時々近所のキヨちゃんとタローも預かったりしています。炬燵の中の左からキヨちゃん、真ん中で威張っている感じはルナ、右はタローちゃん。脚の高い炬燵を買いましたので、三匹とも悠々と炬燵の中にいます。