風月庵だより

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宗教の風光(二)肉屋の店先で悟った盤山宝積

2011-08-23 20:16:04 | Weblog

8月23日(火)晴、また暑くなる【宗教の風光(二)肉屋の店先で悟った盤山宝積】

「宗教の風光」についてまた本師の著作から、抜粋してみてみます。

 達磨様から三代目の僧粲という祖師が遺された『信心銘』の冒頭の句に「至道は無難なり、唯揀択(けんじゃく)を嫌う」と示される。至極の道理、最高の道は、それほど困難というわけではないが、一つの条件があって、それさえできれば至極の道理は領会(りょうえ)できるのである。

それは、揀択をするなということである。揀択ということは「よりごのみをする」、「比べあう」というような意味合いである。私どもの日常を考えてみると、それは揀択の世界ということができる。価値の世界、値段表の世界を生きているのである。それは人間のすがたである。人間の尺度の世界である。浄と不浄、善と悪、美と醜、損と得というような対峙の世界である。
 
 盤山宝積という人は、肉屋で客と主人公の対話を聞いて悟ったといわれているいる人である。馬祖道一(ばそどういつ)様のお弟子である。ある日肉屋にて、お客がよい肉をくれと言うのを聞く。肉屋の主人は「わしのところには悪い肉は置いていない」と言う。

盤山はなるほどなと会得するところがあったという。どういうふうになるほどなと会得したかといえば、肉屋の店頭に、肉が並べてある。肉を並べる序列は、やわらかくて美味しいのは値段が高いのである。かたくてうまくないのは、安いのである。人間が食べるのであるから、それは当然のことであり、なんの不思議もないことである。

されどそこに並べてある肉が、牛や豚の身体についているときには、上等も下等もないわけである。それぞれの場所にあって、肩の肉も、背中の肉も、お尻の肉も、それぞれのはたらきをしているのであって、上中下の序列はないのである。肉に 上中下の序列をつけるのは、人間の舌の加減である。そういう人間の寸法を離れてみると、序列値段表のない世界があることに気づく。天地の寸法というべきか。人間の間だけで通用する寸法を離れたところが宗教の風光である。人間の寸法は、法律道徳の世界の風光である。

★「人間の間だけで通用する寸法を離れたところが宗教の風光である。」人間の世界のこともけっして無しにはできないことですが、その寸法を離れた世界があることを知った上で、人間の世界をみれば、人間の世界の尺度だけに振り回されないで生きていけるといえましょう。

 ルナがハチに刺されました。向かって右の手が腫れています。病院で消炎剤注射を打ってもらいました。ベランダには出しているのですが、朝、大きな鳥を生け捕りにしてきたり、活躍していたのです。そのうち、猫パンチをしたな、と見ていましたら、慌てて中に駆け込んできました。ハチにでも刺されたのでは、と直感的に思いましたら、体が小刻みに震えて、前足(手と言いましょうか)が腫れだしました。    今年は蚊も多いし、ハチもよく見かけます。皆さんもご用心。

 

 


言葉がありません

2011-08-20 19:51:34 | Weblog

身を寄せ合って…警戒区域に牛の群れ、高速道さまよう

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写真:建設中の常磐道を歩く牛の群れ=7月22日午後0時48分、福島県南相馬市小高区川房、高田さん撮影拡大建設中の常磐道を歩く牛の群れ=7月22日午後0時48分、福島県南相馬市小高区川房、高田さん撮影

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 高速道路を歩く牛の群れ――。東京電力福島第一原発の警戒区域で、立ち入りが禁止されている福島県南相馬市小高区の自宅に一時帰宅した高田年子さん(63)が写真に収めた。

 避難先の福島市から我が家に戻ったのは7月22日午前11時ごろ。近くで建設中の常磐道で何かが動いた。その数30頭以上。ほとんどが耳にタグがついた黒毛和牛で乳牛らしい牛も交じっていた。置き去りにされたり、牛舎から逃がされたりして群れになったらしい。

 鳴きながらさまよう牛を見て、かわいそうでならなかった。「草はあっても水は飲めているのかねえ。原発事故がなければこんなことにはならなかったのに」(清水優)


宗教の風光(一)二見にわたらぬ世界の安心

2011-08-18 15:08:24 | Weblog

8月18日(木)晴暑し 【宗教の風光(一)二見にわたらぬ世界の安心】

本師の言われる「宗教の風光」は、さとった本師にしてお使いになることができる表現だろうと思います。そこで、宗教の風光とは、を解説するには、本師がどのようにお使いであったかをご紹介するのが、適切だろうと思いますので、本師の著作から引用したいと思います。

「ものの存在価値はそのものがきれいだとか役に立つとかそういうことではない、そのものがそこにあるということが存在価値の根本である。三歳のいのち、八十歳のいのち、それは三歳の仏性であり八十歳の仏性である。世間相場では八十歳のいのちが価値あるものとされる。されどそれぞれの価値である。このところにきて人は初めて安らえる。宗教の風光では 努力はいらぬ。放ち去ることである。人間の尺度を放ち去って白雲万里の外へやることである。そういう世界を柳緑花紅という。それはそれということであり、『信心銘』の「至道無難 唯嫌揀択」とされるところである。是と非と、美と醜と揀(えら)ぶところがなければ、取捨ということはないだろう。

「三世諸仏有ることを知らず 狸奴白牯却って有ることを知る」という南泉和尚の語といわれる表詮がある。道元禅師が建仁寺に栄西禅師を尋ねられたときの答話とされる。この答話によって道元禅師は衣を禅家に替えたのである。どのように受けとるべきか。三世諸仏といわれる優れた人々は、「有ることを知らず」不知の世界の到っている。不知とは「不知最も親し」といわれるように、二見にわたらぬ世界に到り得ているというのである。狸奴白牯といわれるような類は、「有ることを知る」、知っているのである。見ているのである。相手と自分と二見が立っているというのである。

以上がだいたい伝承されている受けとり方である。もっとほかに受けとり方はないものか。三世諸仏という優れた存在と、狸奴白牯というくだらぬ存在という二つのものあり方を否定した世界というものを考えられないのであろうか。衆生と仏という対立をあたりまえに思っている。『一心戒文』(達磨大師の作という)の中に第十不謗三宝戒の説明に「一如法界において、生仏の二見を生ぜざるを不謗三宝戒と名づく」とある。衆生と仏の二見をもたぬときに不謗三宝戒が保てるという。人間の尺度を超えたところに戒法の生き生きとしたすがたがげんじている。

枠の中にあって、浄不浄があり、聖と凡があり、いろいろとあることであるが、煎じつめてみると浄に著するを不浄ということになるであろうか。
 
伝えられた型の中にあって安心しているすがたをよく見かける。それは一種の精神的怠慢でもある。宗教の風光は人間的思考の外にあるもののようである。

(『宗教の風光』9~10頁、中山書房仏書林、平成12年9月ーまだ数冊は中山書房にあるかもしれません)


2011-08-15 09:27:00 | Weblog

8月15日(月)晴暑いです 【閑】

昨日棚経に伺った家で、李白の話が出ました。李白の漢詩が大好きなのだそうです。「山中問答」の話もでました。

話をしながら思い至ったのですが、李白の詩の意味とは別にして「心自閑」は、心はもともとに閑なのだ、というふうに読めないだろうか、ということです。いつも揺れ動いているのは、揺れ動かされているのは、やはり心ですが、その心はもともとは閑なのだというふうに読んでみたいと思いました。本覚思想と指さされてしまう解釈かもしれませんが。

帰ってから、あらためて本師の本を開いてみました。「閑」という項目があり、そこに書かれている「閑」についての本師の言葉をかきぬいてみましょう。

★禅門では、この「閑」という文字をひじょうに大切にしています。(中略)禅門では真実の道理ということになるのであります。

★人は三十年、五十年、八十年の生涯を生きるが、また三つで死ぬこともある。(中略)同じ天地のいのちなのですから、人間の尺度を外せば同じ尊さがあるのです。阿弥陀様の方から見れば長短を超えた同じ姿なのです。そこのところがの世界なのです。

というのは、宗教的風光が手に入った人の風光なのです。

以上の三箇所は長い文章から、直接、閑について書かれているところを取りあげただけですが、閑について書かれた全文を通して、本師が表現なさりたいのは、宗教の風光であろうと思いいたります。本師が伝えたかったことは、「宗教の風光」であろうと思い、私が編集させて頂いた本の題を『宗教の風光』としたわけです。

先日も宗教の風光とは、なんですか、と質問されましたが、稿をあらためて、考えてみたいと思いますが、宗教の風光は、実は悟った本師だからお使いになれた表現であったと、あらためて思います。それを悟ってもいない私が解説をすることは、かなり無謀な試みでしょうが、日を改めて、考えてみたいと思います。

「雲は嶺頭に在って閑不徹」もよく本師がお使いになった偈頌ですが、嶺頭に悠々たる雲が浮かんでいる光景が目に浮かびます。「水は澗下を流れて太忙生」と対句になっています。どなたの偈頌だったでしょうか。また調べておきます。*『明覚禅師語録』にありますので、おそらく雪竇重顯禅師の頌古でしょう。その後多くの禅者が使っています。多くの禅者が使っていますと、たまたま目にしたその禅者の語としてしまうことがありますが、一番年代的に古い人が、作者でしょう。

よくよく味わってみれば、「閑」は悟りの語でしょう。

 


心自閑(心自ずから閑なり)

2011-08-13 11:12:53 | Weblog

8月13日(土)晴 【心自閑(心自ずから閑なり)】

「心自閑」 この言葉は本師がよく揮毫されていたので、禅語だろうと思っていました。だからといってどんな書の中にあるかも調べなかったのですが、今朝、元首相の細川さんの隠遁生活の番組を観ていて、たまたま李白(701~762)の詩の中にあることがわかりました。

李白の代表作のようなので、ご存じの方は多いでしょう。

「山中問答」  李白

問余何意棲碧山  余に問ふ 何の意か碧山(へきざん)に棲むと   

笑而不答心自閑  笑ふて答へず 心自(おの)ずから閑(かん)なり

桃花流水杳然去  桃花流水 杳然(ようぜん)として去(ゆ)く

別有天地非人間  別に天地の人間(じんかん)に非ざる有り

私に(ある人が)訊ねた、どんなつもりでこんな山奥に棲んでいるのかと。

私は笑って答えなかった が、心はおのずからしずかなのである。

桃の花びらが水の流れに随って、はるか遠くに流れ去っていく。(人里離れたそんな上流に棲んでいるということ)

俗世間にはない別天地がここにはある。

李白は若い頃、東巖子という隠者と一緒に岷山に隠棲し、道士の修行をしていたこともあるようです。 この詩はその頃の詩かもしれません。山の中で、心も自ずと閑(しず)かで、世の盛衰、世の喧噪から離れての日々を送っている李白の姿が浮かんできます。この詩を詠んだ山は、湖北省安陸県にある白兆山だそうです。

40歳くらいで宰相の孫娘と結婚したようですが、友人の推挙で天子の傍近くに仕えることになりました(科挙に受かったわけではないので、普通の官吏とは違う)。しかし、酔ったあげくのあまりに傍若無人の振る舞いによって、宮廷を追放されてしまった、という説もありますが、讒言によって罷免されるという説もあります。

李白の自由な魂にとっては、山野の生活のほうが相応しかったのではないでしょうか。

私にとっては、李白ように山のなかで隠遁生活を送ることは、夢のまた夢ですが、それでも今までの年月の中で、10日間だけ一人山中で暮らしたことがあります。人っ子一人来ない山奥で、断食修行と回峰行をしたのですが、あの日々は懐かしくも得難い経験であったと、今想いかえしています。またいつかしたいと思っていましたが、多くのことは、その時一度きりの経験であったことが、振り返ってみれば、多いことに気がつきます。

しかし、これから山の中ではないですが、隠遁生活を送りたいと思っていたのですが、もしかしたらそうではない展開になるかもしれません。はたして、どのように展開していくことになりますか。どのような動きの中にあっても「心自閑」の心境でありたいものと願っています、が、そうはなかなかできないでしょう。

せめて本師に揮毫して頂いたこのお軸でも眺めながら、自戒しつつ日々を送りたいと思っています。

*良寛様の詩にも、たまたま 「人間(じんかん)」の語が出てきました。やはりこの語は俗世間、人の世の意で、「じんかん」と読む方がよさそうです。


人間の是非一夢の中

2011-08-08 08:36:42 | Weblog

8月8日(月)晴 【人間の是非一夢の中】

「人間の是非一夢の中」

これは私の好きな言葉です。良寛様の漢詩の一句です。

「半夜」

回首五十有余年 (首〈こうべ〉を回〈めぐら〉せば五十有余年)

人間是非一夢中 (人間〈じんかん〉の是非一夢の中〈うち〉)

山房五月黄梅雨 (山房、五月黄梅の雨)

半夜蕭蕭灑虚窓 (半夜蕭々〈しょうしょう〉として虚窓〈こそう〉に灑〈そそ〉ぐ)

*人間は〈じんかん〉と読んでも、〈にんげん〉と読んでも良いのではと思います。じんかんという方は、人の住んでいる世間の意味がはっきりしますが、にんげん、のほうが耳がすぐに理解できますし、人間そのものをさすニュアンスがあります。良寛様はどちらでしたでしょう。

五十有余年の来し方を振り返ってみれば、(いろいろなことがあったことでしょう)、人の世であれがよい、これが悪いなどということは、儚い一夜の夢のようなものだ。この五合庵に、五月の梅雨の雨が、夜中に、蕭々として戸の入っていない窓にふりそそいでいる。

梅雨の雨が、しとしとともの寂しくふりそそぐ真夜中、良寛様は寝付かれないでいらっしゃったのでしょうか、それとも雨の音にふと目を覚まされたのでしょうか。夜中に目を覚ましていますと、五十数年のご自分の人生が、走馬燈のように思い出されたことでしょう。

多くのご苦労もあったことでしょう。玉島の円通寺の修行時代にも苦しいこともあったに違いありません。村の長の家に生まれた良寛様でしたが、跡を継がない苦しみもあったことでしょう。珠玉の言の葉をたくさん、後世の私たちに遺していってくださった良寛様ですが、その汚れを嫌う心は、世の中との葛藤が多かったのではないでしょうか。

しかし、来し方を振り返ってみれば、あれはよい、これは悪いなどという人の世の価値判断のなんという危ういことか。おそらく良寛様も振り回されていた時もあったかもしれません。なにが是か非かわからないし、さらに考えれば、是非の価値判断さえ愚かしいことといえるでしょう。

しとしとと降る梅雨の雨がふりそそいでいる窓には、戸も入っていないような国上山の侘びしい五合庵で、せんべい布団に身を横たえて、この世のはかなさ、危うさをしみじみと懐古なさっていた良寛様だったでしょう。

私たちにもいろいろな出来事が身に降りかかってきます。時には思いも寄らないような目にもあいます。まして現代のように情報過多の時代は、余計なことが多すぎます。このような時代に、自分の純粋性を保って生きていくことは、なかなかしづらいでしょうが、「人間の是非一夢の中」と、良寛様のお言葉を反芻しつつ、涼やかに生きていきたいものです。

まだまだ暑い日々ですが、皆様、どうぞお体お大事にお暮らしくださいますよう。