風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

渡辺祐介監督

2006-10-28 18:39:48 | Weblog
10月28日(土)晴れ【渡辺祐介監督】

御陰様で風邪はだいぶよくなって、今日は頼まれていた法事を無事に勤めることができて本当にホッとしている。なんとか法事までには治らなければの一念で今週は寝込んでいた。私は風邪を引くと長引いてしまう。風邪は私の持病に近い。

寝ていると暇なので、いろいろなことを考える。先に亡くなった友人や知人のことを思い出したりなどもしている。特に今月の15日は渡邊祐介という監督の祥月命日なので、少しご紹介したい。

渡辺監督はドリフターズの「全員集合」シリーズを手がけたりした。「全員集合」シリーズは、昭和42年から昭和49年の間に13本、渡辺監督によって作られている。この時期はまさにザ・ドリフターズの全盛期と一致しているだろう。

だいたい夏に一作と暮れに一作のペースで作られていた。暮れに完成の作品は「フーテンの寅さん」のシリ-ズと一緒にお正月作品としてかけられていた。お正月作品といっても暮れから映画館にかかるので、(今はどうなのか、この頃はほとんど映画を観ないのでわからないが)暮れの初日に新宿の松竹に毎年観に行ったことを思い出す。映画少女(少女とは恐縮だが、映画青年というより少女という感じにしておいて下さい)であった大学時代の頃である。

いつであったか面白いはずの喜劇を観ながら、泣き続けていたことがあった。渡辺監督は一体この子は喜劇のどこが悲しくて泣いているのやら、と傍らで呆れていたことだろう。若いときには喜劇を観ていても、泣きたくてたまらない時があったな、と懐かしい思い出の一つである。

監督は57本の監督作品を残しているが、やはり喜劇が多い。松竹の作品はほとんど喜劇だが、「必殺仕掛人」のような作品も二作ある。監督は東大を出てから新東宝の助監督として出発している。それから東映なのでやくざ映画も手がけられたが、緑魔子という女優さんを主役にして悪女を題材にした映画なども作った。緑魔子さんは今の人にはなじみが薄い名前かもしれない。悪女役の似合う、個性的な女優さんだった。(今は家庭に入られているのであろう)

監督の晩年には武田鉄矢主演の『刑事物語』を二作作られているが、『刑事物語-くろしおの詩』が遺作であろうか。私はいつも今頃になるとこのビデオを観る。何回観ても結構面白い。

監督は昭和60年10月15日午前3時49分に他界された。満58歳、享年59歳ということになる。私の方がそのお年は越えてしまった。お墓は河口湖の常在寺というところにある。

渡辺監督のご冥福を、かつての映画少女は今でも祈っている。しかしもうどこか、フランスにでも生まれかわって、また映画青年になっているかもしれない。

宇宙の生命

2006-10-23 18:54:03 | Weblog
10月23日(月)曇り夕方から雨【宇宙の生命】

またも風邪を引いて寝込んでしまっている。今回の風邪は足首の冷えから入ったような気がする。靴下が足首のかなり上までないと、作務衣のズボンとの間に微妙な隙間ができて、そこが寒いな、と感じていたら風邪になってしまった。

それでも風邪の引き立てはそれほど酷くなかったので、つい油断をしてしまった。来月、私が幹事になっている会があるので、その打ち合わせなどに出かけたのがいけなかったようで、軽いと思っていた風邪が重くなってしまった。せっかく時間ができたというのに、そんなときに限って寝ていなくてはならない。

気を取り直して、こんな時にしかできないことを考えた。日頃ゆっくりと聞けない音楽を聴くことにした。やはり静かな曲の方がよいようだ。ショパンのピアノ曲とか、喜多郎の曲を楽しんだ。サティのジムノペディというピアノ曲もかけてみたが、これは元気なときでないと楽しく聴けないことが分かった。

そしていつも飾ってある詩などを読んでいる。病気の時にこの詩を読むと不思議と落ち着けるのでご紹介したい。

「生死は仏の御いのち」    小林大二(櫛谷宗則編集『共に育つ』所収)

   宇宙の生命が
   ひととき人間の姿で
   生きているだけだから
   人間の姿を
   やめても
   宇宙の生命です 
      

気候不順な折、皆さんもお体お大切に。
長い間病気で寝ている人から見れば、たまの病気で参っているようなのは、贅沢にみえるかもしれない。お許しを。

夢と時間

2006-10-20 19:36:22 | Weblog
10月20日(金)晴れ【夢と時間】

最近松本零士氏の『銀河鉄道999』の言葉の盗作問題が起きている。歌手の槇原敬之氏がCHEMISTRYの新譜「約束の場所」に使っているフレーズが酷似しているというのである。

松本氏:「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない
槇原氏:「夢は時間を裏切らない、時間も夢を決して裏切らない」

判定や如何に。

さて私はこのところ研究書の出版のことで、忙しくしている。かなりの時間をかけてまとめたものであるが、共著の先生の担当分と合わせてかなりの分量になるのにもかかわらず、一冊の分量を厚くするとコストが高くなってしまうので、多くの部分を削除しなくてはならなくなった。

語注を付けるために、中国や日本の禅語録の中からようやく探し出した一つ一つの引用文を全てというほど削り取らなくてはならないのである。そんな校正作業を今週はしていたのである。

自分のお正月も夏休みも、使える時間は全てこの研究に注いできたのであるが、その時間を捨て去るような、切り取るような苦しさである。300頁の分量を200頁に削るという作業がいかに辛いか、ご想像いただけるだろうか。校正では削除の部分を「トル」と赤字を入れるのであるが、削り取るたびに「トレ」と悔しくて書きたいほどの思いであった。

しかし段々にその考えを方向転換した。自分の研究したことが一冊の本にまとまるということだけでもたいしたことではないか。研究に費やした時間が一冊の本という夢を叶えてくれるのであるから、この状況を受け入れていこう、という気持ちになった。

文章を削りながら、今は「トル」だが、いつかまたこれが生きるときもある。一時の状況だけにボヤクのはやめ、やめ、と歌いつつその作業を終えて、出版社の編集の方に渡し終わったところである。(生きないでそのままになることもあるが、少なくとも自分の勉強になったのは確かである)

「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない。」こんな素敵な言葉で争うのは愚かだ。槇原氏は素直に詫びた方がよいのではないかと、私は思う。しかし今更引っ込みがつかなくなったかもしれない。CHEMISTRYは評価している二人の歌手なので、これ以上泥仕合になりませんように。

銀河鉄道に乗って滅びないものを探しに出かけよう。滅びないもの、それはなんだろう。これは私が松本氏の言葉から連想して引き出した私の言葉だが、もしかしたら誰かの言葉であるかもしれない。そういうこともあるだろう。

先生のいじめ

2006-10-19 23:50:01 | Weblog
10月19日(木)晴れ【先生のいじめ】

11日の水曜日に、九州で中学二年生の少年がいじめによる自殺をしたことが報じられた。一週間がたって、ご家族の方にとっては、苦しみがさらに増していることではないかと思っている。

先生によるいじめが発端であるとは、本当に情けないとしか言いようがない。この少年の自殺のことを考えると、なんとも言えない思いでこの数日を私も過ごしていた。

私も実は先生によるいじめに苦しんだことがある。それは50歳を過ぎて大学院に入学してからのことである。中国語の先生であった。恥を申し上げるようだが、私が中国語ができないので馬鹿にされたのであるが、馬鹿にされたり無視されたり等等……せっかく乗り越えられたので、今は振り返って思い出したくもないことである。

小・中・高・大学まで友人にも先生にもいじめられたような経験はまったくない。想像もできないことである。それがよりによって50歳過ぎてから先生によるいじめに遭うとは。あまりの辛さと口惜しさに不眠症になってしまったほどであった。

それまでいじめに遭う子供たちの苦しさが本当には分からなかった。いじめられる子供たちのほうに、なにか落ち度や原因があるのではないかと、やはり思っていたところがある。子供の頃も大人になってからも、いじめに遭うという経験が全く無かったので、どこかに同情しきれない点があったのである。

しかし自分がいじめられるという信じ難い経験をしてから、いじめられるということがいかに辛いことか分かったのである。幸いにして理性ある友人に囲まれていたので、先生と同じく馬鹿にしようという友人が一人もいなかったことは有り難いことだった。

大人の私の場合は、それでも他に気を紛らすこともあり、逃げることもできた。しかし中学生や小学生の場合、学校が生活のほとんど全てとも言えよう。そのような場で先生や友人からいじめられるということは、どうして生きたらよいか分からないほどであろう。

いじめられた経験がないと、どこか高見の見物のような気持ちや、自分ならいじめられないという考えも起きてしまうだろう。しかしいじめられてみると、どんなにか辛いことかよく分かる。自分がいじめられてみて自殺したくなる気持ちがよくわかる。なんとかこんな気持ちになってしまう子供たちの役に立つことはできないものだろうかとさえ思う。

このブログをそんな気持ちの子供が読んでくれたらコメントを下さい。あの笑顔を返してくれよオ!」という彼のお父さんの悲痛な叫びが耳に焼き付いています。罪のない子供たちが死ななくても済むように、大人たちが手を貸さなくてはならないと思うのです。



鉄道の文学紀行

2006-10-15 22:18:20 | Weblog
10月15日(日)晴れ【鉄道の文学紀行】

昨日の続き
佐藤喜一著『鉄道の文学紀行-茂吉の夜汽車、中也の停車場』
 目次
 函館駅-啄木『一握の砂』から辻仁成『海峡の光』まで
 茂吉記念館前駅-「死にたもう母」を一目見ん
 今泉駅-宮崎俊三、昭和二十年八月十五日の汽車
 二本松駅-高村光太郎、智恵子の「ほんとの空」
 犬吠駅-佐藤春夫「犬吠岬旅情のうた」をめぐる
 熱海駅-尾崎紅葉『金色夜叉』から「湯の町エレジー」へ
 信濃追分駅-立原道造「のちのおもいに」
 替佐駅-高野辰之「兎追いし山、小鮒釣りし川」
 桑名駅-中原中也、昭和十年八月十一日の夜
 湯田温泉駅-中原中也の「帰郷」
 宇和島駅-大和田建樹「鉄道唱歌」のふるさと
 豊後竹田駅-滝廉太郎「荒城の月」、そして川端康成『千羽鶴』
 (第一話等は省略)

駅とその駅にまつわる文学的な話を興味ある形で追いかけている。例えば『金色夜叉』の間貫一は、母親に連れられて富豪の御曹司に会いに熱海に行ったお宮を追いかけて、何時何分の人車鉄道に乗っていったか、とか「ハハキトク」の電報を受けて斎藤茂吉は何時何分の列車に乗って故郷に向かったのか等々。

みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞいそぐなりけり
吾妻やまに雪かがやけっばみちのくの我が母の国に汽車入りにけり
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる
我が母よしにたまいゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ
のど赤き玄鳥つばくらめふたつ屋梁はりゐて足乳たらちねの母は死にたまふなり

「死にたまふ母」の五十九首が、どのような状況のなかで詠まれたか、臨場感をもっての解説がなされている。

また「兎追いしかの山……」の歌詞で有名な「故郷」を書かれた高野辰之氏に因んで替佐駅の周辺が紹介されている。著者のご案内なくては到底見つけられない駅であるだろう。

また私にとって印象深かったのは中原中也の話である。湯田温泉駅の停車場から五分ほどのところに中也の「帰郷」の碑が建てられているという。

これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
ああ おまへは何をして来たのだと
吹き来る風が私にいふ


郷関を出てから中也は一度帰郷を果たしたそうだが、それは故郷の人に歓迎されなかった帰郷のようであった。著者のご案内を頂いて中也の故郷が見えてくる。

『鉄道の文学紀行-茂吉の夜汽車』これは中公新書で手に入りやすい本なので、是非ご一読をお薦めします。普通の文学解説とは全く違った切り口の世界が広がるはずです。

鉄道の日

2006-10-15 00:06:15 | Weblog
10月14日(土)晴れ【鉄道の日】
今日は鉄道の日です。鉄道少年や鉄道ファンにとっては特別の日でしょう。私も今日はどうしても恩師の本をご紹介したいと思っていたので特別な日です。私自身は鉄道ファンではありませんが、それでも子供の頃に家の前を走っていた列車にはいろいろな思いを抱いています。

鉄道少年のままにご成長なさった恩師の名前は佐藤喜一先生です。先生の御著書は

    『汽笛のけむり今いずこ』(新潮社、平成11年)    
    『されど汽笛よ高らかに-文人たちの汽車旅』(成山堂書店、平成14年)
    『鉄道の文学紀行-茂吉の夜汽車、中也の停車場』(中公新書、平成18年)

三冊の鉄道に関する著書があります。先生ははじめ「ぽっぽ屋」になりたかったそうで都立大の工学部に入学しましたが、その後文学に魅せられて人文学部に転部なさったそうで、私の知っている先生は、高校の国語の教師でした。

先生の三冊の本は、鉄道ファンと文学青年の先生でなくては書けない内容です。鉄道ファンの方々や文学と鉄道の関わりに興味のある方は、是非手にとって著書とともに列車の旅人になってください。目次を次にご紹介しておきます。目次をお読みになりますとその内容に思いが膨らむと想像します。そしてきっと文豪達の旅を追いかけたくなると思います。

『汽笛のけむり今いずこ』:
 熱海、塩原、ちほく高原鉄道-『金色夜叉』を追いかける
 東海道線旧三島停車場-文人たちの修善寺への道
 まだ上州の山は見えずや-萩原朔太郎の汽車旅
 〈へっつい〉に牽かれて-志賀直哉『軽便鉄道』の旅
 上野発青森行急行103列車-太宰治の『列車』に乗る
 線路はつづくかどこまでも-芥川龍之介「機関車を見ながら」
 文明の長蛇が走る-三四郎の上京と漱石の汽車論

『されど汽笛よ高らかに-文人たちの汽車旅』
 伊香保の宿から山科駅の別れまで-蘆花『不如帰』の旅路
 「嗚呼 山林に自由存す」-独歩〈夢追い人〉の汽車旅
 停車場に詩情ぽえじい求めて
A函館本線 ニセコ駅-『生まれ出づる悩み』の一夜
B上越線 新前橋-萩原朔太郎ゆかりの駅
C平成筑豊鉄道 東犀川三四郎駅-小川三四郎のふるさと
D「……小田急線は我が絹の道」-変わる新宿 あの……
 「……うたふがごとき旅なりしかな」-啄木・北辺のさすらい
 鉄道開通七〇年 秋の旅-わが「聖地参拝旅行」の記

『鉄道の文学紀行-茂吉の夜汽車、中也の停車場』
 *これは明日続きを書きます。夜汽車の旅は疲れました。

道元禅師の和歌-中秋夜のご詠歌

2006-10-07 23:28:25 | Weblog
10月7日(土)満月【道元禅師の和歌-中秋夜のご詠歌】

今夜は御陰様で美しい名月が東の空に顔をお出しになり、夜空をゆっくりと弧を描いて上がっていっている。わずかの雲が皎々たる月光を受けて、空はさらに荘厳さを増している。しばらく今宵の空の気の中にいた。

道元禅師(1200~1253)が最後の和歌をお詠みになったのは中秋の名月であった。
[師入滅中秋夜の御詠歌]
      また見んと思いしときの秋だにも  こよいの月にねられやはする

八月十五夜の月をご覧になられたのは、療養のために上洛し、俗弟子覚念の邸であったといわれている。いよいよ病が重くなり、山深い越前の永平寺では充分な治療もできないので、弟子達や波多野家のたっての勧めに従って、やむなくお山を後にされたことであろう。都にあって名月を眺められている道元禅師の脳裏には、なにが浮かんでいたのだろうか。このとき禅師は自らの死期を悟られていたことだろう。示寂なさったのは同じ月の二十八日のこととされる。

また見られるだろうと思ったいつもの秋でさえ眠れなかったのに、これが今生見納めの名月かと思うと、どうして寝ていることなどできようか。(いや寝ていることなどできはしない)

私はこのように今は訳しているが、上の句の訳については異論のある方もいるかもしれない。ご意見を頂ければ有り難い。

良寛様(1758~1831)の最晩年のお歌にも「いさ歌へ我たち舞わんぬばたまの今宵の月にいねらるべしや」というのがある。ご最期を悟られた良寛様も、秋祭りの村人の歌にあわせて、月の中で踊っているのである。いかにも良寛様らしい感じがするお歌である。良寛様は道元禅師の中秋夜の絶詠を思い浮かべながら、このお歌を詠まれたのではなかろうか。良寛様はこのお歌を詠われてから数ヶ月後にご遷化された。

我が本師が最後の名月をしばらくご覧になっていたお姿も思い出される。もしや道元禅師のお歌を思い浮かべていらしたかもしれない、と今は思う。誰にでも訪れる最期のとき、どんな思いで名月を眺めるであろうか。願わくばこの中秋の名月を、最後と悟って旅立ちたいものだ。その時道元禅師や良寛様や本師のお心を万分の一ぐらいは分かるかもしれない。

幾片かの雲が飛んでいて、空が澄んでいるのをかえって強く感じられる。頭上の月光は地上にまで届きそうである。開いた両の手のひらまで光のなかである。どの家にも月の光がそそがれるように、へだてなく訪れる最期の日がいつかはくることを、こんな月の光の中で静かに感じている。もし近く旅立つ人あらば平安を祈ります。

*今日は陰暦の八月十六日ですが、満月は今夜のようです。昨日の台風による雨風のなかの満月でなかったこと、よかったです。
*良寛様の時代には面山瑞方(1683~1769)の校訂した道元禅師和歌集として『傘松道詠』が流布していた。刊行は延享四年(1747)である。
*『大法輪』に書かせていただいた拙稿をもとにまとめました。

いじめ

2006-10-04 23:11:40 | Weblog
10月4日(水)曇り【いじめ】

北海道滝川小学校というところで、小学六年生の女の子が自殺したという。昨年の9月9日、教室で首を吊っていたのだという。なんということであろうか。僅か12歳の少女が首を吊るなどという悲しいことを、なんでしなくてはならなかったのであろうか。同級生達から仲間はずれにされていたのだという。そして修学旅行から帰った8日後に、少女は死を決行したのである。死を決意したのは修学旅行でも、あまりに我慢できない何かでもあったのだろうか。その前から仲間はずれの状態は続いていたのだという。少女は今年の1月6日に病院で亡くなってしまったそうである。

最近故郷の同窓会に帰ったばかりなので、私たちの小学校時代を鮮明に思い出しているが、私たちの時代には虐めなどはなかった。弱い子はみんなで庇ったし、今でもそんな感じである。私を含め皆貧しい時代であったから、着ている物も充分ではなかったが、誰もそんなことを虐めの対象とも思わなかった。裕福な家の子でもそれを誇らなかった。勉強ができても威張らなかったし、できなくてもなんでもなかった。みんな一緒に遊んだ。でも喧嘩もした。

私は一度ガキ大将を相手に喧嘩をし、相手を泣かせて女の先生にすごく叱られて立たされた記憶はある。相手が弱ければ決して喧嘩をしなかったであろう。いつも弱い子を皆で守っていた。誰かが立たされれば、陰でハラハラと心配しながら、許されるまでお互いに待っていた。因みにそのガキ大将さんとは今も仲がよい。

古きよき時代のように、なんとか戻ることはできないのであろうか。なぜこんなに子供たちが虐めに苦しむようになってしまったのだろう。大人にも子供にも問題があるだろう。人を蹴落としてでも上になろうという競争社会、お金さえあればなんでもよいという金権社会、ごはんやお味噌汁の味を忘れた食の乱れ、子供たちが家を手伝わなくなったこと、女性が家庭を大事にしなくなったこと、男性が家の手伝いもしないで遊び歩くこと、等々。

善悪の基準を社会が忘れてしまったこと、すじの通った生き方を社会が忘れたこと、等々。

この今の日本の虐めなどについて、皆さんにもいろいろな考えがあると思う。なにか少しでも子供たちを救えることがあったら、実行しよう。

今日たまたま「袖すりあうも多生の縁」について話していた。そして帰りの電車の中で『一遍上人語録』を開けたら、すぐに次の言葉があった。

「山門延暦寺のこと横川よかわの真縁上人へつかはさるる御返事  

此世の対面は多生の芳契ほうけい、相互あいたがいに一仏に帰する事、これよろこびなり。云々」

此世の対面は多生の芳契:此の世でこうして対面するのは、生まれ変わり死に変わりして、多くの生をうけてきた、過去世からの芳しい契り、である。

今の子供たちにもこんな言葉を学んで貰いたいし、今の大人にもこんな言葉を思い出して貰いたい。虐めで友だちを自殺に追い込むことはよくないことだと認識しよう。こういうことを言うと、その友だち達の人権のみについて反論が返ってくるかもしれない。もしそうだとしたらそのような社会が間違っている、と私は言いたい。

亡くなった少女の冥福を、仏菩薩に祈りお頼みします。