風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

寒くなりました

2009-10-27 23:12:22 | Weblog
10月27日(火)晴れ【寒くなりました】(ルナも寒いのか、お布団のところにいました)

このところ急に寒くなりました。あやうく風邪を引きそうになりましたが、今日から曹洞宗総合研究センターの学術大会なので、なんとか引き込まないように、いろいろと昨日治療をしました。なんといっても寝るのが一番、と母に言われまして早々に寝ることにしましたら、お陰様で大丈夫なようです。

明日は私も研究発表をします。ご来場は自由ですので、お時間のある方は是非お越しください。(もっと早くにご案内すればよかったです。失礼しました)場所は芝公園にあるグランドホテル3階です。9時40分から始まります。

それでは、皆さん、風邪など引かないようにお気を付けください。

鎌倉権五郎景正

2009-10-19 18:13:55 | Weblog
10月18日(月)晴れ【鎌倉権五郎景正】

来週は、研究所の学術大会があり、目下論文作成に頑張っています。今年は道元禅師のお弟子さんであった、了然尼という方について発表しますが、その研究の途中で、鎌倉権五郎景正という武士についても調べなくてはなりませんでした。

そのような方が果たして歴史に残っているか分かりませんでした。おそらく歴史に詳しい方ならば、すぐに思いつく武士だったかもしれません。

塙保己一さんがまとめた『群書類従』巻20の中に『奥州後三年記』という書物が入っていまして、その中に鎌倉権五郎景正なる人物を探し出すことができました。ちょっと嬉しかったので、紹介します。

鎌倉権五郎景正は後三年の役(1083~1087)において、源義家方の武士として活躍しました。わずか16歳で、戦の先陣に立って戦い、右の目を征矢に射られてしまいます。それを抜こうとした味方の三浦平太郎為次という者が顔を踏まえて矢を抜こうとしましたら、「弓箭にて死するはつはものののぞむところなり」しかし「足にてつらをふまるる事あらん」といって怒って為次に刀を向けようとします。それで為次は舌をまいて言う事なし、と、膝をかがめ顔を押さえて矢を抜いたのだそうです。

鎌倉権五郎景正はこのような武士です。

この方と、了然尼の関わりにつきましては、これから論文発表ですので控えますが、思いがけず、このような武士のことを知りましたのでご紹介しました。

少し傷ついたルナです

2009-10-16 21:57:58 | Weblog
10月16日(金)秋晴れ【少し傷ついたルナです】

先月ルナは顔に傷を付けてしまいました。全く私の責任です。ルナが猫一倍繊細(臆病)であることの自覚が私に十分でなかったと反省しています。キヨちゃんの家に連れて行きまして、そこでパニックを起こすことがありまして、庭中を逃げ回ったので、必死の思いで捕まえました。


(写真では目の上から傷がついているように見えますが、お陰様で目の下です)

お陰様で瘡蓋も数日ではがれまして、今は傷のあとに毛も生えてきましたので、安心して写真を載せます。



(だいぶ傷が見えなくなりました。ベランダで安心してひなたぼっこをしています)

昨日の夜中は、あちこちとルナが動き回ったり、走り回ったり、何回も手で私を起こそうとして大変でした。もしかしたら、ジェリーが訪ねて来ていたのかもしれないと朝になってから思いました。私は眠くてそれどころではありませんでしたが、動物同士は感覚が澄んでいるのかもしれませんね。

ルナが拾われたとき、ジェリーとは同じところに何日かいましたから。

老犬ジェリーはよく生きました

2009-10-15 12:26:02 | Weblog
10月15日(木)秋晴れ【老犬ジェリーはよく生きました】(まだ元気な頃のジェリー)

通勤の前に、いつもパーマ屋さんに寄ります。ジェリーに声をかけてからバスに乗ります。毎朝、飼い主の家からパーマ屋さんが世話をするために連れてくるのです。今朝寄りましたら、ジェリーを連れに行っているようです。いつもですとそのままバスに乗ってしまうのですが、なんとなくジェリーの家に戻りました。本当になんとなく。

ジェリーは眠っているようでした、まるで。
「おつかれさま、ジェリー」
フィラリアで一歩も歩けなくなってから、一年と半年、パーマ屋さんによく面倒を見て貰い、みんなに可愛がられて、大往生でしょう。飼い主の人たちは安楽死させたほうがよいのではと思ったりもしたようですが、やはり息を引き取る最期まで看取ることができてよかった、と言っていました。

ジェリーは元気な頃は、私が仕事から帰りに寄ると元気な声で吠えてくれました。それは丁度「オカエリ!!」と言っているようでした。そのうちに倒れてからは、声もでなくなり、寝たきりでしたが、いつも近所のみんなのアイドルでした。パーマ屋さんがボランティアで、本当に飼い主でもそこまではできないほど面倒を見てくれましたので、ジェリーは下の汚れで汚いということもなく、一年半もの間、身ぎれいにして過ごすこともできました。この頃は床ずれのような傷もありましたが、それも枇杷の葉の煎じ汁を薄めた液を作って、湿布をして貰っていて、ひどくならなくてすんでいました。

二人のパーマ屋さんと飼い主の御陰で、ジェリーは命を全うすることができました。いつもならば、私も、朝パーマ屋さんがしまっていても、ジェリーを迎えに行っているようだ、とそのままバスに乗ってしまうのですが、今朝はなんとなくジェリーの家にまでわざわざ行ったのです。ジェリーが呼んだに違いありません。やはり動物にも人間に発するなにか、テレパシーのような、根元的に触れあうエネルギーがあると実感しました。長い間外出していたジェリーの飼い主のお父さんも昨日帰ってきたそうです。いつもは別の日にくる人で、ジェリーを可愛がってくれる人も、昨日来たそうです。みんなにお別れをしてジェリーは逝きました。

フィラリアの痛みにも耐え、歩けなくても辛抱して、ジェリーは本当によく生きました。


横濱ジャズプロムナード2009 酒井俊andオーケストラ

2009-10-10 21:54:23 | Weblog
10月10日(土)晴れ【横濱ジャズプロムナード2009 酒井俊andオーケストラ】

感動しました。ジャズが静かに染み通っってくるものとは知りませんでした。どんなに激しく大きな音になっても、じんじんと染み入ってくるといったらよいでしょうか。魂に響くような音楽を味わって至福の時を過ごしてきました。

今日は酒井俊さんという方のジャズを聴きに、横浜関内ホールに行ってきたのです。私は音楽とは無縁に日々を暮らしています。CDプレーヤーも壊れたままですから、BGに音楽は全くなく暮らしています。ましてジャズを聴こうなどと思いも寄らない生活をしているのです。その野暮な私が横浜まで、ジャズを聴きに行ったのにはわけがあります。

ボーカルの酒井俊さんが作詞した「かくれんぼの空」(ビクトル・ハラ作曲、原題「平和に生きる権利」)の歌詞を、私が『中外日報』に毎月連載している「尼僧つれづれの記」に使わせていただいたので御礼に伺ったという次第なのです。

御陰でジャズ・コンサートを、初めてお聴きするという機会を得たのです。これも高校時代の友人が、板橋文夫というピアニストの方のマネージャーをしていまして、その人の御陰で、新聞への掲載も許可を頂けたのですし、今日もジャスを聴くことができたのです。

ジャズは音が賑やかでうるさいのではと思っていましたのに、感動して涙が溢れるほどでした。「かくれんぼの空」も聴くことができました。CDで聴いたのと実際に聴くのではやはり違いますね。「Amazing Grace」(友人にタイトルを教えて貰いました)、「ヨイトマケの歌」(これは知っていました。これが素晴らしかったです)、そして私が昔好きだった「黒の舟歌」(このようにこの歌を歌えるものなのかとこれも感動いたしました)etc.
俊さんの声は、人間の奏でる比類無き楽器といえましょう。言葉ではうまく説明不可能です。

楽器の方々は、アルト・サックス:林栄一
トランペット:松島啓之
       テューバ:関島岳郎
       ヴァイオリン :太田恵資
       ギター・バンジョー:桜井芳樹
       ピアノ:田中信正
       ドラムス:吉垣安洋

明日も一日このジャズプロムナードは横浜で開催されています。一枚の券であちこちの会場の会場を回ることができます。ジャズファンの方は勿論ご存じでしょうが。
開港記念会館、関内ホール(17:40から板橋文夫さん)、ランドマークホール、赤レンガ倉庫ホール、みなとみらいホール、ランドマークプラザ、他にて。詳しくはhttp://keitai.g-search.or.jp/yjp

懐弉禅師の決意 母との別れ

2009-10-06 12:48:11 | Weblog
10月6日(火)雨 【懐弉禅師の決意 母との別れ】

昨日は達磨忌でした。達磨忌を機会に、いよいよ衣替えですが、まだ陽気が衣替えするほどではないですね。

さて、先日、水野弥穂子先生の『『正法眼蔵随聞記』の世界』(大蔵出版)を読んでいて、感銘を受けたことがあります。それは「懐弉禅師の決意」ともいえるものです。懐弉禅師は早くに父親を亡くされ、母の手一つで育てられご苦労されたようですが、その母の最期を看取ることは叶わなかったであろうということです。

懐弉禅師が道元禅師の門に入られたのは、文暦元年(1234)のことです。翌年「仏祖正伝菩薩戒法」を受けまして、正式に道元禅師の弟子となります。そして嘉禎二年(1236)12月29日には首座に任じられて、深草の興聖寺で秉払を行わせられました。

懐弉禅師のお母さんは、「お前を出家させたのは、公家たちと交わらせるためではない。名利の学問を捨てて、生涯黒衣の出家者として一生をおくりなさい」というようなことを、懐弉禅師に言い聞かせていらっしゃったそうです。一八歳で出家してから、懐弉禅師はお母さんの言葉を守り、正師を求めていて、ついに道元禅師という正師に巡り会えたのです。しかも一山の首座として道元禅師に認められ、生涯信頼されたように、信頼を受けたのです。

『随聞記』六の13段に「先師全和尚入宋せんとせし時」があります。ここには明全禅師が師の明融阿闍梨が余命幾ばくもない命となり、入宋しようとしている明全に自分の最期を看取って欲しいといわれるのですが、そうしたい心情を乗り越えて、道元禅師とともに宋に渡る決意が述べられています。

一人有漏の迷情にこそたがふ、多人得道の縁となるべし」と師の最期の願いを叶えるよりは、自分が仏道において得道すれば、それは多くの人を助ける縁となるのだ、死ぬべき人ならば自分がいてもいなくても同じ事である、というようなことを言われています。このことを道元禅師が、弟子の懐弉禅師に話されたのは、嘉禎の終わり頃とされます。なぜ、この時期にこの話をなさっているか、このことを水野先生は、懐弉禅師のお母さんがこの頃、危篤の状態にあって、それを看取りたい懐弉禅師に対して、話されたのでは無かろうか、と推測しています。

当時、興聖寺では一月に二度、一回三日間の制限で外出が許されていましたが、懐弉禅師は既にその二回を使ってしまっていて、いざ危篤のときにその制限を越えてしまっていたのでしょう。首座として一山の規矩を守る筆頭にたつべき懐弉禅師には、この外出のきまりを破ることはできなかったし、道元禅師も一山の首座として「懐弉は行くまい」と、行かせてあげて欲しいと願い出る他の弟子たちに答えた、と水野先生は書かれています。

道元禅師は「老病をたすけんとて水菽(すいしゅく)の孝(貧しい暮らしの中で親に孝行すること)を至すは、今生暫時の盲愛迷情の悦びばかりなり。背きて無為の道を学せんは、たとひ遺恨はありとも出世の縁となるべし。是を思へ、是を思へ」と述べられています。この段に、『随聞記』中、懐弉禅師はご自分のお母さんのことは一切書いてはありませんが、水野先生はおそらくこの時期に懐弉禅師のお母さんはお亡くなりになったのだろうと書いています。

嘉禎四年(1238)に『随聞記』の記述が終わっていることと、歴仁二年(1239)の「重雲堂式」には「切要(特に必要な場合)は一月に一度」の外出が許されているだけですので、規則が変わっていますので、お母さんのお亡くなりになったのは、嘉禎年間であろうと推測されています。

懐弉禅師はこのことによって、一山の首座として、また仏道を学するということは、どのようなことなのか、その厳しさに耐え、決意をあらたになさったのでしょう。

『『正法眼蔵随聞記』の世界』を学んでいて、出家者として、仏道を学するとは本来はこうであると、あらためて思いました。私事ではありますが、母とのんびりと暮らしている私は、全く半僧半俗であると思います。ただ懐弉禅師のこの決意があってこそ、今に伝わった教えに感謝するだけです。




私も猫になりたい

2009-10-01 10:11:31 | Weblog
10月1日(木)曇り【私も猫になりたい】

秋も段々深まり、と言いたいですが、結構暑いですね。今月はいよいよ学術大会の発表がありまして、それに向けての論文作成に頑張っています。皆さん、どうぞお元気で。当分ログは書けないと思いますが、お許しを。コメントの返事はさせていただきます。

上の写真は、ビニールの袋、一枚あれば楽しく遊んでいるルナです。でもいつも,
所かまわずあちこちで寝ているルナです。私も猫になりたい。