風月庵だより

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お寺を守る人々

2015-12-28 14:56:28 | Weblog

12月28日(月)晴れ【お寺を守る人々】

いよいよ今年も、あと4日間になりました。お正月を迎えるためにあれもこれもしなくてはなりません。

昨日は、この一年間、力を合わせてお寺を守ってきた総代さんたちと納会をしました。このお寺の総代さんたちは親の代から、世襲の総代さんたちです。お寺を守るという意識が大変に高いです。

私は3年前からの住職で、勿論お寺を守るという意識も強く持っているつもりですが、総代さんたちはこのお寺を守ってきた積る時間をお持ちです。今、当寺は難題を抱えていますが、今までも多くの問題を総代さんたちと住職で力を合わせて乗り越えてきました。この度もなんとしても、難題を切り抜けようと結束を固めた納会でした。

場合によっては全檀家さんたちの署名を集める必要があれば、それもしようという意気込みです。とにかくお寺を守るためならば、どんな苦労もいとわないという方々ばかりですので、有難いことだと思います。

お寺とは建物だけをいうのではありません。仏法を伝える場であり、法を学ぶ場であり、それぞれのご先祖をまつる場であり、檀家さん一人一人をお寺と総称していると思ってください。

お寺は、決して僧侶が生きていくための報酬を得るための存在ではありません。このことを取り違えますと、「法」が守られないことになります。住職はお釈迦さまからの法を守ることに身命をかけています。総代さんたちは先祖からのお寺を守るために真剣です。

今年一年間本当に私にとって、大変な年でした。私自身が未熟であるからにほかなりませんが、お寺を守るため決してへこたれない覚悟です。

それも当寺の総代さんたちのような強い味方がありますから頑張れると感謝しています。一人では何もできません。真の信頼を築くことこそ、人間にとって大事な学びです。その学びから逃げていて、権利だけを主張し、自分だけが正しいと陰で言っているような生き方をしている人間には、残念ですが開こうとしていた道さえも閉じてしまうことになるでしょう。

お互いに堂々と、この大道を歩んでまいりましょう。仏法に守られた大道です。「潔く、清々しく、生き生きと」

皆さま、どうぞ、良いお年をお迎えくださいますよう。

(再び、パパ猫が行方不明になりました。あちこち探したり張り紙をしたりしています。手前の猫ちゃんです。もうこれ以上は飼えないと思っていましたが、この猫ちゃんだけはなんとか守りたいと思っていたのです。この寒空にどうしているかと思うと胸がいっぱいになります。)

 

 

 


母と暮らせば

2015-12-21 22:08:15 | Weblog

12月21日(月)晴れ【母と暮らせば】

きょう、母を連れまして、吉永さんの『母と暮らせば』を観てきました。新宿ピカデリーでの舞台挨拶の回の切符を頂戴しましたので、友人二人に助けてもらってなんとか連れて行くことができました。

舞台挨拶のあと、宣伝用の写真のために客席側にお立ち台を置いて、そこに三人(吉永小百合さん、山田洋次監督、二宮和也さん)がいらっしゃいました。その隣の席でしたので、母に気付いてくださった吉永さんが、さりげなく母の手を握ってくださいました。

母にとって、これこそ冥途の土産となったことでしょう。

内容をここで紹介するまでもなく、皆さん、すでにご存じと思います。

とにかく素晴らしい映画でした。戦争を知らない若者たちに是非ご覧いただきたい映画です。嵐のメンバーの二宮さんが出ていますので、若い女性ファンの姿が多く見られましたので、私が言うまでもなく、多くのファンがご覧くださっているようです。封切一週間で、今日までに60万人の方がご覧なっているようです。

また願わくは、原爆を投下したアメリカや、原爆保有国の人々にこそご覧いただきたい映画です。

一人でも多くの方にご覧いただきたい映画です。

子どもを連れて観に行った方々が、8歳の娘が泣いていた、とか幼い子どもも泣いていた、というメッセージがありました。小さなお子さんでも理解できる映画ですから、この冬休みには、是非ご家族でご覧になってはいかがでしょうか。

日頃の生活の中で、なかなか感動を味わうことができませんが、心に感動を呼び起こしてくれる映画です。

私はかつて、広島の原爆、長崎の原爆を非道なことと当然のように思っていましたが、アメリカの人々の中には、原爆は戦争を終結するために肯定されるべき当然のことであると、とらえていることを知って、大変にショックを受けたことが忘れられません。

『父と暮らせば』、『Tomorrow 明日』も観ましたが、この作品も、原爆の悲惨さを日常生活を通してじっくりと心に訴えてきます。人情派の山田洋次監督の傑作と思いました。

劇作家・井上ひさしさんの代表作『父と暮せば』と対となるような作品です。昭和20年8月9日、長崎に投下された原子爆弾。一発の爆弾が犯した数えきれない残酷な物語の中の一つ、お産婆さん伸子役の吉永さんと、息子・浩二(二宮和也)の亡霊の交流を描くファンタジー作品です。

是非、皆さん、劇場に足をお運びください。


介護の果てに

2015-12-11 17:35:00 | Weblog

12月11日(金)大雨、そして晴れ渡り、夕方は黒雲が再び【介護の果てに】

今日は、近在のご僧侶の本葬がありました。大変、信頼の篤い老師でしたので、多くの僧侶の方がお見送りにいらっしゃいました。私は20数年前にお目にかかったことがありましたが、思いがけず、近くのお寺の住職として入りましたので、この頃はよくご尊顔を拝することがありました。温和なお顔と、少しトーンの高いお声が目にも耳にも残っています。個人情報もあるでしょうから、お名前は書きませんが、僧侶として多くの人々をお導きくださった方でした。僧侶の模範のような方でした。

さて、数日前のテレビで、「介護殺人」という特集がありましたので、他人ごととは思えずに見ていました。介護に疲れてその挙句、心ならずも、手にかけてしまうという痛ましい事件を時々耳にいたします。先日起きた、車で川に入って両親がお亡くなりになった事件も、介護をなさっていた娘さんに同情の念が湧きます。

自殺のことも自死という表現でこの頃は表現されますが、介護殺人と言う表現もいかがなものかと思います。もう少し救われる表現はないものでしょうか。ご自分も死を覚悟してした場合、自分は死ねなかった場合はせめて「介護心中」とでも言ってほしいです。決してそれほど良い意味ではありませんが、「介護マーダー」は?マーダーは英語murderですが。

もっとよい表現をどなたか自死を考えたように、お考え頂きたいものです。

しかし、私もほとんど一人で百歳の母のめんどうを見ていますが、時々は爆発しています。

ところが、母は耳が遠いので、全く爆発は通じないところが、ご愛嬌です。介護をなさっている皆さん、いかがですか。無理しすぎないで、時々は息抜きが必要です。これは冗談ですが、母に「お母さん、いつお亡くなりになっても享年百歳になりましたから、ご安心ください」などと平気で言っております。僧侶だから言える冗談かもしれません。

また、10位何か言われても、5位は聞きますが、それ以上は聞き流すこともいたします。全部聞いていては、こちらの仕事ができなくなります。

また、母の認知状態が去年の12月くらいから始まりましたので、すぐに介護保険を使わせていただくことにしました。それまでほとんど介護保険は使わなくて済んでいましたので、お陰様でしたが、すぐにリハビリの方や看護師さんに来ていただけるようになりまして、認知状態はストップしてくれました。週に三回ですが、それでも私以外の人と話したり、時には、若い男性のリハビリの先生に来ていただけますので、とてもよい刺激になっているようです。

介護なさっている方は、一人で見ようと思ってはいけません。周りの助けをお借りくださいませ。そうして、必ず最期の時は来ますので、安心してお世話をなさってください。夜徘徊されるのは困りますが、危なくないように周りの品に気をつけて、ご自分はなんとしても寝なくてはいけません。

母も夜中に時々転ぶことがあり、その物音で、私もすぐ飛び起きますが、そんなこともありますが、睡眠は大事です。一頃、私も心配事があって眠れないことがありましたが、今は自分の身を大事にしなくてはいけないと思いまして、寝るように心がけています。

介護の果てのマーダーに及ばないように、まーだだよ、と自分に言い聞かせてください。介護が終わりましたら、あなたの自由な時間が必ずやってきます。その時までの辛抱です。母の場合は私よりも元気なくらいですから、なかなかその日を望めそうもありませんが、なんといいましても百歳ですから、もうしばらくの辛抱でしょう。これは内緒の冗談です。

どうぞして、介護で苦しんでいる皆さん、時折は介護を忘れて、雲を眺めたり、星を眺めたり、鼻ではなく花を眺めたり、猫をなでたりなさってみてください。時には、一人でダンスでもなさったり、楽しい歌でも大きな声で歌ってみてはいかがでしょうか。実は、私はダンスも歌も大好きです。自由ダンス、自由メロディーです。なんとしても、介護の果てに、という切ないことになりませんように。

でも、おそらく、私のブログを見てくださるような余裕はない方が多いでしょうね。このブログをお読みくださる方、どうぞ、自殺を自死とかえたように、介護殺人という表現をなんとかしてくださいませんか。

 

 

 


誕生日

2015-12-09 20:45:38 | Weblog

12月9日晴れ【誕生日】

昨日は、私の誕生日でした。12月8日、この日を耳にして、あなたは何を連想なさいますか。

出家する前は、ほとんどの方に「真珠湾攻撃の日なんですね」と、言われていました。

出家後は、「え!お釈迦様のお悟りの日なんですね」と言われるようになりました。

やはり後者のほうが嬉しいですね。ところで「お悟り」とはどのようなことなのでしょうか。

お悟りとは、これこれこういうことである、と書かれた語録や史伝にまだ不勉強でであったことがありません。それどころか、ほとんどの老師方は、「悟りなんてないよ」とおっしゃいます。

勿論、神通力を得るような事とは違う、ということくらいは、私にもわかります。しかし、道元禅師様は「悟り有り」と仰っています。私はそれを信じています。「悟りはない」と言うようになってから、修行者が怠け者になったような気もしますし、求道の心も弱まったような気がします。

馬祖道一禅師のころ、門下の修行者たちが、「即心是仏」、「仏」になりたいと執着するほど修行していました。万法は皆心から生じているのであって、心は万法の根本である。万法の根本とは仏に他ならない、というように訳しておきたいと思いますが、あまりに「仏」になろうとして、弟子たちが修行するのを見て、馬祖はついに「即心即仏」ではなく、「非心非仏」と説くようになりました。

真面目な修行者たちほど「悟り、悟り」と悟り病に罹っていますので、老師の方々も「悟りなどない」と言うことになってしまったのかもしれません。

そのような傾向が、私は現代の修行者たちが、修行の目的がわからなくなってしまったのではないかと思うのです。

「生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり」と道元禅師様は仰っています。一大事因縁とは、「悟りを開くきっかけ」のことです。ここは『修証義』の冒頭に使われています。この一文を参究することは、一生をかけて修行しつつ参究していくことと私はとらえています。

さて、かたちだけ頭を丸めていても、道を求めるよりも、より良い生活をもとめているような若者、さらに全く礼儀も知らず、陰でごねているような若者に出会い、残念なことだと思っています。若者には、どんな困難にあっても生き生きと清々しく生きてもらいたいと思います。それが、道を開く鍵なのだということを知ってほしいです。「ノー」と言われた場合、「ノー」の意味があります。道心を持っているならば、いかにノーと言われても恐れることはありません。潔く次の道を歩めばよいのです。黙々と、誠実に。

執着して生きていく生き方には、道は開くどころではなく、どの扉も閉じてしまうでしょう。お釈迦様も、道元禅師も、何のために出家したのか、と問いかけたいことだろうと思います。勿論私自身も常に自分に問いかけています。潔く生きてきたつもりです。他人もそうだろうと思ったことは間違いでした。

お釈迦様の成道の日に生まれたことはまことに勿体ないことですが、少しでもあやかった生き方をしようと改めて心に誓った誕生日でした。

話はかわりますが、寒くなりました。皆様風邪にはお気をつけてください。