風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

沖縄「慰霊」の日

2007-06-23 11:05:04 | Weblog
6月23日(土)晴れ【沖縄「慰霊の日」】

62年前に見た集団自決の現場 「軍曹が命じた」(朝日新聞) - goo ニュース

今日は沖縄で武装解除を軍が発表した日である。それをもって沖縄「慰霊の日」と決められたようだ。このところ沖縄の集団自決は、軍の命令によって決行されたことの記載が、教科書から削除されたことが問題になっている。

沖縄の人々という生き証人がいるにも拘わらず、どうしてこのような嘘がまかり通るのであろうか。軍から手渡された手榴弾によって、死ななくてもよい人々がどれほど多く命を落とさねばならなかったか。その反省をするべきであろうに、かえってその事実を隠蔽してしまうとは、「削除」の指示を出した人物は誰か、糾弾されるべきであろう。

家族全員、自分以外の家族全員を集団自決の命令によって、焼き殺し、自分だけは死にきれずに、戦後を苦しみの中で生きた人もいると聞いた。この話に似た例は他にも多くあるそうである。戦争よりも残酷な話ではなかろうか。

事実を隠蔽することは大いなる過ちである。起きてしまった事実をどのように解釈するかは、それぞれにいろいろな見解があろう。しかし事実を曲げることは許されない。まして戦後大変な犧牲を払ってきた沖縄の大地と人々に、ひれ伏してお詫びと感謝を表さなくてはならない日本の国家がとるべき「削除」ではないだろう。

誰が愚かなのか、このような決定は安倍さんが下すのだろうか。文部大臣が下すのであろうか。過ちを過ちと認めない限り、同じような過ちは繰り返されるだろう。

数年前に母と平和の礎にお参りしました。ひめゆりの塔にもお参りしました。あの洞窟を見たら、戦争を犯してしまった愚かしさをあらためて思わずにはおれません。沖縄「慰霊の日」にあらためて、戦争と、さらにむごい集団自決の命令によって、亡くなられた沖縄の人々のご冥福を祈ります。

(冷房病の風邪により、また寝込んでしまいましたが、皆さんもお気をつけください。)

浅田次郎著『憑神』-問いかけるもの

2007-06-17 15:53:42 | Weblog
6月17日(日)晴れ気温は高いが爽やか、梅雨は?【浅田次郎著『憑神』-問いかけるもの】

久しぶりに小説を読んだ。神保町の三省堂で『インド式計算法』のドリルを買おうかと思ったが、それは止めて、小説のベストセラーの棚にあった浅田次郎著『憑神』(
新潮社、平成19年5月)を手に取った。

『風月庵だより』にご訪問下さる方のなかにも、お読みになった人も多いのではないだろうか。作品の中で、浅田次郎氏が現代人に問いかけてくることは、「人は何を目的に生きているのか、何が人間の幸せなのか」であろうと、解説の磯田道史氏が書いている。

主人公、別所彦四郎は幕末に生きる下級武士である。家は御家人ごけにんとはいえ、下級の御徒士おかち組であった。戦ともなれば、徒(かち)で将軍の軍馬に従い、また影武者として将軍と同じ装束を付けて、将軍の代わりに命を落とすこともあるとされるお役である。彦四郎の先祖はまさに家康の影武者として、その命を捧げたとされていて、それが別所家の誉れなのであった。

しかし、その後、十五代将軍慶喜の御代まで、戦はないのだから、まったくそのお役に立てることがあろう筈がない。ただ御影鎧おかげよろい番として、三十人の影武者の身につける鎧のお世話をするだけが、別所家のお役であった。それも長男の勤めであり、たとえ免許皆伝の剣術の腕が有ろうと、学問に優秀であろうと、次男の彦四郎にはその役すら務めることは叶わず、家住みの哀れな身分であった。それも一度は婿に入ったのだが、婿入り先に男の子が産まれると、もはや用済みとばかりに離縁されて出戻ってきていたのである。

身の不幸を嘆いて、思わず掌を合わせた三巡みめぐり稻荷が、とんでもない霊験のあらたかなる神様の祠ほこらであった。一に貧乏神、二に疫病神、三に死神が取り憑くという結果になってしまったのである。

取り憑いた死神に彦四郎は云う。「わしに、今少し時をくれぬか。わしはわしなりに苦労をし、苦労のつど物を考えて参ったつもりだ。人間はいつかは必ず死ぬ。だが、限りある命が虚むなしいのではない。限りある命ゆえに輝かしいのだ。云々」と。

そして彦四郎は、武士としての、死に場所を見いだし、最後の命の輝きを我が掌にかざして馬上の人となるのである。(これからお読みになる方のために具体的には記しません)

浅田次郎氏原作の映画『壬生義士伝みぶぎしでん』でも感動して泣いたが、この小説を電車の行き帰りに読んでいたので、ラストの頁を開きながら、人前に拘わらず涙を流してしまった。

この太平の世にあって我々は如何に生きようか。いらぬところで争いを起こすことはない。まして電車の中で戦ってはならない。たとえ相手がどうであっても、そこは正義の味方の戦場ではない。(女性が悪戯されるような場合は、なんとか助けなくてはならないだろうが)

仏教徒としては、外に向かって咲かせる花は無用である。ただ我が内に、我に向かって咲かせる花は、消えゆく時の天あまつ御空みそらの供え花ならんか。

小説の世界は外に花を咲かせなくてはかっこよくないのであるが、仏教に学ぶ限りは、外にかっこよく生きなくてよい世界、ただ内なる自己が晴れ舞台なのだ。

それでも浅田次郎氏の小説の世界に感動するのは私の俗気と分析しておこうか。

今週も内に命輝かして生きませう。

自己に学ぶ

2007-06-16 23:36:18 | Weblog
6月16日(土)晴れ【自己を学ぶ】

先週も龐蘊ほううん居士(龐居士)から禅を学んだが、今日も再び居士の悟りについて学んでみたい。『景徳伝燈録』には次のような記載がある。

〈原文〉
問馬祖云、不与万法為侶者是什摩人。祖云、待汝一口吸尽西江水即向汝道。居士言下頓領玄要。
〈訓読〉
馬祖ばそに問いて云く、「万法と侶ともたらざる者、是れ什摩人なんびとぞ」祖云く、「汝が一口に西江の水を吸い尽くすを待って、即ち汝に道わん」。居士、言下に玄要を頓領す
〈試訳〉
馬祖に(龐居士は)尋ねた。「一切の存在とともでない者は、どのような人でしょうか」と。馬祖は答えた。「おまえさんが一口に西江の川の水を飲み干したなら、おまえさんに云ってやろう」と。居士はその言葉を聞くやすぐに、玄妙なる理を悟った。

一切の存在とともならざる、とは一切の存在を超越するような者、と言い換えてみよう。そのような者がいるのか、おまえさんそんな馬鹿なことを聞いてどうするのだい、と馬祖は言いたいところを、西江の川の水を飲み尽くしたら云ってやるよ、と答えたと言えるだろう。

龐居士は馬祖に参じる前に石頭希遷のところに参じていることは先週書いたが、『龐居士語録』や『宗門統要集』には石頭にも「万法と侶たらざる者、是れ什摩人」と質問していることが書かれている。それに対して石頭は手で居士の口を掩おおったところ、龐居士は豁然として悟った、と書かれている。

おっと、そんな質問はしてはならない、というところを、石頭は龐居士の口を掩おおって、それを示したといえようか。

一切の存在以外に別の何かがあることを設定することの非を、二人の禅師はそれぞれの方法で示したことをみることができる。一切の存在以外に何か別ものを問題にして、それが一体何になるのだ、修行の本体はお前自身ではないのか、お前自身だろう、しっかりしろ、と二人の禅師は諭しているとも受け取ることができるだろう。

このように、解してみたが如何であろうか。禅のやりとりは私にはなかなか分かりづらいので、先人の書かれた解説書を読んだり、フクロウ博士に教えて頂いたり、やっとこのように自分なりの言葉にかみ砕いてみたのではあるが、果たして如何であろう。自己の研鑽のとしてのログなのでともに学んでみていただければ幸甚です。

ちょっと別のことであるが、龐居士は、石頭のところでも認められたが、馬祖のほうの弟子になるのは、石頭の無言の示唆よりも、馬祖の川の水を全部飲み尽くしたら教えてやろう、というような禅風のほうにうまがあったのではなかろうか。

それぞれ師と弟子となる縁は、機縁が叶うという、分かりやすく言えば、うまが合う、ということでしょう。

電車内トラブル

2007-06-15 12:45:38 | Weblog
6月15日(金)晴れ【電車内トラブル】(今朝は富士山を見ることができました)

昨日の電車内でのできごと。
昨日は朝から所内の共同研究があったので、いつもより早めに出勤した。ところが、或る駅で線路内の立ち入りがあったということで、30分の遅れが発生していた。それでも幾分早めに出てきたので、時間までには研究所に到着できるだろうと思っていた。

ところが、乗り換えの電車に足を踏み入れたところ、「なにおっ!」という声とともに座席の一人の男性が隣に坐っている男性の首に手をやっているところだった。私は瞬間的に他の座席の側に避けた。

「降りろっ」とか怒鳴っているようだが、乗客に隠れて二人の姿は見えない。周りの乗客は我関せずの顔をしている。まだ電車は出発しないので、駅員さんの姿が窓越しに見えたが、私には声をかけようもない。他の乗客もそのような素振りはない。そのうちに電車は走り出した。

二人の言い合う声は聞こえているが、取っ組み合いを始められるほどの空間もないのだろう。言い合う声だけが聞こえてくる。二駅ほどその声は時折につづいていたが、他の路線との乗換駅になり多くの乗客が降りた。それに引き摺られるように二人も降りた。一人が引っ張られ、もう一方が「暴力をふるったんだから、降りなさいよ」と言いながら引っ張っていた。

そしてホームでまた一悶着を始めたようである。お蔭で電車は「ホームでお客様同士のトラブルが発生したようですので、もうしばらくお待ち下さい」と放送が入り、さらに電車は遅れ、研究所への到着もかなり遅れてしまった。まったく迷惑な話しである。

さて同じく昨日の帰りの電車でのこと。座れたので本を読んでいた。次の駅で一人の男性が左隣に座った。その男は座るやいなやパソコンを出してなにやら打ち始めた。男の右腕がパソコンを打つので、やたりに私の左腕に当たるのである。嫌な気がして読書を楽しむどころではない。

あまりにひどいので「お気を付け下さい」と言ったが、少しも効果がない。一体電車のなかでパソコンを開かなくてはならないほどに忙しいのであろうか。チラリと覗いてみたが、他人からは見えないフィルターが懸かっているので、何をしているのかは全く見えない。その打ち方から視てゲームのようではない。株の取引でもやっているのかもしれない。

それにしても迷惑な話である。こんな時、私が男であったなら、喧嘩が始まるのかもしれない。私でさえも「なんと迷惑な」と腹の中で思っているのだから。それが進めば「コノヤロー」でしょう。

今朝の喧嘩の原因は分からないけれど、些細なことから、始まった喧嘩であろう。刃物を持っていないようだったからよかったが、狭い電車で、混雑しているときなど何が起こるか分からない。今まで無事に通えているからよいようなものの、実はいつも危険を孕んでいる日常とも言える。

帰ってから、母に今朝のことを話したら、高尾駅であったという事件について聞かされた。「席をつめて坐らせてくれ」ということだけで、男性が刺し殺されたのだという。それも高尾駅で降りたところ、後を追いかけてきて刺されたのだという。電車の中で、なにかやりとりはあったかもしれないが恐い話しである。お互いに気をつけましょう。

お互いに電車の中では穏やかに差し障りなく乗り合いたいものである。但し、女性が男に何か悪戯をされているときは、自分にできる方法で助けたいと思った。

長々と書くほどのことでも無いのですが、お目汚しをしました。(昨日の雨で空気が澄んだせいか、今朝は久しぶりに富士山を拝めました。)

親の意見と愛の拳

2007-06-10 12:30:52 | Weblog
6月10日(日)雨時折雷【親の意見と愛の拳】

ベランダの鉢の中でも茄子がなりました。「親の意見となすびの花は、万に一つも無駄がない」というそうです。茄子は花が咲けば、必ず実をつけるので、母が茄子の花を見るたびに、そう言っています。確かに茄子はそのようです。(内緒ですが、私には、親の意見は馬の耳です)

さて親の意見ですが、昨日の法事で心痛むことがありました。小学一年生だという坊やの頭をパパがすぐにこづくのです。言うことを聞かないといってはこづき、「こいつは駄目なんだ」といってはこづき、その度に坊やは横を向いてすねていくのが分かります。

法事の間、静かにしていないことを叱るわけですが、他の小さい兄弟や従姉妹や親戚の人達の前で、ゴツンと頭をこづかれては、坊やのプライドは傷ついてしまっているだろうと、私には見て取れました。

子供が素直に言うことをきけるような叱り方をしなくては、子供の心はねじ曲がっていってしまう、と傍から見ていてハラハラしてしまいます。実際にそのように怒られた子供の姿を見ていると、横を横を向いていっています。こうして子供は横へ横へそれていってしまうのではないでしょうか。

ときには男の子はガツンと親から叩かれることも必要でしょう。私の弟などは悪いことをすると、父親に殴られたり、水をかけられて「もうしません、もうしませんから許してください」と泣いて謝っていました。

ある人は子供が万引きをしてしまったとき、思い切り殴った後で、自身が思い切り泣いたそうです。このような叱り方は乱暴なようですが、きちんと子供に怒る意味も通じているのではないでしょうか。

あまりよくないのではないかと、私が感じる怒り方は、子供のプライドを傷つけるような怒り方です。そのような怒り方をされた子供は大きくなって、仕返しをするかもしれませんし、他の子供をいじめるような子供になってしまうかもしれません。

法話のときにパパに一言なにかうまく言いたかったのですが、子供の前では、かえってよくないのではないかと思い、思いを巡らしました、が、思いより先に、坊やの両手を握っていました。そして坊やの目線になってお願いしました。

「パパは坊やのことを思って叱ってくれるんだよ。なんでもいいからって甘やかして育てられると、大きくなって困るからね。パパが怒ってくれるのは愛情なんだよ。僕を愛しているからパパはゴツンとしてくれるんだよ。わかった?」と言ったら、坊やはコクンと首をたてに振りました。その後ろでパパも頷いていました。

子供に自分の言うことをきかせたいとしたら、親は自分自身が人生を、人間を、道を学ぼうとする姿勢がなくてはならないだろう。真剣に愛とは何かを考えなくてはならないだろう。どのような形が正しいとか、一番とかは言えない。それぞれの形があろうが、親の拳の中に愛の固まりが入っていなくては、子供という宝物を壊してしまうのではなかろうかということを知って貰いたいとつくづく思ったのです。

また子供を叩くときはなるべくお尻がよいそうです。これはヨーロッパ人の人がそうしていました。中国の人は子供の頭には神が住む、といって決して頭はたたかないそうです。日本の育児書を読んだことはありませんが、どう書いてあるのでしょう。

話は変わりますが、写真の茄子はぬか漬けにして食べました。

真っ当に生きる

2007-06-09 18:00:30 | Weblog
6月9日(土)曇り一時雨【真っ当に生きる】

通勤の電車で思う。満員電車の中で思う。それぞれにいろいろな人生を背負って、朝の電車に乗っているのだろう、と思う。仕事が苛酷な人もいるだろう。家に問題を抱えている人もいるだろう。恋愛中の楽しい人もいるだろう。仕事が楽しい人もいるだろう。その反対の人もいるだろう。それぞれの人生を背負って、同じ電車に乗り合っている。

私もその中の一人である。この年になるまでなんとか生きてこられた。このまま人生を全うするだけだ。そして真っ当に生きる、ということを思った。教えというものは仏教も含め、人間が真っ当に生きる助けにならなくては、と思った。(私自身はあまり真っ当でないからこそ、仏教を学んでいる)

そこで、今日は、龐蘊居士ほううんこじ(?~808)の言葉に学んでみたい。
【原文】
神通并妙用、運水及搬柴。(『景徳伝燈録』八巻)
【訓読】
神通じんつうならびに妙用みょうゆう、水を運び及び柴まきを搬はこぶ。

これは石頭希遷せきとうきせん(700~790)の所に参じた折、石頭から「日用の事作麼生いかん(毎日の生き方はどうですか)」と質問されて、その答えである。

神通と素晴らしい働きと言いますなら、水を運んだり、柴を運んだりすることです」という答えである。この答えはもう少し長い五言律詩で表されていてその結句の二句である。

この偈の全体を概略すると、「日々のことは特別のことはありません、たまたますべては整っていますし、、一つとして取捨もしません(自分の計らいを入れて選んだり選ばなかったり、とはしない)、どこでもたぶらかされたり、そむかれるようなこともありません、私には紫の衣も緋の衣も称号なども関係ありません、この山には一点の塵もありません。」

次にこの二句につながっている。私の師匠は人々に揮毫きごうを頼まれると、「運水搬柴是神通(水を運び柴を搬ぶ、是れ神通なり)」と筆を揮っていらっしゃった。

龐蘊居士は在家のままで、禅に参じた禅者であるが、龐蘊居士の日々は、日常の営みが即神通の働きであり、妙用である、と言い切っている。

電車の中を見回すと、携帯電話のゲームに夢中になっている人々が何人もいる、恥じらいもなく人前で、マスカラーやアイシャドウを塗ったりと、お化粧をしている女性もいる。このままで仕事に赴くのでは心構えが真っ当ではない、と私は思う。

そういう私自身はどうか、常に我が身を振り返らなくてはならない。日常のことを神通と言い切れる私であるようにと、とどのつまりは自戒になった。

*龐蘊居士:馬祖道一ばそどういつ下に数えられるが、多くの禅師の門を叩いている。字は道玄。衡陽(今の湖南省)の出身。後に襄陽(湖北省)に移り住み、竹ざるなどをつくって生計を立てていたという。石頭や馬祖だけではなく、丹霞天然たんかてんねん、大梅法常だいばいほうじょう、薬山惟儼やくさんいげん等等、多くの禅者と往来した。一生髪は剃らなかったが、越格おっかくの悟りの境地を開いたといわれている。維摩居士ゆいまこじの再来とも言われた。

無題

2007-06-03 23:59:49 | Weblog
6月3日(日)晴れ【無題】(昨日の満月)

人生も、命も、自分も、生きる意味も、何も分からずに悩んでいた頃、縁があって仏教を学ぶことになった。仏門に入る直接のきっかけは道元禅師の「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり」(『正法眼蔵』「現成公案」巻)の一文を目にしたことにある。そうして坐禅修行に入ったわけであるが、かなり道は険しい。

一切の空であることを覚すことが第一歩であり、最後の一歩でもあろう、とこの頃は受け取っている。このことに気が付くまでに、随分時間がかかった。その間、数人の師の門を叩き、師に導かれ、叩かれて、ようやくになんとか仏教がうっすらとわかってきたようなところである。

師からの言葉は宝物である。それはひけらかすものではないが、伝えられれば伝えていきたいものである。釈尊の言葉が伝えられたように、道元禅師の言葉が伝えられたように、自分が教えを受けた師僧がたの言葉も、お伝えしていくのが、隨身としての、また弟子として役目でもあろうと思っている。しかしなかなかにそこまで自分の血肉となしえていないのが我が現状で、申し訳のないことだと自責の念しきりである。

そんなことを思いながら、このところは小川隆著の『神会じんね-敦煌とんこう文献と初期の禅宗史』(臨川書店、2007年4月)を学ばせていただいた。

このログは私の在家の友人たちも読んでいてくれるので、ご存じの方には恐縮だが少し神会について説明させていただきたい。神会(670~762)は六祖慧能(638~713)の弟子であり、洛陽にあった荷沢かたく寺の住持となったので、荷沢神会といわれている。南陽にあった龍興寺の住持にもなったので南陽和上ともいう。

この禅師が禅の歴史で有名なのは、師匠である大鑑慧能禅師をこの人こそ達磨さんからの正系の「六祖」であると顕彰したことであろう。当時、普寂という禅師が七世と称していたので、そうであるなら普寂の師が六祖ということになる。普寂の師は神秀という禅師であった。神会としては自分が七世であることを名乗るには、師の慧能が六祖であらねばならない。

そこで著されたのが『菩提達摩南宗定是非論ぼだいだるまなんしゅうていぜひろん』といえよう。これは敦煌から出土した文献の一つである。この書は敦煌から出土したのだが、イギリスとフランスに分散してしまった。それを胡適こてきという中国の研究者がイギリスとフランスに行って調査し、ほぼ完全な形に復元してくれたという書である。

この書や『神会語録』『楞伽師資記りょうがしじき』等を読み解きながら、神会の思想を解き明かしているのが小川隆著の『神会』である。数行ずつに区切って、原文、訓読、その解説として書かれているので、大変に読みやすい。また中国語の大家でもある著者の訓読は、私のような初学の徒には教えられるところが多い。

神会は「本来空寂なるその自性を自覚せぬがゆえに、妄念にしたがって業を造ってしまうのだ。」(113頁)と説き、定すら妄念とみている。そして「道は只だ道あるのみ」というようなことを説かれている。坐禅すら妄心というのであるから、かなり大胆な説といえるが、その裏付けとなる神会の論については、著者の説かれることを間違って伝えることは避けたいので、もう少し学ばせていただきたい。

とにかく禅といっても、それぞれの禅師の説く説は一つではなく、後の学人はどの説に随って学んでいけばよいのか学べば学ぶほどに迷うこともでてくる。(ただ迷いはするが、悩んではいない。)学びのなかで手探りで仏教徒としての歩みを一歩一歩進めていくしかない。仏教は、ただ救済の宗教ではなく、自覚の宗教であるという、ふくろう博士(現在お教えを頂いている師の一人)の言にあらためて頷いているのである。

*【『神会』を読んで】と題したかったのだが、書けなかったので無題。
*胡適という先生については、昔読んだゾルゲ事件の『尾崎秀美全集』のなかで政治家としてたびたび登場していたので、後で禅の大学者と知り驚いた。

雨の中の少年

2007-06-01 12:27:18 | Weblog
6月1日(金)曇り【雨の中の少年】

昨日は雷も鳴り、雨も一時的にかなり強く降りましたね。丁度退社時刻に東京方面では一番ひどいようでしたが、皆さんは雨に降られませんでしたか。

さて昨日は駒澤大学でのゼミに参加させて頂き、帰りは終バスの時間になりました。その頃もまた雨足が強くなっていました。バスを待ってバス停に立っていましたら、雨の降りしきる中を、自転車を抱えるようにしてやってくる少年の姿が見えました。

傍まで来た少年を見ると、びしょ濡れです。「どうしたの」と聞くと、「鍵をなくしてしまったんです。家に電話したくて公衆電話を探しているんですが」というので、私はすぐに携帯電話を差し出しました。

少年はお母さんと話をしているようで、どこかに自転車を預けて、バスで帰ってくるように言われたようです。どの方面のバスかと尋ねたら、私と同じ方面のバスなので、もうすぐ最終のバスが来てしまう。

早くに預けられるところを探さなくてはなりません。少年はあたりを見回して、向かいにあるお店に頼もうと、重い自転車を抱えて走って行きました。

無事に預けることができて戻ってきたびしょ濡れの少年に、タオルはあるかと尋ねたら、スポーツバッグの中から、タオルを引っ張り出してちょこっと一箇所だけ拭いたので、お節介おばさんとしては「もっとよく拭きなさい、風邪を引いてしまうよ」と言いました。

ようやく乗れたバスの中での少年との対話。少年はサッカーの練習の帰りだそうです。同じバスなので降りるところを尋ねたら、ほとんど終点に近いところです。それほどに遠いところから、自転車でやってくるのですから、えらいものだと感心しました。

またお家の人にバス停まで迎えに来て貰ったら、と進めましたが、「走れば5分ぐらいですから、平気です」と返事が返ってきました。きっと日頃から甘やかされて育っていないのだと思いました。

住所を教えて下さい、と少年は紙にボールペンを添えて私に差し出しました。そのきちんとしていることにも私は感心しました。一つの行為にその少年の生きる姿勢が表れているようにさえ受けとめられたのです。

私も自分の手帳に彼の住所を書いて貰いました。中学2年生だという少年と住所のやりとりをして、私の方は乗り継ぎのバス停で先に降りました。少年はバスの中から、手を振っています。私も振り返しました。

家に帰ってしばらくすると、電話が鳴りました。でると先ほどの少年の声です。少年はきちんとお礼を述べてくれました。その後に電話口には少年のお母さんが出られて、また叮嚀なお礼の言葉をいただきました。

私はこの少年のお蔭でとても心が癒されました。この少年はきちんと躾けをうけて育てられているのでしょう。少しのことでは甘やかされていないと思います。電話にしても先ず少年がかけてきて、それから母親に代わるということにしても、親は子どもの主体性を大事にしているのであろうと思いました。

親に負担をかけられないので、高校は都立に行きます、とも言っていたけれど、スポーツで鍛えられたり、勉強で鍛えられたり、生活にも鍛えられたりして、たくましく育っているこの少年のような少年少女も日本にはたくさんいると思います。

暗いニュースばかりが耳に入りますが、少年少女を暖かく見守る社会でありたいですね。今日は六月一日、衣替えです。