風月庵だより

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『母べえ』を観て

2008-01-27 23:56:36 | Weblog
1月27日(日)晴れ【『母べえ』を観て】(舞台挨拶、撮影ー風月庵) 昨日『母べえ』の封切りを観た。第二次世界大戦前の日本で、自由に物を 言えなかった時代のある家族の物語である。 (原作者野上照代さん)ご存じのように、これは野上照代さんという方の原作で、実話にもとずいている。

 ドイツ文学者であった野上滋(坂東三津五郎)は、支那事変は日本軍による戦争であるとし、戦争反対を唱えた。しかし治安維持法違反の思想犯として彼は特高 に捉えられてしまう。野上家では滋は「父べえ」、母親(吉永小百合)は「母べえ」、長女初子(志田未来)は「初べえ」、次女照子(佐藤未来)は「照べえ」 と家族内で呼びあっていた。昭和の初期の頃、愛称で呼び合うような、つましいながらも温かい明るい家庭であった。父べえが一家から奪われた日から、野上家 には苦難の日々が始まることになってしまった。

 しかし、母べえは必死に二人の娘を守り、代用教員を勤めながら生き抜いていく。二人の娘も父のいない寂しさに耐え、母と肩を寄せ合って明るく生きていく。 そして時折拘置所から届く父べえからの便りが家族にとっての心の支えだった。また三人からの便りは父べえにとっては最大の支えであったろう。

拘置所での悲 惨な生活が時折に画面に映される。思想犯として厳しく転向を迫られるが、滋は己の信念を曲げなかった。佳代もそのような夫への信頼を揺るがせることはな かった。 信念を揺るがさない滋の生き方にも、夫を信じ、子どもを守って生き抜く妻の姿にも、激動の時代に翻弄されながらも凛として生きた人間の姿を見ることができ る。それも山田洋次監督の描きたかったことの一つであろう。

また、母べえのみならず、野上家を取り巻く多くの心優しい人々も描かれている。滋の教え子、山崎(浅野忠信)はいつも家族を見守り手助けをしてくれるの だった。滋の妹久子(檀れい)も広島から絵を学びに来ていて、兄の留守家族をなにくれとなく手伝うのだった。 あらすじについてはこのくらいにいたしましょう。是非映画館に足をはこんで頂き、この丁寧に描かれた映画をご覧下さい。

 父べえ役の坂東三津五郎さんは、「一番気づかないけれど、一番失って大きいものは、ありふれた日常なんです。失くしてみて初めて気が付く、日常を繰り返す ことの幸せ、そして、これをまた失うことがどれだけ悲しいか、というが伝わればと思います」とパンフレットに書いています。

軍事力が一国を掌握すると、いかに庶民の生活が脅かされることになるか。ほんの60数年前の日本の状況を、庶民の生活を描きながら、その恐ろしさを監督は 伝えたかったのであろう、と思う。シビリアンコントロールがきいている現在の日本では、軍人が巾をきかせる時代が再び来ることなど、想像だにできないかも しれないが、それはわからない。国民は常に注意を払わなくてはならないだろう。 例えばこのように、ブログで当たり前のように自由に物を言っているが、それが全く許されない時代があったことを忘れてはならない。

映画という手段を通じ て、視覚と聴覚から感性に訴えかける力は、個々人への影響は大きいだろう。 「若い人たちにも、是非ご覧頂きたい」と吉永さんも舞台挨拶で最後にお願いされていたが、ここにこそ大事な願いが込められていただろうと、後からつくづく 思っ。た 戦争の翌年に生まれ、戦争を知らない私であるが、それでも私たちの世代は多少は戦争の恐ろしさや、軍部が政治の中心になる恐ろしさを想像すること はできる。しかし、若い方々はいかがであろう。恐ろしさは想像できても、そうさせない危機感を持っていられるだろうか。この危機感を養うことは常に大事な ことであろう。

それが映画や文化の力であろう。これからの日本の時代を担っていく若い方々の感覚、感性に、この映画の静かなる訴えを焼き付けて頂きたいと痛感す る。『母べえ』は、娯楽として楽しめる面もありながら、そのなかに込められたメッセージをそれぞれに受けとめられる映画の一つであろう。
私がお勧めするまでもないでしょうが、是非子どもさんも共に『母べえ』をご覧下さい。 *60歳以上の人の鑑賞券を安くするよりも、若い人の鑑賞券こそ安くしたほうがよいのでは。但し、前売りで買うと若い人にも1000円の鑑賞券があるようです。

飛行機雲

2008-01-19 18:28:52 | Weblog
1月19日(土)寒し【飛行機雲】

高村光太郎の道程について、この前にログを書いたら、空に飛行機雲が何本も見えました。上空はかなり気温が低いのでしょう。しかし、すぐに跡形もなく空に消えていきました。

私たちの歩いた道は、肉眼には全く見えませんけれども、「僕の後ろに道はできる」
後ろにできた道は自分にしか描けない唯一の道です。最期まで、最期まで。

梅早春を開くー僕の後ろの道

2008-01-18 13:20:27 | Weblog
1月19日(土)寒し【梅早春を開くー僕の後ろの道】

芝公園を散歩していると、梅の香りがどこからともなく香ってきた。公園には数十本の梅の木があるが、そのうちの一本が、はや花をつけているではないか。

道元禅師のお師匠様である如浄禅師(1163~1228)の言葉がすぐ脳裡に浮かんだ。「梅早春を開く」(こういう言葉がすぐ浮かぶところは、私はやはりお坊さんというところでしょう。しかし、この言葉は曹洞宗のお坊さんには、周知の言葉なのですが)

歳旦。上堂。元正啓祚。萬物咸新。伏惟大衆。梅開早春還見麼。舉拂子云。一枝拈起眼中塵(大正蔵経48巻123頁c)

歳旦さいたん。上堂。元正啓祚がんしょうけいそ。萬物ばんもつことごとく新たなり。伏して惟おもんれば大衆だいしゅ。梅早春を開く、還た見るや。拂子ほっすを舉げて云く、一枝、眼中の塵を拈起す

お寺の修行僧たちを前にして、新年のお言葉である。「梅早春に開く」とは読まないで、「梅早春を開く」と読むのだと、何度と無く聞かされてきた読み方である。「に」と「を」の違いをかみしめたい。春が来たから、梅が開いたのでは無く、梅が開いたから春なのだ、ということ。

そして、私は高村 光太郎(1883年~ 1956年)の「道程」という詩を次に思い浮かべた。

     僕の前に道はない
     僕の後ろに道は出来る
     ああ、自然よ
     父よ
     僕を一人立ちにさせた広大な父よ
     僕から目を離さないで守ることをせよ     
     常に父の気魄を僕に充たせよ
     この遠い道程のため
     この遠い道程のため


この詩は光太郎、30歳ごろの詩である。
僕が歩いて道はできるのだ。誰でも、歩いてきた人生のひとすじの道。どんな道でも自分の歩いてきたひとすじの道である。時にはつまずいたかと思い、時には挫折などという言葉で振り返ったかもしれない、それでも自分の道は続いていたし、終わりまで描き続けていくのだ。僕が、私が、それぞれの道を描いていくのだ。梅が早春を開くように、どんな道でも、この自分が歩いて、それぞれのシュプールを描いていく。絶対空間のただなかに。(この空間は視覚的な空間ではない)


さあ、最期までどんな道を描いていくか、「ああ、自然よ、父よ、広大な父よ」光太郎は父と表現したが、母でも同じだろう、しかし、若い光太郎にとって、厳しさに立ち向かう気魄が父と言わしめたのであろう。反発をして、越えようとしていた実際の父である、高村光雲を脳裡に浮かべていたのではなかろう。我々を生かしめている大自然を前に、信念を抱いて敢然と歩んでいこうとしている光太郎の姿が、この詩から彷彿としてくる。

さあ、私たちも若くも年を重ねていても、それぞれの我が道、道無き道だが、敢然と歩いて参りましょう。

自分自身にも願うこと

2008-01-13 19:53:38 | Weblog
1月13日(日)曇りのち晴れ【自分自身にも願うこと】

先日、嬉しいことがあった。とてもしっかりとした少年の声を電話で聞くことができたこと。彼のお父さんは、彼がお母さんのお腹の中にいるときに、ご病気で亡くなってしまった。彼が3歳ぐらいからだろうか、毎年ささやかなるクリスマスプレゼントとお年玉を送っている。その少年がはや、中学2年生になった。そして、去年までは、私と電話で話すのも照れくさそうであったのに、今年の電話の声は声変わりもして、話の応対もしっかりとしているのだ。「いつも気持ちばかりでごめんね」と私が言えば、「そんなことはありません、有り難うございます」とはっきりとした答えが返ってくる。

遠くに引っ越しをされたので、六歳頃に一度会ったきりだが、その頃は元気なやんちゃな坊やだった。坊やが年々に成長する様子をお母さんからうかがってはいたが、いつの間にかしっかりした少年に育っていてくれていて本当に嬉しかった。

彼のお兄ちゃんやお姉ちゃんからも、時折にお手紙を頂いて、それは私の宝物なのだが、私にとっては、お父さんの顔も知らずに育った彼の事はことさらに気懸かりであった。きっと母親や兄弟や他の人にも分からない彼の心の葛藤はあるに違いない。でも彼なりにその葛藤を乗り越えて、少年の日々を送っているのだろうと思う。「元気でね」というのだけが私の願いである。元気でさえあってくれれば、それで十分有り難い。

世に「葬式仏教」などと批判的な表現がある。しかし、私は僧侶として、人の死を弔うことの一役について、それもこの世における大事な一役として受けとめている。釈尊の頃はたしかに葬祭には関わっていなかったし、教えのなかにはそれはない。それはキリスト教においても同じである。人間社会での変化である。変化しないものは一切無いことを教えられたのは釈尊である。ただ必要以上に高いお布施は問題にすべきだが、高いのは葬儀社への支払いなのではなかろうか。僧侶へのお布施については、忌憚無く相談したらよいのではなかろうか。また決して院号などに拘ることはないのだし、現在の院号の授与については問題があると、僧侶としてヒヨコの私ではあるが、私はそう思う。

江戸時代の鈴木正三すずきしょうさん(1579~1655)は世間の仏法を「慰み仏法」「でき口仏法」「だて仏法」「へご仏法」などと批判なさっている。

他の僧侶の方のことをとやかく言う気は私には無い。ただ、自らのこと。僧侶というにはあまりに未熟、未熟ながら今年も坐禅を怠らず、研究生活を送らせてもらいたいと願っている。「元気でね!」この五蘊に意識されている「私という何か」。雲散霧消するまでの間のこと。(私って一体なんでしょうね?)

あ、皆さんも、どうぞ、お元気で。

(昨日、めまいがひどく、どうしたことかと心配していました。高校時代の友人たちと近所の誼よしみ会をしたのですが、そこで、優しい友が首と肩をマッサージしてくれました。たちどころにめまいが治りました。肩や首筋が懲りすぎてもめまいが起きるようです。お互いに、体も修正しつつ上手に動いて貰うように気を付けましょう。)

祈り

2008-01-01 00:39:34 | Weblog
1月1日(火)【祈り】(今日の朝陽)

少年が母に駆け寄る
腕をひろげて母は待つ

差し伸べた手を
しっかりと握りかえす二人がいる

挫けそうな友の肩を
励まして抱く腕がある

母と子を、愛し合う人々を、助け合う友と友を
引き裂く爆風が吹き荒れる

人が人を殺し合うことなどやめよう
母と子が、恋人たちが、隣人が
人がみな
平和に生きられる世界が来ることを願って
この年
楽しいことで満ちあふれますように
苦しいことも乗り越えた喜びで満ちあふれますように
人と人が殺し合うことを
地球上の全ての人がやめて
人間として生きあうことができますように

人々の平和を願い、人々の自由を願い
倒れていったあの人の最後の叫びは
"May PEACE reign in the WORLD!"