風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

光をくれた少年

2007-01-31 21:37:04 | Weblog
1月31日(水)晴れ【光をくれた少年】

今日はなんとなく体がだるく、そのせいもあるが、なんとなく憂鬱な一日だった。こんな日は勤めに出かけるのも億劫な気がしたが、休むわけにもいかないので気力を振り絞って勤めに出かけた。稀ではあるがこんな日もある。

帰りのバスで一番後ろの座席に腰掛けた。その私の隣に小学3,4年生ぐらいの少年がすっとやって来て腰掛けた。バスはかなり混んでいたが、私たちの前の席だけが一つ空いている。バスの前の方にいる年取った婦人は、それに気付かずにつり革をつかんでいた。

私がすぐに動ければ教えてあげたいのだが、少年に動いて貰わなくてはならない。「坊や、あのおばちゃんに、この席が空いてることを教えてあげて」と横を向いて少年に頼んだ。

少年はすぐにさっとその婦人の傍に行って「あの、後ろの席が空いています」と声をかけた。「有り難う」と婦人は答えた。少年は隣に帰ってきた。「有り難う」と私は言った。少年は静かに頷いた。

この婦人がバスを降りるとき、「どうも有り難う」と、少年に嬉しそうな笑顔をして降りていった。少年は静かに誇らしくそれを受けているように見えた。

「ぼくはどこまで行くの」と尋ねると、「○○……」と答えた。「私は××よ」と言った。私の停留所が近づくと、少年は空いた前の席に移動してくれた。「気を付けて帰ってね。またね」と声をかけてバスを降りた。

窓から少年が見ていた。私は手を振った。少年も手を振った。

それだけの話。帰りのバスでの話です。

矛盾-退歩と進歩

2007-01-29 23:13:13 | Weblog
1月29日(月)晴れ【矛盾-退歩と進歩】

「退歩を学ぼう」というログを書いた後で、科学の進歩による月の探査機のことを書いたが、この二つのログの間には大変な矛盾がある。月の探査機を飛ばすにしても、大気汚染を引き起こす燃料の燃焼を伴っているのであろうから。

科学的知識に乏しいので、どのような燃料によって探査機が月に飛んでいけるのか分からない。月への探査機を飛ばすことによって、もしもかなり大気汚染を引き起こすのであれば、単純に「月への願い」を託せないことになってしまう。地球温暖化について心配していて、文明の退歩を提言している(ただブログ上で吼えているだけであるが)私としては、ちょっと理論上矛盾している、と、今日思った次第である。

しかし不必要な進歩については、注意していきたい、とつくづく思う。宇宙への人類の関心と研究は益々進歩することを止められないだろう。そうであるとしたら、優秀な頭脳の集まりなのだから、大気汚染を引き起こさない燃料を作り出してくれることを期待したい。いやもしかしたら、もうそのような燃料で飛んでいるのかもしれない。私が知らないだけだろうか。

いずれにしても現段階においては、全ての事柄について退歩することは難しいだろうが、退歩できることは退歩するように心掛けたい。退歩こそ進歩ともいえるだろう。

蛇足ながら、トイレの蓋が自動に開閉したり、自動で水が流れることは、必要だろうか。自動ドアに慣れてしまった恐ろしさ。このような便利な設備によって助かる人々もあるので、一慨にノーとは言えないが、一般の家庭には不要な設備ではないだろうか。

とにかく自分にできることは、極力退歩生活をしていくように心掛けたい。文化的生活に慣れ親しんでしまった現代人として、退歩と進歩の矛盾に自分でも分からなくなって振り回されるだろうが。

こうしてパソコンを使っていることも………

今夜は月がきれいです。今はもう中空よりも西よりの位置で輝いています。今夜は十二日月。

少年よ、月に願いを

2007-01-28 22:50:52 | Weblog
1月28日(日)晴れのち曇り【少年よ、月に願いを】

先週歯医者さんに行った折りの事。待合い室に小学五年生ぐらいの一人の少年。テレビからは二人の親戚の人たちを殺めた男が逮捕されていく様子が映し出されていた。少年はそれをじっと見ていた。

「ぼく、そんなニュースを見ない方がいいよ」
「悪いニュースは少年の頃は見ない方がいいんだよ。子どもの頃の心は大事だからね」

少年は素直に頷いてくれた。ニュースは悪いことばかり報道しているけれど、世の中は悪いことばかりでもないのだ。大人でさえも悪いニュースばかり目にしていると、本当に気が滅入ってしまうほどなのだから、まだ白いキャンバスの上に悪いニュースばかりすり込むことは避けた方がよいと思うのである。

私たちの子どもの頃はテレビのない幸運な時代であった。子どもの頃の思い出は山に薪を取りに行ったことや、川で村中の子供たちと泳いだことや、芹摘みに行ったことや、そんなことばかり。

子どものフレッシュな目で、日常茶飯事のように起きる殺人事件のニュースを見ることはやめよう。

昨日永六輔さんのラジオを聴いていたら、月にメッセージを託せることを話していた。応募者の「名」と「メッセージ」がシートに印字されて、「セレーネ」という月の探査機に搭載してもらえるのだという。「月に願いを」というキャンペーンだそうである。

1969年にニール・アームストロングやオルドリン宇宙飛行士たちが、月面に降り立ってから、月は少し科学的になった。月は果てしない宇宙へ続く最初の駅である。昔の人が月に寄せた想いと、現代人の月への想いは多少異なってしまったかもしれないが、月の輝きに、やはり心癒されるのは私ばかりではないだろう。

禅的に言えば、月は仏の教えに譬えられてさえいる。月にメッセージを届けてもらえるとは、なんと素敵なことだろう。どなたのメッセージでも受け付けてくださるというので、応募の方法を書いておきます。

先日、歯医者さんで会った少年にも、このことを伝えたいと思っています。

*締め切り:2月28日
*名前:10字以内
*メッセージ:20字以内
*宛て先:〒229-8510 相模原市由野台3-1-1 宇宙科学研究本部(JAXA)
セレーネ「月に願いを!」キャンペーン事務局
又は
*宛て先:〒100-0004 東京都千代田区大手町2-2-1 新大手町ビル7階
  財団法人日本宇宙フォーラム内
  セレーネ 「月に願いを!」キャンペーン事務局
*はがきに住所、氏名、電話、メッセージを書いてご応募下さい。
*往復はがきで応募しますと、返事が頂けるそうです。
*インターネットでも応募できます。http://www.jaxa.jp/ にアクセスしてみて下さい。

退歩を学ぼう

2007-01-27 10:30:24 | Weblog
1月27日(土)晴れ【退歩を学ぼう】

一週間ぶりです。週末だけのブログ管理人で恐縮です。先週は日曜日もログをupしたいと思いましたが怠けました。怠け者の言い訳ですが、毎日お勤めをしていると、週日はアッという間に終わってしまいます。その上、土曜、日曜はお寺のお手伝いをしていますので、アッという間の一週間です。

と言いつつも映画を観に行ってきました。『不都合な真実(An inconvenient truth)』です。温暖化による氷河の崩落は時々テレビでも目にしますが、映画のなかで、キリマンジャロの氷河がかなり解けているシーンに驚愕してしまいました。このままで温暖化が進むとキリマンジャロの雪は2020年に全て消えてしまう可能性があるそうです。

またヒマラヤ山脈の氷河やアメリカにグレーシャー国立公園という氷河のある、いやあった公園があるそうですが、そこの氷河も今は僅かしか残っていないそうです。

汚染作用と浄化作用が適度にバランスを保てれば、温暖化は防げることは誰しも分かっていることですが、現実は汚染は増加するばかり、それなのに浄化作用は衰えるばかりです。

汚染については言うまでもないでしょう。浄化作用については焼け畑農業や伐採によるアマゾンの原生林の消滅などは、地球にとってかなりの痛手でしょう。

地軸の変動によって天変地異が起きると言う人もいますが、そのような不確定なことよりも、地球人自身による不注意によって、天変地異が起きることは確実でしょう。いやすでにあちこちで起きています。

道元禅師の『普勧坐禅儀ふかんざぜんぎ』に「回光返照えこうへんしょうの退歩を学がくすべし」という箇所があります。この言葉の意味するところは坐禅についての教えですが、地球人類は「退歩を学すべき」時でしょう。文明の十分に進んだ国は、進歩より退歩を、途上の国は文明国の過ちを犯さないように進歩できれば、理想的なのですが。

それは人間の欲望にはきりがないから、かなり難しいことでしょうが、先ず「かいより始めよ」と言わねばなりません。あらためて生活を見回してみれば、自分自身にしてもなかなか退歩は難しいことに気が付きます。偉そうなことは言えません。しかしお互いに身の回りを見回して、退歩できることは退歩しましょう。

それでもそれでは追いつかないことが山ほどあります。イランは人工衛星にミサイルを載せるということなども計画しているようですし、このままでは地球人類は限りなく滅亡に向かっている現状かもしれません。

そうであるとやはり「回光返照の退歩を学すべし」と、道元禅師が言われる通りの真理を学ぶことこそが、できることの大事なことかもしれません。

回光返照の退歩を学すべし:道を外に求めないで、自己の本来の姿に戻ること。坐禅すること自体が「それ」といえる。

不都合な真実:www.climatecrisis.net(英語版ホームページ)
DVDもあるようです。一人でも多くの人が温暖化の現実を認識することが、やはり大事なことでしょう。


退歩も進歩もない不変の街-ムザブ

世界遺産の番組で『沙漠の宝石 神秘のオアシス都市 アルジェリアのムザブ』の放映を観た。荒涼とした砂漠の谷に忽然と現れた街-それが千年変わらない街、ムザブであるという。

このムザブの生活の中に、まさに退歩する必要もない、進歩する必要もない、賢明な地球人類の姿を見ることができた。

質素でつましい生活ながら、隣人が助け合う平和な暮らしがそこにはある。智恵に溢れた生活である。砂漠のなかでもダムを作って水を分け合う。その水路は土と石でできている。

また代々、井戸堀りの技術を学んで、ヤツメナシ農業を営む家族もある。井戸を掘るのも手作業であり、何年もかけて井戸を掘っている。水脈に行き着いて、水が噴き出してくるときの達成感は素晴らしいと男は語る。そして7歳の息子にも井戸掘りを教え伝える。自分も親からそうして学んだように。

食事は一つの大きな同じ器から皆一緒に食べ合う。皆で食べ物を分け合うことで神の祝福を得られると、ムサブの人は語る。

千年前にゼドラタという街からムザブの先祖たちが、この地に逃げてきたとき、先祖たちは先ずモスクを築いたという。そのモスクには装飾は一切無い。ゼドラタは塩と金の交易で繁栄した。しかし富を見せつけたことで、ゼドラタは襲われ、ゼドラタを失ってしまったのだ。先祖の智恵はムザブの街を装飾禁止としたのである。

イスラムの人々の結束が堅いことは、世界に冠たるものがある。そのなかでもこのムザブの人々の繋がりは強いと言ってよいだろう。互いに助け合い、分かち合い、何よりも平和に暮らしている。家の作り方さえ、お互いに太陽の明かりを取り入れやすいように工夫されている。車も持たず、電気もなくとも、楽しく暮らしている人々の生活がそこにはある。

退歩とも進歩とも言う必要のない生活が、この地球上の一角に紛れも無くあるのをたまたまテレビで観ることができた。放映されたような良いことばかりではないかもしれないが、退歩のログを書いた後なので、補足として書き足しました。

地球温暖化ーゴア元副大統領のメッセージ

2007-01-20 19:46:29 | Weblog
1月20日(土)曇り一時雪ぱらつく【地球温暖化ーゴア副元大統領のメッセージ 】

今週も多くのニュースが報道された。残虐な事件の報道が多く、その事件自体に気が重くなるのに加え、テレビの報道の仕方は、良識を疑う報道方法をとっている局がある。例の夫婦が住んでいたというマンションの間取りをわざわざ組み立てて、さらに人形を使っていかに斬ったかまでのシーンではテレビのスイッチを思わず切った。

小さな子どもが見ていたらどうするのか。視覚から入る印象はインパクトが強すぎるのだから、テレビ局の人々は報道姿勢によくよく気をつけなくてはならないだろう。このような事件そのものについて私が書いてもどうなるものでもないので、ログとして書くことは控えたい。ただ、京都の漫画家志望の青年は本当にお気の毒であった。これこそなんと言ってよいかお気の毒でたまらない。

他にも多々あるけれど、アル・ゴア元米副大統領の地球温暖化対策についてのドキュメンタリー『不都合な真実』のメッセージを取り上げてみたい。この映画は今日から26日までTOHOシネマズ六本木ヒルズや各地で上映されるようだが、できれば観に行きたいと思っている。この映画の上映に先立ってアル・ゴア氏が来日し、テレビにも出演された番組を観た。

地球温暖化によっていろいろな異常事態が地球規模で起こっていること。温暖化によって多くの生物が絶滅に向かっていること。カエルは絶滅する可能性のあること、蝶の65%も消滅の可能性のあること、イノシシの北上もこの異常を表していること(山形県の友人のお寺の近くにイノシシが出たと最近聞いたばかりだが)また熱波や寒波、水害、干ばつなどの異常気象などについて、番組ではとりあげていた。『不都合な真実』の氷河の崩落シーンは、地球上の陸地が段々に海に呑み込まれていくことが予測される衝撃的なシーンである。

私は去年の1月7日に【ロドス島とmediumそして人類の滅亡】というログを書いた。ヨーロッパの友人たちとギリシャのロドス島で休暇を過ごしたとき、友人のミディアムが天のメッセージを伝えてくれた。「このロドスが海に沈むとき、人類は滅亡する」と。これはオラクルという聖霊からのメッセージであると、ドイツ語を英語に友人が通訳してくれたのである。オラクルはもしかしたら、精霊というより神のお告げそのものかもしれない。

今から30年も前の話しであるが、その時のことを私は忘れられない。そのような時がいつかは来るだろうと思っているが、氷河の崩落シーンを見るとあり得ることと実感するのである。しかしできればこの地球温暖化に歯止めをかけたいと誰しも思っているだろう。しかし現実には拍車をかけている現状ではないだろうか。人類の滅亡などとは多くの人は奇想天外なことであると思っているだろう。しかし地球の温暖化によって海面下に沈む陸地があることは想像できるこの頃ではなかろうか。

本当に大半の陸地が水の下に沈む時が来る。このままでは。途上国の生活の向上を願わないわけではないが、地球の温暖化は加速度的に進むだろう。やがては、資源の奪い合いで更なる戦争も起きるだろう。20年後には2度、地球の平均気温は上がるというが、それがなにを意味するのか、真剣に討論したり、研究したりしないと、もうこの地球には人類は遊びに来られなくなってしまうのである。

昨日も本屋さんに立ち寄ったら、店員さんは半袖を着ているほどで、私はオーバーを着ているので汗だくになってしまった。デパートも同じである。身近なところでも必要以上の資源を使い、二酸化炭素を増加させている。身の回りからなにかできることをしなくては、今に取り返しが付かなくなる。車には本当にやむを得ない時にだけ乗るように、遊びに行くときは公共の交通機関を使うようにしよう。

当庵は今ストーブ一つで、あっちとこっちの部屋を交互に暖めている。できる限り個人でも会社でもどこでも気を付けて生きていかないと、本当に地球全体が「温室」になってしまうだろう。地球は自浄作用が充分に働く「自然」そのものでなくてはならない。

「○○島が沈んだそうですな」「明日は富士山まで水がやってくるそうですね」そんな呑気な会話を交わしている余裕はないでしょう。富士山の上まで海水が到達するという意味は…………………

自分たちの生きている間は、天変地異はないと誰しも思うでしょうが、分かりません。いろいろと考えながら生きて参りましょう。そしてこの人生をいとおしんで、楽しく生きて参りましょう。

人の面前で犬さえ叱るな

2007-01-14 14:33:06 | Weblog
1月14日(日)晴れ【人の面前で犬さえ叱るな】

道元禅師の著作のなかに『対大己五夏闍梨法たいたいこごげじゃりほう』(『対大己法』)がある。これは五夏(法臘五歳ー夏安居を五度経験)以上の阿闍梨あじゃり(禅門では五夏以上の僧)に対しての作法、つまり自分よりも叢林そうりんにおいて僧として五年以上先輩に対しての礼儀作法について書かれた書である。

五夏以上の阿闍梨を大己というのだが、大己の前では大声を出してはいけない、とか大己が食べ始めないのに食べ始めてはいけない、とか大己よりも先に寝てはいけないとか、大己よりも先に坐ってはいけない等々、六十二条にわたって礼儀作法が書き連ねてある。叢林においては大事な修行の項目である。現代の社会でも学びたいことは多々ある。

この中に次のような一条がある。
第五十一 在大己前、不可呵罵応呵罵者。
第五十一 大己の前に在って、呵罵かばに応じる者を呵罵すべからず。
第五十一 大己の前では、たとえ叱るに値する者でも叱ってはならない。


先輩が叱らないのに、でしゃばって叱るな、という意味にもとれるだろう。私がこの度、興味を持ち且つ教育に関係することとしてログに書こうと思ったのは、『対大己法』に関する解説書にあった〈「狗でさえ人前では叱るな」と『礼記らいき』には記されている〉という記述にある。

他の人の前で叱られる場合、叱られたそのことを反省するよりも、他の人に対して格好悪いというプライドが働いてしまい、せっかくの叱責が効を奏さないだろうと私も思っていた。実はある方がよく他人の前で息子さんをひどく叱責していたが、その息子さんは父親を恨むようになってしまった、という話を私は知っている。父親としては愛情と思ってしたことだろうが、いつも多くの他人の前で、大声で叱責を受けた息子の心に育ったのは父親に対しての怨念であった、という残念な話である。私は息子さんに大いに同情するのだが、皆さんはどうだろうか。

私は子どもの頃、近くのおばさんに、食事をするとき肘を突いて食べてすごく叱られたことがある。そのときしっかりとそのことを学び、骨の髄までその教えが入り込んで、今でも感謝している。思えばそのとき他の人は誰もいなかった。本当に叱ってあげたいことがあれば、ストレートにそのことだけが本人に入り込むように、他の人の面前では叱らない方がよいのではなかろうか。

家族でも、会社でも、社会でも他人の前で恥をかかさない、ということになるだろうか。別の意見の方もいらっしゃるだろうが、私の意見は経験をとうしてそう思うのである。さてそこで『礼記』の裏付けを見つけたいと思って、明治書院から出ている『礼記』上中下の三冊を繙いた。一通り目を通したが見つからず、二度目にようやく目に入った語

尊客之前、不叱狗。
尊客の前には、狗を叱せず。
尊客の前では、犬にも叱声をあびせてはいけない。


『礼記』「曲礼きょくらい上」にある。おそらくこのところを解説書ではあげていたのであろう。この場合も『対大己法』のように目上の人、もしくは敬う人の前、となっている。礼儀を重んじた時代は特に君子、尊客、先生等に対しは細かい作法がこまごまと決められていたようである。どうもこの一文は犬の尊厳の為ではなく、尊客の前で叱声を揚げることを戒めている文のようである。

この時代は君子、尊客、先生を第一として礼儀が決められているのであるが、現代においては教育をする子弟の尊厳に目を向けるように考えることが肝要であろう。真に子どものことを心配するならば、弟の前で兄を叱らず、兄の前で弟を叱らず、兄の前で妹を叱らず、親もそれぞれの子どもの尊厳と教育を考えて、その子一人を目の前にして、叱るという心構えを持つことが大事ではなかろうか。真に教育の大変なことに頭の下がることだが、悲劇をなんとか回避できないかと願う昨今である。

*『礼記』:五経の一つ。周末から秦・漢時代の儒者の古礼に関して集めた書。孔子の行った礼儀も多く集められている。目上の人に対しての礼儀作法から、服装から、葬儀のときの儀礼など細かく記されている。戴聖(前漢の学者)が編集した「小戴礼」49編を今では『礼記』と言っているが、はじめは85編あった。

自殺しないでー岡本太郎の言葉

2007-01-13 23:21:30 | Weblog
1月13日(土)晴れ【自殺しないで-岡本太郎の言葉】

芸術はいつでもゆきづまっている。
ゆきづまっているからこそ、ひらける。


これは岡本太郎氏の『壁を破る言葉』(イースト・プレス、2005年4月発行)の中にある言葉だ。この本ははじめの一頁から読み進めなくてもよい。どこでもぱっと開いたところをときどき読む。次のような言葉もある。

絶望のなかに生きることこそが、おもしろい。
そう思って生きる以外にない、それがほんとうの生きがいなんだ。


今朝、ラジオを聞いていたら、荻窪駅で人身事故のため電車が遅れていると言っていた。人身事故、また自殺であろうか。車の運転をしながら思わず合掌をしてしまう。惜しかった、生きられなかったのかしら。いったいどんな人が、どんな理由で、飛び込んだのであろうか。自殺しなくても、何とかならなかったのだろうか。

ラジオでは、永六輔さんが今日は呼吸についていろいろと教えてくれていた。お相撲でもボクシングでも息を吸うときに隙ができるようで、そこを狙って打ち込んだり、技をかけられるのだという。野球でもピッチャーの呼吸のことや、イチローがサムライ打法のような仕草をするのも呼吸を整える意味があるようだ。なにより興味深いことは、知ってはいることではあるが、人間はオギャーと吐く息で生まれて、ウッと息を引き取って死んでいく、ということである。

私は考えた。電車に飛び込むとき、息はどうなのだろうか。死ぬときなので吸っているのだろうか。家に帰って自分で実験をしてみた。吸う息では飛び込めない。吐く息でなければ飛び込めなかった。何故そんなことを験したかったかというと、吐く息が残っているうちは生きていけるのだ、ということを験したかったのだ。息を引き取るときは吐く力がもはや肉体に残っていない時なのだから。

十分に吐く息があって、電車に飛び込めるほどの気迫があったら、吐く気があったら、まだ本当は生きていけるのだ。飛び込む瞬間に「しまった」と思う人もいるのではなかろうか。自殺したのでは死にきれないのではなかろうか。死んだら死にきる、生まれたら生ききる。これだけではあるが、死にきれない状態はさらなる苦しみなのではなかろうか。死んだら楽になると思って自殺するのだろうが、楽にはならないだろう。

それよりもなんとか生きて、あがいて、もがいて、ゆきづまって、絶望しても、生き続けてほしい。ゆきづまっているからこそ、開けるのだし、絶望のなかに生きることこそ面白い、そんな見方もあるということを、岡本太郎さんの言葉の中に見つけたので、紹介してみました。証明することはできないけれど、自殺しても楽にはならないだろうと、坊さんの勘でそう思うからです。

まして多くの人に迷惑をかけるような死に方はさらに感心した選択ではないでしょう。飛び込まれるときの運転手さんは本当にお気の毒です。
最後にもう一つ岡本太郎さんの言葉を紹介させて下さい。

自分の限界なんてわからないよ。
どんなに小さくても、未熟でも、
全宇宙をしょって生きているんだ。


中山書房社長さん逝く

2007-01-13 19:12:22 | Weblog
1月13日(土)晴れ【中山書房社長さん逝く】

中山書房仏書林の社長さん、中山晴夫氏(本名春治)は「おやじさん」と親しく呼びたいような方でした。おやじさんには大学院時代も、また本師の追悼集を出版するときもお世話になりました。何時お店にお伺いしても、にこにこと接してくださり、いろいろと仏教関係の書についてお教えいただいたりしました。

護国寺の祭壇には、本当に優しい笑みを浮かべた在りし日のお写真が、沢山の花に囲まれて飾られていました。昨日はお通夜、本日は告別式が護国寺の桂昌殿でとり行われたのです。仏教関係の書を多く出版されていたことにもよるでしょうが、昨日も今日もお坊さんの姿が多く見られました。浄土真宗や曹洞宗や各宗派の僧侶の方々がお別れに見えていて、中山さんの生前のお働きを観るような思いがしました。

昨年の暮れに、おやじさんにお会いしたいと思い、これから行きます、とお電話を入れたら、入院なさっているとお聞きしたのですが、それから間もなくの二十六日にお亡くなりになられたそうです。駒澤の卒業生の中にも、論文を書くときに中山さんのお世話になった方も多いのではないでしょうか。他の大学でも同じかもしれません。

湯島のお店にお訪ねしても、もうおやじさんの笑顔には会えないのですね。二十五年前、尼僧堂でお会いしたのがはじめてでしたが、それから太田久紀先生の送別会でお会いしたり、いつもにこにことエネルギー一杯のおやじさんでした。十六歳の歳から東大赤門前の山喜房佛書林でお勤めを始められ、三十五歳で独立なさったそうです。十六歳からじつに七十三年間、仏教書と関わり良書の出版に尽力なされてきたご一生です。

だれにでも分かる言葉で仏教を広めたい、というのが中山さんの願いでした。手を合わせる家庭こそが基本であるとの願いから『仏教の生活』を出版し続けられた五十年余、中山さんのような方がいてくださってこそ、仏教が地道に伝えられていくのだと思います。このお仕事はお二人の娘さんが継がれていかれるそうです。

祭壇のにこやかなお写真を見上げると、「よろしくね」と皆さんに中山さんが語りかけていらっしゃるような感じがしました。告別式では愛知専門尼僧堂の青山俊董先生の追悼の和歌がご披露されました。皆さんから惜しまれて人生を閉じられた中山書房仏書林社長、中山晴夫氏でした。本当にお世話になりました。寂しいです。

人身事故

2007-01-09 23:13:19 | Weblog
1月9日(火)晴れ【人身事故】

当『風月庵だより』を書き始めてより一年以上がたちました。一年続けばよいとの予定で始めましたが、お読みくださる皆様のお陰でもう少し続けられそうです。しかしどうしても夜遅くなってしまうので、今年からは週末だけの管理人になる予定でした。本日はログを書かない予定でしたが、どうしても書きたいことがありました。

勤めから帰りの電車で、また人身事故の影響による大幅な遅れと大変な混雑にぶつかってしまったのです。これほどの混みようならたとえ具合が悪くなって気を失っても倒れることはないだろうと思うほどでした。

この二年間電車通勤をするようになって、年中人身事故による電車の遅れや混雑にぶつかります。人身事故のほとんどは自殺と思われます。自殺自体もなんとかやめられないかと願いますが、電車への飛び込み自殺のような死に方もやめた方がよいと思います。

一昨日観た『長い散歩』について、あれはファンタジーだと今朝思いました。幼児の虐待も、自分の生き方を貫いた後の老年の贖罪も、若者の自殺も、シリアスに突き詰めればいくらでもシリアスになる問題をファンタジーにしている、と思いました。しかしそれでよいのではなかろうかと、次に思いました。

奥田が演じる刑事の言葉に、「みんな生きることに行き詰まっている」というような言葉がありました。行き詰まって、自らを追いつめて、その果てに自殺してしまう、そこまで追い込まないで、もう少し一歩下がって全てをファンタジーのようにとらえてしまったらどうだろう。(児童虐待の問題については、そのようには言えない別の問題であろう)

  「都会では自殺する/若者が増えている
   今朝来た新聞の/片隅に書いていた
   だけども問題は今日の雨
   傘がない
   行かなくちゃ
   君に会いに行かなくちゃ」
 
と井上陽水が歌ったのはだいぶ以前のことだった。あれからずっと自殺する人が増え続けているのだろう。(1972年の作品だそうだ)

自殺して、それも電車でバラバラになって自らの人生を終わりにしてしまうなんて、あまりに悲しすぎやしないだろうか。この私にしても仏教に出会わなければ、果たして今のように生きてはいられなかったかもしれない。仏教を学び、坐禅生活を送り、本師に出会えて、ようやく安心した生き方ができるようになったのであって、そうでなければ私もある日の人身事故を起こした一人であったかもしれない。

今の日本なんとか食べていくことはできるのではなかろうか。それだけで生きるのに充分なのだから、後はあんまり思い詰めないで、自分を追いつめないで、深呼吸をして、「傘がない」でも歌って、もう少し生きてみよう。生き続けてみたら、自殺するほどの事はなかった、とそれぞれ思えるときが必ず来るのだから。せっかく貰ったこの命、自由になにをしてもよいのだから。

どうぞ、電車の人身事故が減りますように。

長い散歩

2007-01-07 23:55:53 | Weblog
1月7日(日)晴れ【長い散歩】

明日は友人たちが遊びに来てくれるので、朝から料理の仕込みで大忙し。大きな鍋一杯の煮物やら、芋汁やら大根の煮物を仕込んだ。明日はこれに天ぷらを揚げればよいので思いきって映画を観に夕方から出かけた。

プレイガイドでなんとなくタイトルに引かれて購入してしまったのが『長い散歩』だった。買った後でインターネットで調べたら、奥田瑛二監督による作品とわかった。奥田については『千利休 本覺坊遺文』の本覺坊の役や、『深い河』でガンジス河のガート(沐浴場)で死体を運んでいる男の役を演じた役者としては知っていたが、監督をしていたことは知らなかった。映画好きとはいえ、この頃は一年に一本観るかどうかなので、そのへんの事情は全く疎くなっている。

さらにこの映画の上映時間が136分と出ていたので、止めようかと思ったり、やはりプレイガイドで切符を買うものじゃないと反省したりしていていた。しかし今日をはずすともうチャンスはないし、行こうと決めて渋谷のQ-AXシネマに急いだ。

行って良かったです。前置きが長くて恐縮でしたが、この映画は推薦します。是非チャンスを作ってご覧下さい。やはり映画は素晴らしいし、この映画は素晴らしい。

校長の職を定年退職した安田松太郎、妻はアルコール依存症で死んでもういない、娘はあまりに厳格な父に反抗して家を飛び出している。そんな松太郎の手にはかつて仲の良い家族であったときの写真が一枚残されている。その写真の裏には「おーい君 おーい天使、おーい青い空 松太郎」と書かれてあった。

松太郎が一人移り住んだアパートの隣には、母親に虐待されている5歳の少女、幸がいた。幸はまだ幼稚園に通わせてもらえていた頃、お遊戯で使ったダンボール製の天使の羽根をいつも背中に背負っている。虐待され続けた少女は頑なに心を閉ざしてしまっていた。

ある日母親の情夫にからかわれていた幸を助けた松太郎は、幸を連れて旅にでることを決心する。目指す場所はかつて家族と共に行ったあの写真の場所である。松太郎と幸の旅は始まる。だんだんに心を開いていく幸、幸に癒されていく松太郎。人との交流は年齢も越え、関わりも越え、お互いがお互いを必要としていた。人間としての優しさや信頼を取り戻すための松太郎と幸の旅であった。

山間の地で同じく旅の青年ワタルと出会う。彼も幸の顔に笑顔を呼び起こしてくれた。楽しい3人の旅。しかしそれは長くは続かなかったのである。心に深い悲しみを抱いていた青年の旅は死出の旅だったのだ。ある朝、彼は自ら命を絶つ。そして松太郎には幼女誘拐の捜査の手が伸びてくる。

郡上八幡や美しい中津川の風景がこの旅を見守ってくれている。松太郎は緒形拳、幸は新人杉浦花菜、そしてワタルの役は透明感のある青年松田翔太、故松田優作さんの子息。エンディング・テーマは陽水の「傘がない」、但し歌手は違う声であった。この映画にぴったりの声であった。映画が終わってもしばらく誰も席を立たなかった。「行かなくちゃ、君に会いに行かなくちゃ」エンディングの声が耳に余韻を残していた。

幼児の虐待や、自殺者の多いこの頃、全ての人に観てもらいたい映画だと思った(いや、ワタルの死が美しすぎて自殺願望の人には危険かもしれない)。競争社会を駆け抜けてきた私と同じ世代の人たちも定年を迎えるが、家族の絆をあらためて縛り直すためにも一見の価値があるだろう。生きるとは、と問うとき、そこに感動させられる優れた映画に出会えることは幸せなことだ。

*映画の中で奥田が演じる刑事が「みんな生きることに行きづまっているんだな」というような台詞を言っていた。それを何とかしなくては自殺も幼児虐待も減らないだろう。

*今日は好きな料理を楽しんで、好きな映画を観ることができて、楽しいお正月休みでした。一年続けばよいだろうと思っていたブログですが、もう少し書き続けさせていただきます。今年は週末管理人にだけなる予定ですので宜しくお願いいたします。