風月庵だより

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『尼僧の告白』とヘッセの『シッダールタ』

2007-08-29 18:12:59 | Weblog
8月29日(水)曇り【『尼僧の告白』とヘッセの『シッダールタ』】(ある日の夕暮れ、気に入っているシーンです)


『尼僧の告白(テーリーガーター)』(中村元訳、岩波書店)を読んでいたら、次の項があり、それはヘッセの『シッダールタ』を私に想い起こさせた。

25 [遊女としての]わたしの収入は、カーシー(ベナレス)国[全体]の収入ほどもありました。街の人々はそれをわたしの値段と定めて、値段に関しては、わたしを値をつけられぬ[高価な]ものであると定めました。
26 そこで、わたしはわたしの容色に嫌悪を感じました。そうして嫌悪を感じたものですから、[容色について]欲を離れてしまいました。もはや、生死の輪廻の道を繰り返し走ることがありませんように!三種の明知を現にさとりました。ブッダの教え[の実行]を、なしとげました。(アッダカーシー尼)


ヘッセの『シッダールタ』については、お読みになった方も多いだろうが、あらすじを説明しよう。

[[バラモンの子として生まれたシッダールタは、真理を学ぶバラモンとしての優れた資質と、若い娘たちの心を揺るがす魅力もそなえていた。しかし、彼は彼を慕う親友のゴーヴインダとともに沙門たちの一団に加わってしまう。父母の悲しみを後にして。

彼はほこりまみれの沙門、苦行者たちから、「静かな情熱と、身を砕く奉仕と、仮借ない捨て身の熱風」を感じたのだった。そして若い純粋な情熱は、彼等のもとで修行をし、人生の苦悩を脱却して、真の寂静に到達する道を選んだのであった。

シッダールタは苦行者となった。瞑想をし、断食をし、呼吸を停止し、肉体からの離脱を試みた。しかし、彼の心は疑問で満ちていた。このような修行をしたところで、得られるのは一時の麻酔のようであり、真の解脱からは遠く離れているのではなかろうか、ということであった。水の上を歩けるようになったり、魔法を使えるようになることは、彼の望みではなかった。

そして、ついにシッダールタとゴーヴインダは、ゴータマという真の悟りを得た仏陀があらわれたことを耳にした。二人は沙門に別れを告げ、ゴータマのもとに向かった。ゴータマに会い、「小指の動きに至るまで真実」であり、「神聖」である、とシッダールタは思った。常にシッダールタの後に付いてきたゴーヴインダは、自らの意志でゴータマに帰依した。しかし、シッダールタは……

彼は更に遍歴を続けることをゴータマに告げた。「いっさいの教えと師を去って、ひとりで自分の目標に到達するため」であった。ゴータマが悟りに到達したのは、「自身の追求から、」「自身の道において」悟りを得たのであり、教えによってではないことを、シッダールタは見抜いたのである。自分も自分自身によって悟りに到達しようとシッダールタは誓った。

苦楽を共に修行した友人のゴーヴィンダと別れて、シッダールタは川を渡り、町に入っていった。ある林園にさしかかったとき、シッダールタは、気品有る、美しい遊女カマーラを見かけた。彼女は有名な遊女で、町にも家があり、位の高い人や、お金持ちしか相手にしない高級な遊女であった。

シッダールタは、カマーラの愛を受けるためには、お金と地位が必要であると教えられ、豪商の助手となった。世俗のお金儲けや、カマーラからは愛の教えを手ほどきされて、シッダールタは今までの、沙門の修行からは受けられなかった経験をするのだった。

それでも、自分は自分の身を以て、道を求めて遍歴しているのだ、という思いは彼の脳裡から、数年の間は消えることはなかったのだが、やがて、生活に溺れていく自身に焦燥を抱くようにさえなってしまう。シッダールタは、もはや充分に知ったのだ。享楽と権勢や、女と金にふけることの空しさを。

シッダールタは川の渡し守のもとに、一切を捨てて身を寄せた。そうして、川の流れに、「生きとし生けるものの全ての声」を聞きながら、長い年月を、黙々と過ごしたのだった。たとえいかにすぐれた教えであろうとも、他の教えを受けることを拒否し、自らの体験を通して、道に到達しようとした遍歴者は、ひたすらに渡しを漕ぎ続け、川の流れと、寡黙な渡し守のそばで、やがて、真の寂靜を得るのであった。(これ以降の話しは、『シッダールタ』の読者に委ねます)]]

シッダールタという名は、釈尊の出家以前の名であるが、ヘッセはその名を遍歴者の名に冠した。この作品の解説は評論家に譲ろう。ただ、この書を読んだとき、登場人物として、格式のある遊女カマーラがでてくるが、釈尊の時代に、このような存在があったのだろうか、と疑問を持っていた。それが、この『テーリーガーター』を読んで、詩人の想像ではなく、裏付けがあったことがわかった。

『テーリーガーター』のアッダカーシー尼が、遊女をやめて、釈尊の弟子になったように、カマーラも言うのであった。「いつの日か、私もこの仏陀に従うでしょう」と。遊女が仏陀に従うと言うのも、詩人の創作かと思っていたが、アッダカーシー尼というモデルがいたことが分かった。

おそらくヘッセ研究家には周知のことであろうが、私は、『テーリーガーター』のほうからの接近なので、この発見を面白いと感じたのでご紹介した。

この『テーリーガーター』を読んでみると、当時、いろいろな境遇の女性が出家したことがわかって興味深い。現代では、悩んだり、道を求めるような女性は少ないのであろうか、あまり出家をする女性は少ないのだが、在家と出家ではやはり姿勢が違うので、見える世界は違うだろう。寂靜の心の世界を求めたい人は、男性、女性に拘わらず、思い切って、出家なさいませんか。

しかし、そう、ヘッセのシッダールタの如く、楽な道ではありませんが、楽しい道です。

皆既月食

2007-08-28 22:16:25 | Weblog
8月28日(火)昼は曇り、夜は雨と雷【皆既月蝕】

今夜は皆既月蝕であった。しかし雨雲に遮られて見られませんでした。昨日はきれいなお月様でしたが。この写真は昨日のお月様。

しかし、私はあまり月蝕には興味がない。わくわくするような感じがない。月蝕を見ることがすごく楽しみな人には申し訳ないが、それぞれ感覚的なことには、好みの違いというものがあるのが当たり前。

私は皎々と照るお月様が好きです。デジカメ写真と、私の腕では、燦々とふり注ぐ月光が、身を包み込んでくれるような感じがでないのは残念。

付記:古代インドでは、日蝕や月蝕は、ラーフという名の魔王が、太陽や月を捕らえるために起こる、と考えられていたようである。たまたま『尼僧の告白(テーリーガーター)』(中村元訳、岩波書店)の訳注にこの註釈を見つけた。

おーい雲よ

2007-08-27 16:37:53 | Weblog
8月27日(月)曇り(ある日の空と雲)

おうい、雲よ、と山村暮鳥は雲に語りかけた。
私はボーッと雲を眺めているある日。

皆さんお元気ですか。私は元気です。仕事にも励んでいます。
あー、しかし、こんな雲の上に乗って、風の吹く空を飛んでみたいものだ。


*因みに山村暮鳥の詩を調べてみました。

  雲

おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきじゃないか
どこまでゆくんだ
ずっと磐城平の方までゆくんか


朝焼け

2007-08-17 16:25:26 | Weblog
8月17日(金)晴れ、暑さ少し和らぐか【朝焼け】

今朝の朝焼けは、かなり濃い朝焼けであった。一日として、同じ空はない。雲のたなびきから、朝焼けの度合いから、空の碧さから。曇りのときも同じだが、一刻として同じ空の様相はない。

毎朝、日の出を拝み、毎夕、日の入りを拝み、刻々の命を運んでいる。

今年も、なんとかお盆の棚経を勤めることができたので、今日はホッとしている。研究所を休もうと思ったが、一応出勤日なので、勤めています。しかし、暑いときはあまり働かないで、避暑にでも行けたらよいですね。

皆さんの夏はいかがですか。熱中症には気をつけましょう。
本当に、しばらくブログは夏休みになるかもしれませんが、お許しを。


終戦の日

2007-08-15 22:27:46 | Weblog
8月15日(水)晴れ、猛暑【終戦の日】

310万人以上もの犧牲を出してしまった戦争。二度と戦争を起こさないように、一人一人が、しっかりした反戦の意識を、持たなくてはならないだろう。

戦争に加担するのはやめよう。イラクに派兵するのもやめよう。被爆国として、戦争をやめるよう説得する側にたとう。経済的に豊かになったからといって、奢るのはやめよう。戦争で疲弊していた時代を思い出そう。食べ物が無くて、ひもじい思いをしていたことを忘れまい。餓死した子供のいたことを語り継いでいこう。

平和ボケの現状の中で、憲法九条の変更(改悪か、改正か)を論じる危うさ。

戦争を知らない子供たちも、還暦をすでに迎えた戦後62年。8月15日は戦争の悲惨さを語り継いでいく日として、大事な一日。戦争を知らない私であるが、戦争で亡くなった人々の話や、兵隊さんの母の話や、父さん、と叫ぶ声を聞くと、涙がこみ上げてくる。私が受け継いだ炎のバトンの中には、戦争で亡くなった人の炎があるような気がしている。

今日は猛暑、棚経の間、停めて置いた車中の温度計が、なんと65度を示していた。クラクラしそうになりながら、今日のお勤めも終わり。明日もう一日、勤めさせてもらえば、今年のお盆も無事に終わりである。今年もなんとか勤めさせてもらえたが、(おそらく地球温暖化現象の影響もあろう)猛暑は、お坊さん泣かせでもある。

この頃は、私が、お盆で伺うお家に、兵隊さんのお位牌のある家は殆どなくなった。東京や、東京近郊は分家が多く、そのようなお家に伺うからであろう。

戦死した息子を持つ母親も少なくなったであろうし、戦死した夫を持つ妻も、恋人を持つ女性も、戦死した父を持つ子供たちも、だんだんに日本には少なくなる。

8月15日、終戦の日に、戦争の悲惨さを語り継いでいこう。日本にはいつまでも、(第二次世界大戦の)「戦後何年」という表現が続く国でありますように。第三次は決して無いよう。そして世界に戦争の愚かさを発信していく国でありますように。

美しい国よりも、平和を願う国でありますように。

異形の雲

2007-08-14 23:43:13 | Weblog
8月14日(火)晴れ、猛暑【異形の雲】

今朝、べルセウス座流星群を見たいと思い、朝の3時まで、外で空を仰いでいた。しかし、残念ながら、見ることはできなかった。昨日の夜中の方が、見えたようだ。たまたまスエーデンから帰国していた弟が、昨日は流星がよく見えたと言っていたので、今朝も期待していたのであるが、残念。

お盆のお参りで疲れているというのに、流星を見ることは好きなので、頑張ったのだが残念。東京の空は明るすぎるのだろうか。

それでも、棚経から帰って、空が微かに夕焼けているのを見られたので、これは嬉しかった。富士山のシルエットも遙かに見えていたので、空気が澄んでいる証拠であろう。連日35度以上の猛暑ではあるが、空は澄んでいるようである。

さて、この写真は、あんなところにビルがあったかしら、随分大きなビルだ、と思った。ビルだとすると、あまりに巨大だし、変わった形である。見ている内に奇妙な気がしてきた。あたりは夕焼けているのに、この黒い物体は一体なんなのだろう。異界のなにかではなかろうか。宮崎駿の作品に出てくるなにかのようなイメージだ。しかし、この建物から、なにか飛び出してはこないかと、しばらく見続けていたが、だんだんに形を変えて、いつしか夕闇に消えていった。

ナガサキ

2007-08-09 07:39:55 | Weblog
8月9日(木)晴れ【ナガサキ】(日の出前)

今から62年前、この日、午前11時2分、長崎、2発目の原爆投下。

アメリカは、起伏の多い土地での原爆の効果を験すべく、再度の投下を決行した。原爆の開発には、巨額の経費がかかったので、一度だけの実験では、アメリカ国民を納得させられないとも思ってか、二度も実地実験をしたといえよう。

自国民さえよければ、他国民は皆殺しにしてもかまわないような、アメリカのやりかたである(勿論全てのアメリカ人が、そうなのではないが。一部の政治家や、軍人なのであるが)。今も同じようなことを、世界正義を振りかざして、地球のあちこちで行っているのではなかろうか。

日本も戦争では、酷いことを行ったであろう。しかし、それと原爆の使用を比較することはできない。広島で充分に、その惨さが分かったというのに、再び長崎に投下した行為は悪魔のわざに等しい。二度落とさなくても、日本は白旗を挙げただろう。広島への原爆投下もさることながら、長崎への投下は、全く不必要な戦略であったはずだ。

さて、広島は浄土真宗の門徒さんが多い土地柄だそうだが、長崎はキリスト教の信者さんや、その影響の強い土地であり、「祈りの長崎」と言われる所以であろう。

『長崎の鐘』の著者であり、長崎医大の医師、永井隆博士も長崎で被爆され、妻の緑さんを失った。博士は原爆のために頭部に重傷を負ったにもかかわらず、重傷の身で、被爆者の救護活動をされた。しかし、翌年、ついに病床に伏す身となってしまった。(被爆の前、すでに白血病で、余命3年、と宣告された身ではあった。)

博士は、闘病生活を送りながら、亡くなるまでの5年間、『亡びぬものを』『ロザリオの鎖』『この子を残して』などの作品を書き続けた。『長崎の鐘』はベストセラーとなり、出版の翌年(昭和25年)松竹で映画化された。この主題歌は、今も多くの人が、ご存じであろう。作詞、サトウ・ハチロー、作曲は古関裕而による名作である。

博士は、昭和天皇に拝謁したり、ヘレン・ケラー女史のお見舞いを受けたり、内閣総理大臣から表彰されたりしている(これらはGHQの占領政策の一環であろうが)。また多額の印税を、浦上天主堂の再建に寄付をしたり、千本桜の苗木を植えたり、子供図書館(うちらの本箱)を建てることに使っている。自らは僅か2畳の如己堂で、昭和26年5月1日、平和を願い続けて亡くなられた。43歳。洗礼名はパウロである(26歳のとき洗礼を受けている)。自分自身を滅却した献身的な生き方は、賞讃してあまりある一生と、誰しも異存はないだろう。

しかし、『長崎の鐘』に書かれた一文は、問題となったようだ。それは次の箇所であるという。「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」

多くの艱難が、自らを鍛えてくれたことに、感謝することはある。しかし、自分にだけ言うのならば、問題はなかろうが、他の多くの被爆に苦しむ人たちを巻き込んでの言葉としては、受け入れられない言葉であろう。キリスト者としての深い信仰から、出てきた言葉ではあろうが、この言葉に触れた、当時の浦上の人々の心を逆撫でしたことは、想像に難くない。視点を変えれば、この言葉のお蔭でGHQの出版許可がとれたのかもしれない。博士の意図と反して、アメリカ側に利用されたことは、事実のようだ。

10秒の原爆が、60年以上たった今でも、被爆者に苦しみを与えていることを、世界の人々、アメリカ国民の多くも実状を知らない。世界中の人々に核の恐ろしさを発信し続けていくことが、被爆国日本の悲しい責務であろう。

最近、友人が美しい声で、『長崎の鐘』を歌ってくれたので、あらためて永井博士について、学ばせて貰いつつ、平和を願い、長崎の空に掌を合わせた。

*次のブログの資料を参考にさせていただきました。http:base.mng.nias.ac.jp/k15/Nagai
*「マンハッタン計画」や黒木和夫監督作品などについて、昨年少し書きました。風月庵だより2006【ナガサキ
*このログを書くために、『長崎の鐘』を神保町で探したが、見つからなかった。インターネットの古書で探したら、『マニラの悲劇』が付録についている昭和24年の刊行になるものがあったので、注文した。『マニラの悲劇』は日本軍のアジア各地での残虐行為が書かれた小説らしい。原爆投下の正当性を書いているようで、やはり、残念ながら『長崎の鐘』は占領政策に利用されたようだ。
*末木文美士先生の『日本仏教の可能性』(春秋社、2006年)の中に、興味ある一文があったので、追加します。「アメリカの民主主義は世界に通用するという傲慢さも、やはりみんな同じレベルにいるのだから、自分が正しいことは世界じゅうだれにも通用するという考え方から出てくるのではないでしょうか。わからない他者をもう一度受けとめるべきではないかということそれがいちばん大きな問題ではないかと思います。」(192頁)

冥福を祈って「舍利礼文」

2007-08-06 15:14:52 | Weblog
8月6日(月)晴れ【冥福を祈って「舎利礼文」】(今朝の日の出と雲)

今日は広島に原爆がおとされた日である。8時15分一瞬にして、多くの命が失われた。それこそ、お骨さえ残らない人が無数にいらっしゃったことだろう。

山本さんという人は、焼け尽くされた叔父さんの家の跡から、燃えていた小さな炎を、福岡星野村に持ち帰り、竈やら仏壇の灯明として、燃やし続けたという。その火は後の人々に受け継がれ、福岡の山中に建てられた「平和の塔」で、62年間消えることなく燃え続けている。この炎は「恨みの炎」から、「平和を願う炎」に変わり、これからも燃え続けていくだろう。

アメリカには、被爆の悲惨さや、未だその後遺症に苦しんでいる人々がいる現実を、ほとんどの国民は知らないのだという。アメリカ人の平和記念館の理事長さん(役職は違っているかも知れない)の願いは、アメリカにこの実状を講演し、核兵器廃絶を訴えたいと、コメントされていた。日本にいると、世界中のひとが原爆の悲惨さを知っているような誤解を持ってしまっている。確かにもっと当事者のアメリカに、世界に、原爆の悲惨さを発信しなくてはならないだろう。

今年の「平和への誓い」は、森展哉君(12)と山崎菜緒さん(12)の二人によってなされた。子どもさんながらに、切々と平和への願いを訴えてくれていた。

さて、「舎利礼文」についていろいろと調べてみた。先ず、なぜ日本撰述ではないかと、考えたかというと、『大正蔵経』の中には収録されていないし、他の文献の中にも、ちょっと見いだせなかったからである。

「舍利礼文」について書かれた論文を、一つだけ探せた。また『密教大辞典』(法蔵館)にも、この偈文は、中国阿育王山で、不空三蔵が作ったという伝承があるようだ。しかし、あくまでも伝承であり、裏付けとなる資料はないようである。

「舍利礼文」を誦して仏舍利を礼する功徳によって、成仏することを得たという霊験談は、古来よりあるそうである。それを根拠として、亡き人の供養の折などに、「舎利礼文」を誦することは、やはり理に合っているようである。曹洞宗のみならず、日本各宗で、この偈文は唱えられているようだ。

今日はあらためて、広島の原爆で、命を失った人々のために、「舎利礼文」をお唱えしたいと思う。今年で、25万3008人の方が、原爆によって、亡くなられた。心より冥福を祈り、世界の平和を願いたい。

風月庵だより2006年「ヒロシマ


仏舎利

2007-08-05 22:12:17 | Weblog
8月5日(日)晴れ【仏舎利】

昨日は、『舎利礼文』を唱える坊やのログでしたので、少し仏舍利(釈尊のお遺骨)について考えてみます。『舎利礼文』は仏舍利を礼拜する偈文です。

釈尊はクシナーラーで入滅なさると、マッラ族によって荼毘だび(火葬)に付され、その遺骨は八つの部族に分けられました(「舎利八分」)。それぞれの部族は、仏舍利を収めた塔を建てて供養したようです。この「舎利八分」については、原始経典の『涅槃経』に書かれています。

八分された仏舍利は、アショーカ王(阿育王)(治世:紀元前268~232)によって、そのうちの七塔が開かれ、全インドに八万四千の塔が建てられたと伝承されています。舎利信仰は中国にも伝えられ、浙江省寧波にある阿育王寺には、阿育王塔の伝承があります。阿育王寺のみならず、中国各地に仏舍利塔は建てられました。(私も阿育王寺と西安にある慈恩寺の大雁塔-唐・704年頃建立ーをお参りしたことを、このログを書いていて、あらためて思い出しました)。

日本には、円仁(794~864)が持ち帰ったと言われています。円仁は九年間の唐の旅行記である『入唐求法巡礼行記にっとうぐほうじゅんれいこうき』を著しています。唐からの帰朝は847年ですから、そのときに仏舍利が、日本にはもたらされたということになるでしょう。舎利供養の法会は、860年に比叡山ではじめてなされたそうです。

仏祖の功徳を讃えるのが、舎利会しゃりえの本来の目的ですが、亡くなった人の供養のためにも舎利会が開かれたそうです。

法事の供養で『舎利礼文』をお唱えするのも、釈尊の舎利供養をして、亡くなった人に供養の功徳を回向するところから始まったのではないでしょうか。

その『舎利礼文』の偈文ですが、この偈文について詳しいことが、手元にある資料では分かりません。江戸時代の写本があることは記された資料はあります。日本で作られた偈文ではないかと思います。法相宗の解脱上人貞慶じょうけい(1155~1213)が、釈尊の舎利を崇拝して『舎利勘文』を著した、と『仏典解題事典』(春秋社、1966年)にはありますので、これに関連があるかもしれませんので、明日また調べてみます。

先日、「坊主憎けりゃ」について書きましたが、こちらはその逆で、お骨といえども、釈尊のお遺骨は、たとえかけらほどでも、舎利塔が建てられ、信仰されています。お釈迦様を尊崇して、その舎利をもあがめるような信仰心は、私には、どうも欠けているようです。まことに罰当たりかもしれません。

しかし、「釈迦如来 真身舎利しゃかにょらい しんじんしゃり」の偈文の意味を考えれば、真理そのものの身体である釈尊の舎利なのですから、現実の舎利は真理の象徴であるのであり、それに対しての尊崇の念は、真理を尊崇することに他ならないことになるでしょう。

しかし、このようなとらえ方は理屈っぽすぎるでしょう。一生掛けて貯めたお金で、仏塔を建てるという、東南アジアの仏教徒の人々もいます。私自身の信仰がどうも理屈っぽいことを、再確認致しました。

昨日の『舎利礼文』に因んで、自身の学びとして、舎利についてまとめてみました。

訂正:日本へ仏舎利が、はじめてもたらされたのは、588年だそうです。百済王が、崇峻天皇に献じたものです。次は鑑真(688~763)和上が754年入朝の折に、お持ちになったことが、『総合仏教大辞典』(法蔵館刊、1987年刊)には書かれています。

*お詫び:8月はいろいろと忙しいことがあり、ブログはお休みするかもしれませんが、宜しくお願いいたします。恐縮ながら、2005年11月からブログを開設していますので、以前のブログをお読みいただけますと幸甚です。(左側のブルーの年月例えば2005年11をクリックして下さいますと、以前のログが出ます。)コメント管理はしますので、古いログでもコメントを頂ければ、お返事を書かせていただきます。宜しくお願いいたします。

坊やの読経

2007-08-04 21:09:51 | Weblog
8月4日(土)晴れ暑し【坊やの読経】

東京は、暑い一日でした。夜になってもまだ暑さはやわらぎません。我が家の温度計は室温は30度、湿度は55%を示しています。ついにクーラーの電源を入れました。私は冷房病なので、ドライ運転にしてみました。

読書をし出すと眠くなります。それでは少しでも寝た方がよいかと、横になると、眠気はどこかにいってしまいます。諦めてパソコンに向かっています。

皆さんは如何な週末をお過ごしですか。

さて、お経先でのこと。5歳の坊やが法事の席に並んでいました。坊やにとってはお祖父ちゃんになる人の一周忌です。法事が始まるまでは、元気に動き回っていましたが、誦経をはじめますと、静かになったようです。私は仏壇のほうに向いていますので、後ろの様子は見えません。でも気配でわかります。

法事の進め方は、曹洞宗としての基本はありますが、基本以外に、それぞれのお寺の伝承があります。それぞれのお師匠様から教えられた口伝もあるでしょう。私は『般若心経』を、列席の人たちと一緒に唱えます。

法事の当事者は、お坊さんではなく、法事の主役である故人と生前に縁ゆかりのあった人たちであり、その方々がともに供養のまことを表せるように、お導きするのが、僧侶の役目の一つであると、考えています。お坊さんだけが一人でお経をお唱えして、法事に列席の人が、意味の分からないお経を、ただ聞いているだけのような法事の進め方は、私はしていません。(多くのお坊さんはそのようになさっているのでは、と思いますが。ただそれぞれの方法がありますので、どのような法事の勤め方がよい、といえるものではありません。)

さて、まだ坊やは就学前なので、『般若心経』の経典は読めないでしょう。しかし、『舎利礼文しゃりらいもん』というお経を、私が唱えていますと、可愛い声が聞こえてくるような気がしました。自分の声を少し小さくしますと、坊やが『舎利礼文』をお唱えする声が、はっきりと聞こえてきました。私の誦経にきちんと合わせてお唱えをしてくれています。

誦経が終わってから、聞いてみますと、お寺が経営している幼稚園に通っているので、毎日お唱えしているのだそうです。そして、お祖父ちゃんの月命日には、お墓参りに行って、いつもお唱えしているのだそうです。

こんなお孫さんと一緒に、お勤めができて、嬉しいご法事でした。『舎利礼文』の意味は分からなくても、神妙に合掌して、神妙にお経をお唱えする、それが坊やに、染み込んでいくのではないかと思いますが、将来への影響まで、論じるのはやめましょう。今、このとき、このようなひとときがある、ということを、私は讃じます。

明日のことは、誰にもわかりません。今日一日、かくてあったことを、ただ感謝して。