風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

猫に百合も紫陽花も猛毒

2020-10-24 17:15:11 | Weblog

10月24日(土)晴れ【猫に百合も紫陽花も猛毒】

猫が百合の葉や花を食べたりすると、ひどいときは死に至るそうです。百合をさした花瓶の水も飲んではならないということです。紫陽花も同じだそうで、猫のいる家は、なるべく花など植物を置かないようにしましょう、と調べた記事に書かれていました。

私は、時々、「○○は猫に大丈夫か」と検索して調べているのですが、百合も紫陽花も好きな花で、お内仏にもよく飾っています。これは困りました。子猫のカズちゃんだけは、仏様の花瓶の花をいじるのが好きなのです。いくら仏間の襖を閉めておいても、自分で開けて入ってしまいますので、防ぎようがありません。

この記事を見てからは、お内仏の花瓶自体下げてしまいました。今まで小鯵や煮干しなど、塩抜きしてから食べさせていましたが、これもNGでした。青魚は猫にとって、危険な食べ物でした。
この不飽和脂肪酸は分解する時にビタミンEを大量に消費するため、青魚ばかり食べていると、ビタミンE不足になり、その結果脂肪が黄色に変色する黄色脂肪症という病気なってしまうそうです。 脂肪が暗い黄色に変色する他、発熱、元気がなくなる、触ると痛いなどの症状が現れるそうで。

缶詰ではなく、自分で調理したものを食べさせたいと思っているのですが、よく調べなくてはいけませんね。

白百合を 天に手向けて 身を清め

白百合の 香(か)に包まれて 毎朝(まいちょう)の 坐禅にまかす 老いらくの日々

ということだったのですが、自分の楽しみよりも猫の健康第一になります。冬は寒いので、本堂坐禅はさけて暖かい仏間にしたのですが、白百合はNGになりました。

#猫に百合は猛毒 #猫に紫陽花も猛毒 #猫に青魚もNG 


「ごっこ」の世界

2020-10-13 10:05:41 | Weblog

10月13日(火)晴れ【「ごっこ」の世界】

檀家さんから頂いた新聞の記事に目が行きました。新聞は、ごみをきれいにくるんで捨てるというこの界隈のルールのために、新聞を檀家さんから、いただいているのです。さて〈「○○ごっこ」する世界〉という見出しの記事に「政治も思想運動も本当の現実を見ない虚構の中の遊びだ」という小見出しがさらにありまして、興味を持ちましたので、捨てないで、読ませていただきました。佐伯啓思さんという京都大学名誉教授のお書きになった一文です。(2019年10月2日朝日新聞)

日本の平和は、日米安保体制によって保たれているという現実に、右も左も目をつむっている。1999年に自死を遂げた江藤淳氏が「『ごっこ』の世界が終わったとき」という評論を1970年に発表したそうであるが、全共闘の反政府運動や三島由紀夫の自主防衛や新たなるナショナリズムの動きには、どれも「革命ごっこ」「ナショナリズムごっこ」「自主防衛ごっこ」にすぎない。「ごっこ」は真の現実に直面しない虚構の中の遊び、云々。

恐縮ながら、上の4行は、佐伯先生の記事を少し抜き書きさせていただきました。

また、江藤氏は「日本は米国のこしらえあげた「鏡張りの部屋」におかれているために、世界というリアリティに直面していない。われわれは鏡に映された自分たちの姿について、右だ左だ、護憲だ改憲だ、と相手をののしりあっている、云々」

しかし、アメリカの核と軍事力を楯として、平和を享受してきた現実も、かなり危ない状況と今やなっている。この日本の一隅で私が危惧しているのは、日本は中国の属国にされてしまうのではないか、現に多くの土地も中国の資本によって、買い占められている、早くこのことが簡単にできないような法律をつくらなくては、日本を守ることはできないだろう、今や日本民族という言葉はつかえない。なぜならばこの日本に多様な民族の人が平和に暮らしているのだから。その中に勿論中国の人も含まれるわけだが、平和裏に共存・共生しているのであれば、問題はないのだが、中国という国家による侵略ということになると問題は別である。単に土地の買い占めだけではなく、もっと大きな問題は軍事力の大人と赤ん坊のような問題がある。だからといって日本の軍事力を強化しなくてはと思ってはいないが。

また「近代日本にとっての最大の経験はあの戦争とその死者たちであった。江藤さんは「ごっこ」が終わればわれわれはあの死者たちと本当に向き合うといったが、どうやら逆に、あの死者たちをたえず想起することによって、せめて「ごっこ」を自覚することぐらいはできるのであろう。」と佐伯先生は最後に書かれている。

ここで、私は、曹洞宗の僧侶の一人として、かねて疑問を持っていることがある。それは「祠堂諷経」という法要のあとの回向文の中にかつては「万国戦死病没者諸英霊」という文言がありました。しかし今はそれがなく、代わりに「万国殉難者諸精霊」となっています。「英霊」という表現はやめてもよいでしょうが、なぜ「戦死病没者」が消されてしまったのでしょう。数年前に弟子ができたときに新しい経典を購入して初めて知ったことです。私は毎朝のおつとめで「万国戦死病没者諸精霊並びに天災による万国殉難者諸精霊」と回向しています。

さらにこの佐伯先生の論を読みまして、「本覚思想」について関連して考えたことがありますが、長すぎますので、この辺で。

「僧侶ごっこ」をしていると反省している尼僧の朝のブログです。(この頃、私は本堂の屋根の葺き替えについて、つくづく住職が一人で六知事、とくに直歳ーお寺の普請などにかかわる役職ーまではきついと思っています。)

おそらく最後までお読みくださった方はいらっしゃらないでしょうが、お読みくださり有難うございました。


尼僧の僧堂安居修行

2020-10-07 22:36:19 | Weblog

10月7日(水)曇り後雨【尼僧の僧堂安居修行】

ようやく弟子を僧堂安居の修行に送り出すことができました。知り合いのお寺様のお弟子さんと二人ですので、厳しい修行にも力を合わせて耐えることができると願っています。

安居させていただくのは、尼僧ですので、尼僧堂ということではなく男僧さんの多いお寺です。尼僧堂に修行に預けていた一人の弟子は、その尼僧堂の僧堂長が自分の弟子にしてしまわれたので、同じ目に遭っては困りますので、それはやめました。

仏道修行の眼目について、この弟子を育てるにあたって、あらためて考え気にかけましたのは、とにかく自分は正しいという我がとても強いので、それをしっかりと見せることであろうかと思いました。出家するまで、とても頑張って生きてきたようですので、何でもできるという自負もあるでしょう、自分なりの考えもできています。出家して弟子としての学びの姿勢、師匠の言うことを素直に聞くという姿勢と覚悟は、あまりありませんでした。

師匠のいうことだけではなく、自分以外の人の言うことを、素直に聞ける心は、とても大切であると思います。どちらが正しいかどうかは問題ではないでしょう。本師もよくおっしゃっていましたが、何が正しいかどうかわからんぞ、と。その通りだと度々に経験しています。その点私は柔軟なつもりです。ただ、この度の私の配役は師という役目ですから、その役目として、弟子の弱い点を見てあげなくてはならないでしょう。

私が住職を任されているお寺は、檀務の忙しいお寺ですが、二人いたら楽かといいますと、なんだかかえって忙しかったように思います。これからまたしっかりと、私も、もう少し深く経蔵に入る時間を頂いて、学び直したいと思っています。

とにかく、一年間の修行無事につとめてきてほしいと願っています。