風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

運不運

2009-07-31 17:06:49 | Weblog
7月31日(金)曇り【運不運】(これは先週見えた虹です)

今朝出勤の電車でのこと。私が立った前の席の両側が全部次の駅で空きました。私のみ残念ながら座れませんでした。家から研究所まで3回乗り換えます。つまり違う交通機関や路線に4回乗るわけです。4回とも座れることは滅多にありませんが、両側が全部空いたというのに、私の目の前だけ座っていらっしゃった、ということは本当に残念でした。

しかし、帰りはなんと珍しいことに、全線座ることができました。

こんなことに一喜一憂しながら、毎日かよっているのです。

おまけですが、車中で今は、石井修道先生の「最近の道元禅師研究に想う」を読んでいます。昨日は横山紘一さんの『十牛図入門』を読み終わりましたが、道元禅師のお考えと、臨済宗では是とされる十牛図は全く考えが違うことが説かれたりしています。

おまけですが、バスを待っているとき、あっちにふらふら、こっちにふらふらしながら歩いてくる女性がいました。酔っているのとは違うようで、ちょっと異様な感じがしましたが、車道に出そうなので「大丈夫ですか、危ないですよ」と声をかけました。「だ、い、じょう、ぶ、です」と言いながら、右に3ン歩、左に3ン歩と繰り返しながら歩いていき、結局タクシーに乗ってくれましたので、ホッとして見送りました。どうしたのでしょう。

おまけですが、バスのなかで可愛い坊やに話しかけましたら、にっこりと笑顔を返してくれました。今1歳半で、10キロあるそうです。そこで、我が家の猫は4.5キロあるなどと話しました。そのお家の猫は4キロと6キロだそうです。同じ停留所でおりましたので、また会えるかもしれません。

こんなような、そのときそのときの風景を眺めながら通っています。

夏バテです

2009-07-30 21:30:08 | Weblog
7月30日(木)晴れ【夏バテです】



アツいニャーー


  バテバテですニャー




                   どこでもアツイですー


                     ニャンでしょうかー アツいんだからーほっといてねー

と、ルナは暑がって、あちこち涼しいところを探しては、ベタッとなっていますが、明日からは少し涼しくなるようです。

毒矢は抜かねばなりません

2009-07-23 22:36:24 | Weblog
7月23日(木)曇り【毒矢は抜かねばなりません】

『中阿含経』の中に「箭喩経(せんゆきょう)」という経典が入っています。また独立した『仏説箭喩経』もあります。この経典は、摩羅鳩摩羅(まらくまら、マールンキャープッタ)という尊者が、世間は有常(永久に存続する)なのか無常(永久には存続しない)なのか、世間は有辺(限りある)なのか無辺(限りない)なのか、等等について、釈尊に質問したときの釈尊の教えが説かれています。

毒矢に当たった人が、一刻も早く毒矢を抜かなくては死んでしまうにも拘わらず、「まだ矢を抜いてはならぬ、医者の名は、姓は、生まれは、長短は、東方の生まれか、西方か、南方か、北方か、武士階級か、バラモン階級か、庶民階級か、鍛冶工等の階級か、弓は柘植製か、桑製か、槻製か……まだ、まだ、矢を抜いてはならぬ、弓の弦は筋なのか糸なのか、弓の幹は木なのか竹なのか……待て待て、まだまだ、矢を抜いてはならぬ、弓のやじりを作った者はなんという名か、姓は、生まれは…………」等、等と知ろうとしたらどうなるでしょう。

それを知ることができないうちに、毒がまわって死んでしまうでしょう。摩羅鳩摩羅尊者は、その答えを知らなければ、釈尊に従って梵行(仏教の修行)をしません、と釈尊にその答えを迫っているのですが、釈尊は毒矢の喩えをもって、その質問の愚かしいことを諭されるのです。

なぜならば、そんなことを知っても、義にも法にも関係ないし、真の智慧を開かせることでもないし、涅槃(迷いの火が吹き消された寂静の境地)に導くことでもないからです。

釈尊は、説くべき事は説くけれど、説くべきでないことは説かないよ、とおっしゃるのです。わかったかね、と言われて、比丘たちはその旨がよく分かり喜んで修行しました、ということです。

毒のある言葉が刺さった時も、その言葉の詮索をするよりも、その毒矢を抜くことの方が先ということもできるでしょう。一切の詮索不要、釈尊の教えに従えば、いかなる毒矢も毒のまわる前に抜いてしまわなくてはなりません。先ず抜いて、それから解毒につとめましょう。命が終わらない間に。

いずれにしましても、毒矢を刺したまま生きていくことは、自殺行為に等しいと言えましょう。満身矢だらけの弁慶になるか、どんな矢が刺さろうと、じゃんじゃん抜き取っていき、そのうちどんな矢が飛んできても、刺されさえしない不死身の仏教徒になれるかもしれません。

いつまでも毒矢をかかえているのはやめましょう、
*ここに添付したルナの写真が×になって写っていませんでした。どうしてかと思いましたら、この写真につけていたタイトルが「のぞき」でしたのでそのタイトルによって消されていたと思います。コンピューターでチェックされているのですね。

道元禅師、山城を出発

2009-07-16 14:45:21 | Weblog
7月16日(木)晴れ【道元禅師、山城を出発】

道元禅師が、山城の興聖寺を出発して、越前に向かわれたのは『建撕記(けんぜいき)』によると7月16日頃のようです。もっとも陰暦ではありますが。

たまたま大久保道舟先生の『道元禅師伝の研究』を読んでいましたら、そんなことが書かれていましたので、たまたま今日は7月16日ですから、ちょっと記事にしました。大久保先生の記述によりますと、京都を離れなくてはならなかったのは、比叡山の僧たちによる圧迫がさらに強くなったためのようです。

道元禅師が永平寺に移錫されないで、京都にとどまられたなら、曹洞宗の歴史は随分異なった展開をしたことでしょう。歴史に「もしも」はありませんが。事実の積み重ねが歴史ですが、正確な事実が分からないことも多いですね。道元禅師のご両親は、? 越前に行くのにどの経路を通られたか?等等、わずか800年前のことなのに不明なことが多くあります。

さて、道元禅師が山城の興聖寺を出発なさったのは、寛元元年(1243)の7月16日頃。当時、禅師44歳。
宋から帰朝なさった後、ようやく宇治に興聖宝林寺を建立なさったのが天福元年(1233)で、諸事落ち着いた頃ではないかと思われます。果たして比叡山の僧たちが移錫の原因なのでしょうか。それとも車馬喧しい京を離れるのが目的だったのでしょうか。私は研究不足なので、どちらか分かりませんが、『建撕記』には後者の説明があります。前者が原因であるとしますと、北越に移錫なさる禅師のご心中を察すると辛いものがありますが、後者ですと、弟子たちと共に、煩わしい俗事俗人から逃れて、真の仏道修行ができる地を求めて移錫なさる意気軒昂な姿が想像できます。

寛元々癸卯年七月十六日比京御立在也同月末志比荘下着在正法眼蔵三十二巻奥寛元元年閏七月初一日在越宇吉峰頭示衆云々

寛元々癸卯年七月十六日比(ころ)、京を御立ち在る也。同月末、志比の荘に下着在り。正法眼蔵三十二巻の奥に、寛元元年閏七月初一日、越の宇吉峰頭に在って示衆す云々、と。

七月十六日頃京を発って、同じ年の七月一日に北越の吉峰寺で正法眼蔵の示衆をなさっているのはおかしいと思われるかもしれませんが、「閏」とありますので、この年は七月がもう一回あったことになります。陰暦ではそのようになっているようです。何月を閏月にするかは、宮廷の暦博士が決めるのだそうです。

今日は、2007年に新潟中越沖地震が発生した日です。被災なさり、それまで築いた生活を一瞬にして失った皆さんのご苦労が偲ばれます。道元禅師の北越行きも、比叡の僧の圧迫によるものでしたなら、その辛さがダブって偲ばれることになります。7月16日に因んでの記事を書かせていただきました。

*禅師の北越移錫について:『伝光録』に「(前略)栄西僧正(中略)宗風を興さんとして興禅護国論等を作て奏聞せしかども、南都北京より支へられて純一ならず云々」という一文があるので、栄西禅師も南都北京に邪魔をされたということを鑑みれば、道元禅師も同じような目に遭ったということが推察されるのではないか、という具体的な例として挙げられるだろうと、tenjin和尚より教えられました。なお「支へられて」は、古語で、支え立て=邪魔すること、支え言=悪し様に言うことと同じ意味の支えです。

本屋大賞第1位『告白』を読んで

2009-07-12 18:40:15 | Weblog
7月12日(日)晴れ【本屋大賞第1位『告白』を読んで】

本屋さんで、本屋大賞第1位という本を手にとってみました。『告白』(湊かなえ著、双葉社、2008年8月)。

目次だけ見ると、

第1章 聖職者
第2章 殉教者
第3章 慈愛者
第4章 求道者
第5章 信奉者
第6章 伝道者

とあります。もしあなたがこの本についての書評も、なにも他の情報が無かったとしたら、宗教書なのかと思うのではないでしょうか。かくゆう私は、この頃世の中には本屋大賞という賞ががあることは知っていましたが、内容に関する予備知識が無かったので、目次だけを見て私はこの本を手にしてレジに並んだのです。

帰ってから読みはじめましたら、この本はサスペンスだと分かりました。サスペンスではありましたが、興味アル内容でしたので、一晩で読みおえました。

少年がなぜ殺人を犯してしまったか、が証され、またさらなる殺人を犯してしまうかが、解き明かされていきます。サスペンスは、登場人物の思惑やできごとが絡めば絡むほど面白いですが、まさにサスペンスってこう書くのよ、というお手本のような作品と言えるでしょう。それぞれの登場人物が語り部になって、告白していきますが、事件の引き金になったのは、実に「言葉の暴力」でした。

友だちだと思っていたのに、「仲間だなんて思っていないから」と言うようなことを言われ、さらに「発明家の僕からしてみれば、君は明らかに人間の失敗作だよ」ととどめをさされた少年。「人間の失敗作」なんという言葉でしょう。それも仲間だと思いこんでいた友だちから投げかけられたのです。

言葉一つで、人を死にも追いやり、殺人にさえ駆り立てるという怖さを、この作品を通して、読者もあり得ることと思わされます。

言葉の暴力、それは私もつい最近経験しましたが、自分の方が優れていると思う人間は、平気で他を貶め蔑む言葉を、ある時は乱暴に、ある時は殷勤に吐き出します。それが他にどのような影響を与えるかということも気にしないで。

サスペンスでは、言葉の暴力が引き金となって、殺人を犯させてしまいます。
宗教書であれば、苦しい経験をするほど、乗り越えたときにかえって安らぎがますでしょう、などということになります。そうかもしれませんよ。後になってみれば、得難い経験をしたと思うこともできるでしょう。

短絡的な殺人を犯さないためにも、こんなサスペンスを読んでおくことは、良いかもしれません。それぞれの思惑の違いも学べるでしょうから。さすがに本屋大賞第1位の作品でした。

警策について

2009-07-08 13:18:24 | Weblog
7月8日(水)雨【警策について】(先師がお持ちであった短策。半分に折れたもの。「海無量」と読める。手元のほうには「福聚」と書かれていた。)

先日、研究所に警策(きょうさく、臨済宗では「けいさく」と読む)についての問い合わせがありました。いつ頃から警策は使われているか、という質問です。警策は坐禅中居眠りなどしていますと、バシッと叩かれたり、修行僧のほうから眠気をさますために叩いてもらうために使われたりします。手元は丸くなっていますが、先に行って平たくなり先は手元よりも広くなった形が、現在の警策です。

だいたいこのようなことについての情報はtenjin和尚さんの「つらつら日暮らし」のブログに書かれているので、検索をかけたらすぐに出てきました。

また「SOTO禅ネット」に検索をかけますと、尾崎正善先生の「警策考」(『曹洞宗研究員研究紀要』27号、1996年)という論文がありましたので、この論文をもとに当ブログで少し紹介させていただきます。

釈尊の時代から、坐禅中居眠りをしている修行者には禅杖を使っていたようですが、これは、竹や葦でできた棒に、木魚の枹のように先を柔らかな物で包んだ形だったようです。

道元禅師の本師、天童如浄禅師(1162~1227)は、坐禅中眠っている僧がいますと、拳で打ったり、沓で叩いたりしていたようで、今の警策は使用していた形跡は見いだせないようです。道元禅師も法具として警策は使われていないようです。

今のような法具が、日本に入ってきたのは、江戸時代、黄檗宗渡来以降だそうです。黄檗宗渡来は隠元隆(1592~1673」)が来朝した承応3年(1654)になります。警策については『黄檗清規』(隠元隆撰)に書かれているようです。名前は警策ではなく、「香版」と記されているようで、現在のように警策として当初使われていたのではないようです。黄檗宗2世木菴性珀(1611~1684)の著した『黄檗山内清規』には警策としての使用が記されているそうですが、いずれにしても、日本において現在のような警策を警策と呼称することも、またその法具自体も黄檗宗渡来以前には存在しなかったようです。

尾崎先生の論文は大変詳しいのですが、ちょっとだけご紹介しました。

ですから道元禅師の時代、警策を入れて居眠りをしている修行者を叩いたというようなことはなかったようです。今でも坐禅会で、警策を使わないお寺もあります。京都にあった安泰寺というお寺もそうでした。最近お伺いした長福寺参禅会でも警策は使いません。警策無しで修行者の自覚に任せるのもよいのではないでしょうか。(真っ先に居眠りをするのは私かもしれませんが)

因みにこの記事の写真は、先師が平成8年のお正月に、坐禅中の雲水全員にこの短策を入れてくださったのですが、最後の私のところで、半分に折れてポーンと私の目の前に、これが飛んできました。それを頂いて今でも先師の遺影の前に置いてあります。先師はこの年に御遷化になりました。

風月庵オババだより-NOはNOと言おう

2009-07-06 21:14:33 | Weblog
7月6日(月)曇り後雨、また雨止む【風月庵オババだより-NOはNOと言おう】(ルナちゃん、雨に歌えば)

NOと言いたいけれども、言いづらい経験はどなたにもあると思います。それでついYESと言ってしまった経験もあるかもしれません。しかし、できる限りNOの時はNOを、YESの時はYESを。当たり前ですけれど、そう言えるようにお互いに心掛けたいものです。

NOと言いたいのにYESと言ってしまったけれど、やはりNOという時:相手をその気にさせてしまって、後からNOと言うのは大変ですから、やはりはじめから勇気を持ってNOというのが望ましいですね。NOと言わなくてはならないとしたら、はじめYESといいましたけれど、やはりNOなのです、と率直に言ったほうが、あいては傷つかないのではないでしょうか。

はじめ、たしかにYESであったがNOに状況が変わった時:そんなときはあっさりと率直に「状況が変わりましたからNOになってしまい、すみません」と言えば一件落着です。それでも分かろうとしない相手の時だけ、親切に説明する責任はあるかもしれません。でも、オババは厚かましいようにみえても、分かりは早いです。

ひょっとしたら、今の若い人たちはNOと言ってはよくないとでも教育されているのでしょうか。

若者たちに言いたい。人を傷つけまいと思って、かえって相手を傷つけることがあります。NOはNO、YESはYESとしたほうが、がっかりさせることはあっても、傷つけることは少ないでしょう。信頼は、NOはNOと、YESはYESと、率直に、お互いに言うところから生まれるのではないでしょうか。

でも、まあ、なんですね、全てがYES、NOでない場合もありますね。風船さんという方のコメントを読んでこの文を付け加えました。あいまいがよい場合もありますね。ファジーの部分にこそ真実があり、というようなことを、近松門左衛門は言いませんでしたか、たしか。……「虚実皮膜の間にあり」は近松の芸術観でしたね。突如、40数年前に習ったことが浮かんできました。ちょっと話はそれましたが。

風月庵オババだよりー狐につままれたような話し

2009-07-05 19:17:44 | Weblog
7月5日(日)曇り【風月庵オババだよりー狐につままれたような話し】

最近狐につままれたような経験をしました。そのことをちょっと書きましたが、やはり皆さんにご心配かけるように思いますので、内容を書き換えました。

ちょっとした言葉によって、情けない思いをしたり、言葉の呪縛から抜け出したいと思っている人の役に立てばと思って、書いてみましたが、やはり自分の気持ちの吐露になってしまったようです。

でもね、人間不信、人間嫌いになりそうなことはありますね。そんな人はどうぞ、このブログのコメント欄に何か書いてくださって構いません。

若い人たちは、言葉の暴力を受けて、自殺したい人もいるようですが、その気持ちはよく分かります。このブログも、あまり差し障りの無いようなことを、いつもは書いていますが、生の声をぶつけるのも良いと思います。読者の方のコメントも、生の声をお聞かせください。私は名乗っていますが、コメントの皆さんは名乗る必要はありません。胸に詰まっていることを、人にぶつければ自殺以外の道も見つかるかもしれませんし、人間不信ばかりに陥らないですむかもしれません。いつでも苦しい人はコメントしてください。



『刑事一代~平塚八兵衛の昭和事件史』を観て

2009-07-01 00:11:34 | Weblog
7月1日(水)夜中【『刑事一代~平塚八兵衛の昭和事件史』を観て】(ルナの写真ですみません)

先月の20,21日の二夜連続で、渡辺謙さん演じる「鬼の八兵衛」「捜査の神様」等と言われた敏腕の刑事、平塚八兵衛を主人公にしたテレビドラマが放映されました。吉展ちゃん誘拐殺人事件は忘れられない事件でしたので、遅い時間帯ですが、観てみました。このブログにご訪問のあなたはいかがですか、ご覧になりましたか。

吉展ちゃんの事件は、たしか高校時代だったかと思います。ラジオで聞いた記憶があります(1963年3月31日)。それから36年経ったとき、知り合いの曹洞宗のあるお寺で37回忌の法要が行われたのは、私が駒澤大学に通っていた1999年でした。今年は、吉展ちゃんの遺体が見つかったというお寺(荒川、円通寺)にも、たまたま人権学習で伺いました。

果たしてどのような事件であったのか、どのようにして犯人は捕まったのか、実は高校時代、我が家にはテレビがありませんでしたし、詳しくは知りませんでした。

ドラマとして作られているでしょうが、事実とそれほどかけ離れていないとすると、八兵衛刑事の御陰で、小原保という犯人はどんなにか救われたことだろうかと思いました。

別件で容疑者小原保は、逮捕されていました。勾留期間は10日しかありません。その間に犯人の自供をとらなくてはならないのです。八兵衛刑事は、小原の故郷に行って、徹底的に聞き込みをして、アリバイ崩しはできていました。しかし、八兵衛刑事の説得に近い取り調べにも、小原はのらりくらりと答えて逃げます。なかなか落ちそうにはありません。しかし、小原の供述によれば、東京にはいなかったはずの4月2日、うっかりと東京の大火事(日暮里大火)を見たことを話し出します。それは紛れもない脅迫電話を入れた4月2日で、小原は東京にはいなかったと供述していたはずです。八兵衛刑事はこの供述の綻びを逃しませんでした。その矛盾をついて容疑者の心を揺すぶり、さらに土下座して容疑者の母の気持ちを伝えます。「もし犯人ならば、罪を償うように言ってください、そしてそんな息子を産んだこの母を許してください」と、いうようなことをその母は、聞き込みに来た八兵衛刑事に泣いて頼んだのです。「真っ当な人間になれ、自供して罪を償え」とさらに八兵衛刑事は責め寄ります。母の言葉と、八兵衛刑事の真剣な説得に、容疑者はついに心を開いたのです。落ちた、のです。

罪を認めてからの小原保のもとに母から手紙が届きました。「罪を償って死刑になりなさい、母は先に地獄に行って待っているから」と。(言葉は、多少テレビの通りではないです。はや10日以上たってしまい、記憶が薄れました)

何年か経って、八兵衛さんが他の事件(三億円事件だったか)を担当しているとき、電話が入ります。(1971年12月23日)
「今日、小原保の刑が執行されました。刑事の御陰で、真人間になって死ぬことができますと、伝えて欲しいということでした」と。小原保享年39(1933~1971)。(正確には「今度、生まれてくるときは真人間に生まれてきますからと、どうか、平塚さんに伝えてください」という言葉らしい)

どこまでがドラマか分かりませんが、この通りだとしますと、八兵衛さんという方が伝説の刑事と言われる所以が理解できますね。真人間になって死ねることは、人間の究極の願いでしょう。それを刑事は助けてくれたのです。平塚八兵衛享年67(1913~1979)。

今度生まれてくるときは真人間になって生まれてきたい、という願い(誓願)をおこさせたということは、僧侶に勝る働きではないでしょうか。

*( )内の補注はインターネットで調べた情報。
*享年の数え方は、満年齢とは違います。このブログでも以前詳細に説明しました。