8月28日(月)曇り【冤罪:梅田事件】
昨日で梅田義光さん(82)の無罪判決が下りてから20年になるのだという。梅田さんにとっては、ようやく冤罪の晴れた日である。
昭和25年10月10日、北海道北見市営林局会計課員のO氏(当時20歳)が公金を持って失踪、別件で逮捕された男の自白からO氏の遺体が発見された。その男の供述により、梅田さんは共犯者とされてしまったのである。その男とは軍隊時代顔見知りであったに過ぎない間柄であったという。昭和27年(1952)7月に逮捕されたとき、梅田さんはまだ28歳、結婚間もない奥さんは妊娠していた。まもなく子どもが生まれるという幸せな時であった。しかしその子は産まれることなく流産、奥さんとも結局離婚となってしまった。梅田さんは身に覚えのない事件によって、平凡な幸せな生活を失ってしまったのである。
拷問にちかい取り調べによる自供と、男の証言だけで、昭和29年(1954)7月に無期懲役の判決が下された。戦争が終わってまだ間もない頃の日本の警察は、自供を吐かせるのに酷い拷問を使い、十分な検証もしない自白偏重の時代であった。多くの冤罪事件が昭和二十年代には起きている。免田事件、徳島ラジオ商殺し事件、白鳥事件等。
昭和57年(1982)釧路地裁は梅田さんの二度にわたる再審請求を受けて、ついに再審を開始した。この事件を担当した渡部保夫元裁判長は梅田さんを伴って現場検証まで行ってくれたようだ。そしてようやく梅田さんが無罪の判決を勝ちとったのが、昭和61年(1986)8月27日なのである。すでに34年の歳月が流れてしまっていた。
逮捕されたとき28歳の青年であった梅田さんは、62歳になってしまっていた。ご両親も梅田さんの無罪を知ることもなく他界してしまっていた。たとえ無罪になったとはいえ、失ってしまった日々を取り戻すことはできない。それから20年、廃品回収のお仕事などをされ、再婚もされたようだが離婚をしたり等、いろいろとご苦労なさったという。自由を取り戻しても、28歳の日々に戻り、やり直すことはできない。
「この悔しさはいつまでもなくなることはありません」と梅田さんは述懐する。
取り戻すことのできない34年間、冤罪に苦しんだ日々。
そのくやしさ、その苦しみ、無念きわまりない思い、察するにあまりある。
それでも、きちんと調べ直してくれ、無罪の判決を下してくれた渡部保夫元裁判長には感謝の手紙を出し続けているそうである。
渡部氏は大学で教鞭を取ったとき、学生達に判決を下すには慎重にせねばならないことを、この冤罪事件を取り上げて話されたそうである。「働き者の梅田さんですから、冤罪を受けなければ、農家の良い働き手となっていたことでしょう」というようなことを渡部氏は更に語っていた。2,3日前のテレビ番組で梅田さんの裁判長への手紙に関して放映されたので、梅田事件について書かせて頂いた。冤罪ほど苦しいものはあるまいと、私は同情の涙が溢れるのを禁じ得ない。私は特に冤罪については過敏に反応してしまうのである。(尼僧堂に安居していた時代に、泥棒事件が数件あり、私を追い出したいという人がいたようで、濡れ衣を着るように演出されてしまったのである。)
網走刑務所で作られるニポポという木の人形をご存じの方もいるだろうが、ニポポのどことなく悲しい表情は服役者のいろんな思いが刻まれているのだろうと、ニポポを手にしたときのあの表情を改めて思い出した。
「悔しい」と述懐した梅田さんの車椅子の後ろに「北見老人ホーム」と書かれていた。今梅田さんはそこに苦難の人生だった身をあずけていらっしゃるのだろう。
これからの梅田さんの日々が、どうか安らぎの日々でありますように。
しかし何時あなたも、身に覚えの無い事件の犯人に仕立て上げられるような目に遭うかもしれない。梅田さんの事件を対岸の火事としないで、一人の善良な人間のあまりの不運な人生に、僭越ながら申し上げますが、同情の風を送ってあげていただければ、幸甚です。
8月27日(日)曇り凌ぎ易し【真の功徳】
昨日、一昨日と功徳について考えてみた。それは主に布施(他に与えること、金品だけではなく親切な行いも含む)の功徳について限定された功徳についてである。実は道元禅師の『正法眼藏』という書物のなかには200箇所以上も功徳という語が使われている。それは出家の功徳であり、袈裟功徳であり、坐禅の功徳、念誦の功徳、聞法の功徳、また布施の功徳等等である。
そして功徳を行じるのはむしろ出家修行者について説かれていると言えよう。在家の方も我が事として受けとめてもよいことではあるが、出家者こそ道元禅師の説かれるこれらの功徳の教えを理会し、おのずと行じていくべきことなのである。
浄化作用の必要なのは出家者自身であろう。そして念誦にしても、坐禅にしても、礼拜にしても、聞法にしても、布施にしても、修行者自身を浄化する作用があると私は受け取る。私事で恐縮であるが、自身を省みれば、悪心もあり、反省すべきことも多く、欲も多く、常に常に浄化作用を必要としている。仏教についてプロなのであるから、当然よく知識としても学ばねばならない。しかし単に知識で終わらせてはならないのはいうまでもないし、いくら学んでも氷山の一角しか今生では学べないのである。学としての学びに終始して、浄化作用を怠ると何のための出家か、ということになってしまうのである。
日々の行時(修行を常にやめないこと)が功徳を行じることになり、それを浄化作用と私は呼びたい。
さて一昨日のブログで達磨大師の「無功徳」の話を引用したが、その折りは簡単な訳のみ記した箇所について再考してみたい。
帝曰。如何是真功。答曰。淨智妙圓體自空寂。如是功不以世求。
〈訓読〉
帝曰く、「如何なるか是れ真の功。」答えて曰く、「淨智妙圓の體、自ら空寂。是の如き功は世に以て求めず」と。(淨智は妙圓にして、體、自ら空寂。の読み方の方が4字3字で切る読み方としてよいのだが、あえてこのように読んでおく。)
〈訳〉
武帝は尋ねた、「では真の功徳とはなんでしょうか。」師は答えた、「汚れのない智慧をそなえた完全な本質は空寂そのものである。これこそが功徳であり、他に何があろうか」と。
この體(体)とは宇宙の根元というような語で置き換えられようか。それが浄智妙円つまり汚れ無き智慧、染汚(センナ)無き完全、円(マド)かそのもの、いろいろと他の語に置き換えるのは困難だが、この世界の根元そのものは空寂(この訳語を単に実体が無いとするだけでは不適当な訳語であるが)であり、それが功徳なのである、と達磨大師は言われている、といってよいだろうか。私の理解がまだ浅いので、残念ながら現段階ではこのような説明でお許し頂きたいが、達磨さんがおっしゃりたいことは、〈この世がこのようにあること自体が功徳そのもの〉ということなのではなかろうか。
道元禅師は『正法眼藏』「菩提薩埵四摂法」の中で「法におきても物におきても、面々に布施に相応する功徳を本具せり」と書かれている。「教法にしても物でも、すべて、与えるという(いいかえれば貪らないという)功徳をすでに本質的に具えているのだ。」と言われている。この訳も十分でなく恐縮であるが、さらに言えば〈一切は布施という功徳そのものを具えている〉言い換えれば〈一切は我が物に非ず〉ともいえようか。
功徳を一概に論じること自体なかなか難しいと思うし、いろんな角度からの解釈を試みることは大事なことだが、仏教の教えの根本から解釈していくと私にはなかなか難しい。しかし達磨さんの言葉や道元禅師の言葉から噛みしめつつ学んでいきたいと願っている。
三日にわたって、拙い見方で申し訳無いのだが、功徳について考えさせて頂いた。今この身がこのようにあることに感謝しつつ、怠け者であることを反省しつつ、功徳を行じていきたいと願います。修行の功徳は浄化作用に他ならない、と受けとめています。
しかしお互いに難しく考えすぎず、社会に対してできることは何かしら徳積みをしつつ生きて参りましょう。
昨日、一昨日と功徳について考えてみた。それは主に布施(他に与えること、金品だけではなく親切な行いも含む)の功徳について限定された功徳についてである。実は道元禅師の『正法眼藏』という書物のなかには200箇所以上も功徳という語が使われている。それは出家の功徳であり、袈裟功徳であり、坐禅の功徳、念誦の功徳、聞法の功徳、また布施の功徳等等である。
そして功徳を行じるのはむしろ出家修行者について説かれていると言えよう。在家の方も我が事として受けとめてもよいことではあるが、出家者こそ道元禅師の説かれるこれらの功徳の教えを理会し、おのずと行じていくべきことなのである。
浄化作用の必要なのは出家者自身であろう。そして念誦にしても、坐禅にしても、礼拜にしても、聞法にしても、布施にしても、修行者自身を浄化する作用があると私は受け取る。私事で恐縮であるが、自身を省みれば、悪心もあり、反省すべきことも多く、欲も多く、常に常に浄化作用を必要としている。仏教についてプロなのであるから、当然よく知識としても学ばねばならない。しかし単に知識で終わらせてはならないのはいうまでもないし、いくら学んでも氷山の一角しか今生では学べないのである。学としての学びに終始して、浄化作用を怠ると何のための出家か、ということになってしまうのである。
日々の行時(修行を常にやめないこと)が功徳を行じることになり、それを浄化作用と私は呼びたい。
さて一昨日のブログで達磨大師の「無功徳」の話を引用したが、その折りは簡単な訳のみ記した箇所について再考してみたい。
帝曰。如何是真功。答曰。淨智妙圓體自空寂。如是功不以世求。
〈訓読〉
帝曰く、「如何なるか是れ真の功。」答えて曰く、「淨智妙圓の體、自ら空寂。是の如き功は世に以て求めず」と。(淨智は妙圓にして、體、自ら空寂。の読み方の方が4字3字で切る読み方としてよいのだが、あえてこのように読んでおく。)
〈訳〉
武帝は尋ねた、「では真の功徳とはなんでしょうか。」師は答えた、「汚れのない智慧をそなえた完全な本質は空寂そのものである。これこそが功徳であり、他に何があろうか」と。
この體(体)とは宇宙の根元というような語で置き換えられようか。それが浄智妙円つまり汚れ無き智慧、染汚(センナ)無き完全、円(マド)かそのもの、いろいろと他の語に置き換えるのは困難だが、この世界の根元そのものは空寂(この訳語を単に実体が無いとするだけでは不適当な訳語であるが)であり、それが功徳なのである、と達磨大師は言われている、といってよいだろうか。私の理解がまだ浅いので、残念ながら現段階ではこのような説明でお許し頂きたいが、達磨さんがおっしゃりたいことは、〈この世がこのようにあること自体が功徳そのもの〉ということなのではなかろうか。
道元禅師は『正法眼藏』「菩提薩埵四摂法」の中で「法におきても物におきても、面々に布施に相応する功徳を本具せり」と書かれている。「教法にしても物でも、すべて、与えるという(いいかえれば貪らないという)功徳をすでに本質的に具えているのだ。」と言われている。この訳も十分でなく恐縮であるが、さらに言えば〈一切は布施という功徳そのものを具えている〉言い換えれば〈一切は我が物に非ず〉ともいえようか。
功徳を一概に論じること自体なかなか難しいと思うし、いろんな角度からの解釈を試みることは大事なことだが、仏教の教えの根本から解釈していくと私にはなかなか難しい。しかし達磨さんの言葉や道元禅師の言葉から噛みしめつつ学んでいきたいと願っている。
三日にわたって、拙い見方で申し訳無いのだが、功徳について考えさせて頂いた。今この身がこのようにあることに感謝しつつ、怠け者であることを反省しつつ、功徳を行じていきたいと願います。修行の功徳は浄化作用に他ならない、と受けとめています。
しかしお互いに難しく考えすぎず、社会に対してできることは何かしら徳積みをしつつ生きて参りましょう。
8月26日(土)曇り【なぜ功徳を積むのだろうか】
功徳を積むということについて昨日は考えてみたが、なぜ功徳を積むのであろうかと考えてみたい。
例えば人のお役に立つという功徳を積んだとき、それは人の為であろうか。勿論助けて貰った人も有り難いと思うだろうが、(思わない人もいるかもしれない)その時、自身の心底(魂という表現が分かりやすいかもしれないが)が喜んでいるのではなかろうか。顕在的でないとしても。自分さえよければよい、として生きている時には心底からの喜びを感じられないだろう。
英語の表現は実に端的にそれを表している。人から"Thank you."有り難うと言われたとき、どういたしましてというのに"Pleasure is mine."直訳すれば喜びは私のものです、又は"It's my pleasure." それは私の喜びです、という表現がある。自分の喜びであるのだから、そこには人に恩を売るというようなことも、見返りを求めるということも当然無いことになる。
また「情けは人の為ならず」という言葉もあるが、これを『広辞苑』で引くと「情けを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いがくる。人に親切にしておけば、必ずよい報いがある。」と書かれている。これは随分直截な表現である。
しかし人に親切にしても必ずしもこの世的なよい報いがあるとは限らない。功徳を積めば必ず功徳がある、という言葉に反するようだが、それは解釈の違いに過ぎない。人に情けを掛けたとき、その時、自身の心底が喜ぶこと、これを功徳と呼びたい。だから人の為なのではなく、自身の為なのだ、と解釈したい。
社会やお寺や教会やらに対して、金銭的な寄付をするという功徳を積んだときはどうであろう。人間にとってお金に対しての執着は、愛憎に対する執着と同じく、又はそれ以上に強いものだろう。この執着を救って貰うには一度自分の物というように手に入れた物を手放してみることではなかろか。
自身の執着心を解き放つための徳積みとしての寄付ならば、当然この世的な見返りはいらないことになる。自身の執着心を放つという浄化がなによりの功徳になるのだから。しかし僧侶である立場から、寺への寄付を募るとき、これを言うことは抵抗がある。聞く方にもあるだろう。しかし本来はそういうことなのである。
社会に対して、また仏教でもキリスト教でも宗教者に対して徳積みをするのは、自身の解き放ちであり、浄化作用である。功徳を積んで浄化作用をさせてもらっているのである。これが最たる功徳果ではなかろうか。自身を浄化し浄化し清々と生きていければ、天に生じることもできよう。これが功徳と言えるのであろう。つまり世俗的な果報については功徳があるとは言えないのである。
しかし周りを喜ばせ、功徳を積んで生きている人を見ると、世俗的にも幸せそうに見えるのは、ご承知の通りである。
昨日ある物を探しに浅草の近くの田原町にある仏具屋通りに出かけた。ある一軒の仏具屋さんでは私の望み通りの品がなかった。「もう少し探してみます」と私が言ったら、「全部の店を探してみればいいですよ」そんなものはない、とでも言うように嫌みに言われてしまった。しかし翠雲堂というお店に行ったら、店員さんみんなで在庫も調べてくれ、私の思い通りの品が見つかった。店員さんがみな親切で気持ちよかった。これも徳積みの一つだと思った。徳積みを別な表現にすれば、誠意を尽くす、ということだろう。
功徳を積むということについて昨日は考えてみたが、なぜ功徳を積むのであろうかと考えてみたい。
例えば人のお役に立つという功徳を積んだとき、それは人の為であろうか。勿論助けて貰った人も有り難いと思うだろうが、(思わない人もいるかもしれない)その時、自身の心底(魂という表現が分かりやすいかもしれないが)が喜んでいるのではなかろうか。顕在的でないとしても。自分さえよければよい、として生きている時には心底からの喜びを感じられないだろう。
英語の表現は実に端的にそれを表している。人から"Thank you."有り難うと言われたとき、どういたしましてというのに"Pleasure is mine."直訳すれば喜びは私のものです、又は"It's my pleasure." それは私の喜びです、という表現がある。自分の喜びであるのだから、そこには人に恩を売るというようなことも、見返りを求めるということも当然無いことになる。
また「情けは人の為ならず」という言葉もあるが、これを『広辞苑』で引くと「情けを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いがくる。人に親切にしておけば、必ずよい報いがある。」と書かれている。これは随分直截な表現である。
しかし人に親切にしても必ずしもこの世的なよい報いがあるとは限らない。功徳を積めば必ず功徳がある、という言葉に反するようだが、それは解釈の違いに過ぎない。人に情けを掛けたとき、その時、自身の心底が喜ぶこと、これを功徳と呼びたい。だから人の為なのではなく、自身の為なのだ、と解釈したい。
社会やお寺や教会やらに対して、金銭的な寄付をするという功徳を積んだときはどうであろう。人間にとってお金に対しての執着は、愛憎に対する執着と同じく、又はそれ以上に強いものだろう。この執着を救って貰うには一度自分の物というように手に入れた物を手放してみることではなかろか。
自身の執着心を解き放つための徳積みとしての寄付ならば、当然この世的な見返りはいらないことになる。自身の執着心を放つという浄化がなによりの功徳になるのだから。しかし僧侶である立場から、寺への寄付を募るとき、これを言うことは抵抗がある。聞く方にもあるだろう。しかし本来はそういうことなのである。
社会に対して、また仏教でもキリスト教でも宗教者に対して徳積みをするのは、自身の解き放ちであり、浄化作用である。功徳を積んで浄化作用をさせてもらっているのである。これが最たる功徳果ではなかろうか。自身を浄化し浄化し清々と生きていければ、天に生じることもできよう。これが功徳と言えるのであろう。つまり世俗的な果報については功徳があるとは言えないのである。
しかし周りを喜ばせ、功徳を積んで生きている人を見ると、世俗的にも幸せそうに見えるのは、ご承知の通りである。
昨日ある物を探しに浅草の近くの田原町にある仏具屋通りに出かけた。ある一軒の仏具屋さんでは私の望み通りの品がなかった。「もう少し探してみます」と私が言ったら、「全部の店を探してみればいいですよ」そんなものはない、とでも言うように嫌みに言われてしまった。しかし翠雲堂というお店に行ったら、店員さんみんなで在庫も調べてくれ、私の思い通りの品が見つかった。店員さんがみな親切で気持ちよかった。これも徳積みの一つだと思った。徳積みを別な表現にすれば、誠意を尽くす、ということだろう。
8月24日(木)曇り【功徳を積むということ】
功徳を積む、ということを考えてみた。19日の記事で台湾の尼僧さんのお母さんがお亡くなりになる前に、功徳を積むために、殆どの蓄えをお寺に寄付をした、ということを紹介した。果たしてお寺に寄付をすることが本当に功徳なのかを考えてみたい。
功徳には「善を積んで得られるもの、いわゆる徳」という訳がある。他にも「善い行い」とか「善行の結果として報いられる果報」という意味などが、中村元博士の『仏教語大辞典』には書かれている。
とすると決してお寺だけに限って使われる言葉ではない。重い荷物を持っている人がいたら、手助けするのも功徳、体の弱い人を助けるのも功徳、災害の援助(金銭も労働)も功徳、困っている子供たちを応援するのも功徳、社会には限りなく功徳を積めることが溢れている。
その結果なにか果報が得られるかというと、はっきりと果報がある、というべきであろう。なによりも豊かな心が得られるのである。果報を求めるべきではない、ということの方を強調する傾向は理屈が勝ちすぎているように思う。お釈迦様も善行を積んだ人には「天に生まれる」と言われているのである。
ところで禅宗では次の達摩さんの無功徳の話がある。
帝問曰。朕即位已來。造寺寫經度僧不可勝紀。有何功。師曰。並無功。帝曰。何以無功。師曰。此但人天小果有漏之因。如影隨形雖有非實。帝曰。如何是真功。答曰。淨智妙圓體自空寂。如是功不以世求。(『景徳伝燈録』巻3 菩提達摩章)
〈訓読〉
帝問うて曰く、「朕(チン)即位已來(イライ)、造寺、寫經、度僧、紀するに勝(タ)ゆべからず。何の功か有る。」師曰く、「並(ナ)べて無功。」帝曰く、「何以(ナニヲモッ)て、功無からん。」師曰く、「此れは但だ人天の小果、有漏の因なり。影の如く形に隨って有ると雖も實にあらず。」帝曰く、「如何なるか是れ真の功。」答えて曰く、「淨智妙圓の體、自ら空寂。是の如き功は世に以て求めず」と。(淨智は妙圓にして、體、自ら空寂。の読み方の方が4字3字で切る読み方としてよいのだが、あえてこのように読んでおく。)
〈拙訳〉
(梁の)武帝は尋ねた、「私は即位以来、記すことができないほどの多くの寺を造り、経典を写させ、国民が僧尼となることを許可してきた。どのような功徳があるでしょうか。」達磨大師は答えた、「全て無功徳」と。武帝は尋ねた、「なんで功徳が無いと云うのでしょうか。」師は答えた、「あなたが尋ねることは人間界、天上界における小さな果報であり、煩悩のもとである。たしかに功徳ある形は影のようにあるようだが、真がない。」武帝は尋ねた、「では真の功徳とはなんでしょうか。」師は答えた、「汚れのない智慧をそなえた完全な本質は空寂そのものである。これこそが功徳であり、他に何があろうか」と。 (*小果は普通は小乗のさとり、と訳す。)
功徳について隨分と難しいことを云われている。達磨大師は武帝の造寺や写経や度僧に対して「無功徳」と答えている。しかしこれは全く否定したのではなく、武帝がそのことの見返り(果報)を求めることを誡めたのであり、造次や写経、度僧、そのこと自体は功徳そのものである、と功徳について説かれている、とこれは読み解かれるようである。「淨智妙圓の體、自ら空寂。是の如き功は世に以て求めず」の訳についてはここが大事なところではあるが、今回は上記の拙訳のみにてお許しを。
しかしこのような難しいとらえ方が、現代の禅宗における功徳のとらえ方において人々を惑わせていると私は思う。
見返りを求めるな、という前に、「功徳を積みなさい」と説くべきではなかろうか。寺への寄附ばかりではなく、社会に対してそれぞれができることの徳を積んで生きていくことを、素直に説く勤めがあるのではなかろうか。
それでは寺に対して金銭的、物質的な功徳を積む意味はどこにあるのだろうか、ということを考えると、寺は僧伽(ソウギャ)の住むところであり、僧伽は福田であるからだろう。福田とは道を教え導いてくれ、真の幸福の種を心に蒔いてくれる田のようなものをいうのである。(福田とはもともとは四方僧伽-四方のどこから来た修行僧でも受け入れる教団のこと-に対していわれたようです。)*注:前記の訳は間違いと、Dr.Owlからご指摘を頂きました。【四方僧伽とは、四方の一切の比丘・比丘尼の集団という意味です。全地域の出家者(正員に限る)の全体を四方僧伽というのです。】
葬儀や仏事は寺の役目の一つにすぎない。大事なことは誰をも静寂なる世界に導いてくれること、仏の世界に導いてくれること。他にもいろいろの役目はあろうが、それらの力量ある人々を僧侶というのであろう。またそうなろうと修行している姿を僧侶というのであろう。社会への貢献や寄附、福田への寄捨、これらを功徳を積むというのであろう。功徳を積むことは功徳がある。勿論お釈迦様も言われた。どのような功徳があるかは、功徳を積んだ人それぞれがわかることでもあろう。
*今年の5月19日の火災で本堂が全焼してしまったお寺があります。拙尼が申し上げるのは恐縮ですが、ご住職は素晴らしいお坊様です。再建はとても大変です。功徳を積ませていただけるこのような機会は千載一遇の機会ですので、ご紹介させて下さい。個人情報保護の問題もありますが、新聞で支援についての記事が掲載されていますので、当ブログにも掲載させて頂きます。
〒018-3452 秋田県北秋田郡鷹巣町七日市 龍泉寺 住職佐藤俊晃老師
電話(0186-66-2032)
功徳を積む、ということを考えてみた。19日の記事で台湾の尼僧さんのお母さんがお亡くなりになる前に、功徳を積むために、殆どの蓄えをお寺に寄付をした、ということを紹介した。果たしてお寺に寄付をすることが本当に功徳なのかを考えてみたい。
功徳には「善を積んで得られるもの、いわゆる徳」という訳がある。他にも「善い行い」とか「善行の結果として報いられる果報」という意味などが、中村元博士の『仏教語大辞典』には書かれている。
とすると決してお寺だけに限って使われる言葉ではない。重い荷物を持っている人がいたら、手助けするのも功徳、体の弱い人を助けるのも功徳、災害の援助(金銭も労働)も功徳、困っている子供たちを応援するのも功徳、社会には限りなく功徳を積めることが溢れている。
その結果なにか果報が得られるかというと、はっきりと果報がある、というべきであろう。なによりも豊かな心が得られるのである。果報を求めるべきではない、ということの方を強調する傾向は理屈が勝ちすぎているように思う。お釈迦様も善行を積んだ人には「天に生まれる」と言われているのである。
ところで禅宗では次の達摩さんの無功徳の話がある。
帝問曰。朕即位已來。造寺寫經度僧不可勝紀。有何功。師曰。並無功。帝曰。何以無功。師曰。此但人天小果有漏之因。如影隨形雖有非實。帝曰。如何是真功。答曰。淨智妙圓體自空寂。如是功不以世求。(『景徳伝燈録』巻3 菩提達摩章)
〈訓読〉
帝問うて曰く、「朕(チン)即位已來(イライ)、造寺、寫經、度僧、紀するに勝(タ)ゆべからず。何の功か有る。」師曰く、「並(ナ)べて無功。」帝曰く、「何以(ナニヲモッ)て、功無からん。」師曰く、「此れは但だ人天の小果、有漏の因なり。影の如く形に隨って有ると雖も實にあらず。」帝曰く、「如何なるか是れ真の功。」答えて曰く、「淨智妙圓の體、自ら空寂。是の如き功は世に以て求めず」と。(淨智は妙圓にして、體、自ら空寂。の読み方の方が4字3字で切る読み方としてよいのだが、あえてこのように読んでおく。)
〈拙訳〉
(梁の)武帝は尋ねた、「私は即位以来、記すことができないほどの多くの寺を造り、経典を写させ、国民が僧尼となることを許可してきた。どのような功徳があるでしょうか。」達磨大師は答えた、「全て無功徳」と。武帝は尋ねた、「なんで功徳が無いと云うのでしょうか。」師は答えた、「あなたが尋ねることは人間界、天上界における小さな果報であり、煩悩のもとである。たしかに功徳ある形は影のようにあるようだが、真がない。」武帝は尋ねた、「では真の功徳とはなんでしょうか。」師は答えた、「汚れのない智慧をそなえた完全な本質は空寂そのものである。これこそが功徳であり、他に何があろうか」と。 (*小果は普通は小乗のさとり、と訳す。)
功徳について隨分と難しいことを云われている。達磨大師は武帝の造寺や写経や度僧に対して「無功徳」と答えている。しかしこれは全く否定したのではなく、武帝がそのことの見返り(果報)を求めることを誡めたのであり、造次や写経、度僧、そのこと自体は功徳そのものである、と功徳について説かれている、とこれは読み解かれるようである。「淨智妙圓の體、自ら空寂。是の如き功は世に以て求めず」の訳についてはここが大事なところではあるが、今回は上記の拙訳のみにてお許しを。
しかしこのような難しいとらえ方が、現代の禅宗における功徳のとらえ方において人々を惑わせていると私は思う。
見返りを求めるな、という前に、「功徳を積みなさい」と説くべきではなかろうか。寺への寄附ばかりではなく、社会に対してそれぞれができることの徳を積んで生きていくことを、素直に説く勤めがあるのではなかろうか。
それでは寺に対して金銭的、物質的な功徳を積む意味はどこにあるのだろうか、ということを考えると、寺は僧伽(ソウギャ)の住むところであり、僧伽は福田であるからだろう。福田とは道を教え導いてくれ、真の幸福の種を心に蒔いてくれる田のようなものをいうのである。(福田とはもともとは四方僧伽-四方のどこから来た修行僧でも受け入れる教団のこと-に対していわれたようです。)*注:前記の訳は間違いと、Dr.Owlからご指摘を頂きました。【四方僧伽とは、四方の一切の比丘・比丘尼の集団という意味です。全地域の出家者(正員に限る)の全体を四方僧伽というのです。】
葬儀や仏事は寺の役目の一つにすぎない。大事なことは誰をも静寂なる世界に導いてくれること、仏の世界に導いてくれること。他にもいろいろの役目はあろうが、それらの力量ある人々を僧侶というのであろう。またそうなろうと修行している姿を僧侶というのであろう。社会への貢献や寄附、福田への寄捨、これらを功徳を積むというのであろう。功徳を積むことは功徳がある。勿論お釈迦様も言われた。どのような功徳があるかは、功徳を積んだ人それぞれがわかることでもあろう。
*今年の5月19日の火災で本堂が全焼してしまったお寺があります。拙尼が申し上げるのは恐縮ですが、ご住職は素晴らしいお坊様です。再建はとても大変です。功徳を積ませていただけるこのような機会は千載一遇の機会ですので、ご紹介させて下さい。個人情報保護の問題もありますが、新聞で支援についての記事が掲載されていますので、当ブログにも掲載させて頂きます。
〒018-3452 秋田県北秋田郡鷹巣町七日市 龍泉寺 住職佐藤俊晃老師
電話(0186-66-2032)
8月19日(土)晴れ【台湾の尼僧さんと信仰についての話】
今朝の朝焼けはあまりに美しく、坐禅もしないで空に見入ってしまった。修行者としてはどうも怠け者である。
今日の休みは台湾からの留学生K尼を食事に招待した。私が腕を振るってご馳走を作った。K尼も本場仕込みの餃子を担当してくれて、久しぶりにご馳走が食卓に並んだ。風月庵は基本的に玄米菜食だが、多少の魚は頂く。しかし台湾の出家者は戒律で一切の動物性の食べ物は禁じられている。汁物のだしにも使えないので、今日は完全菜食の料理である。
さて昨日私は白衣の繕いをしたが、日常に着る服はそれほどに穴もあいていない。しかしK尼の身につけている法服はあちこちが繕われている。襟も何回も別布で繕ろわれている。K尼は夏の法服も冬の法服も2枚ずつしか持ってはいない。つくづくその姿勢とその穴のかがられた法服は美しく私の目には映る。
今日はK尼のお母さんがお亡くなりになるときの話をお聞きし感動した。お母さんはとても信心深い人で、いつも阿彌陀様の御名を心からお唱えになっていた人だという。そしてある日のこと体調はどこも悪くないと云うのに、「私は二週間後に亡くなるだろう」と云ったのだという。K尼は信じられなかったそうだが、お母さんはご自分の財産を、お葬式の時の僧侶へのお布施を残して、それ以外は全てあちこちのお寺に寄付してしまったのだという。
子供たちに分けたところでそれは何の意味もないこと。お寺に寄付をして功徳を頂くのだという。そして倒れる瞬間まで元気であったそうだが、予言通りにお亡くなりになったのだという。その体は数時間たっても柔らかく、お顔はつやつやと輝いていたという。K尼が出家したのはその後だそうだ。
「日本のお寺はどうして誰もが自由に出入りできないのでしょうか」と、K尼は言った。「台湾のお寺はいつも開け放たれていて、誰でも自由にお参りをし、坐禅をすることができます」「そして日本の仏像はどうして暗い中で見えないのでしょう」「台湾の仏像は大きくてどこからでも見えます。そしてその前で小さな自分を、大きな仏様の前で反省することができます」
本当にこの二点は日本の仏教寺院の特徴ともいえよう。それは寺院がそれぞれの地域の特定の檀家さんたちによって守られてきている事にも一因はあるだろう。寺は社会に開かれているようであるが、実は檀家さんの寺でもある。勝手に誰でも出入りすることはしづらい一面がある。
仏像については文化財好みの民族性にもよるであろう。芸術的な仏像や、彫刻として勝れた価値のあるものを好む傾向がある。礼拝の対象としての仏像を、民衆からかえって遠ざけてしまっているように思う。
仏像は礼拝の対象であること、帰依の気持ちを表す対象の一つであることに意味があるのに、二次的な価値観のほうが強くなってしまっていることは残念であると思う。寺も仏像も僧侶も、人々にとっては福田である。布施をし、信じることによって福徳を生み出す場所である。布施をすることによって、お金に対しての執着心を無くす助けともなる。
台湾ではその布施によって、僧侶たちは修行の日々を送ることができるのである。
一日と十五日には布薩(フサツ)といって、比丘・比丘尼それぞれ250戒と348戒を唱えその後合同で『梵網經(ボンモウキョウ)』を誦し、懺悔することのある僧は皆の前で懺悔するのだそうである。これに要する時間はいつも2時間半ぐらいだそうである。
日本の仏教は戒律の数も大乗戒(十重禁戒、三聚淨戒)なので少ないが、僧堂修行時代に『梵網経』を誦したことは数回の記憶しかなかった。永平寺や總持寺では布薩は行われているのであろうか。
それぞれの国の風土や民族性や歴史によって、宗教も培われていくのであり、単純に比較はできないが、台湾の寺院のありかたに学ぶべきことは多い。ただ台湾は僧侶の数が日本の比較ではない。一寺院に二,三百人はいるのだから、ほとんど家族だけで構成されている日本の寺院とは全く異なっている。
日本では仏教に対しての帰依の心を素直に持っている人々が少ないことは残念なことである。仏教を信仰として持てれば幸福なことなのだから。
今日は台湾のK尼を招待して教えを受けた一日であった。
今朝の朝焼けはあまりに美しく、坐禅もしないで空に見入ってしまった。修行者としてはどうも怠け者である。
今日の休みは台湾からの留学生K尼を食事に招待した。私が腕を振るってご馳走を作った。K尼も本場仕込みの餃子を担当してくれて、久しぶりにご馳走が食卓に並んだ。風月庵は基本的に玄米菜食だが、多少の魚は頂く。しかし台湾の出家者は戒律で一切の動物性の食べ物は禁じられている。汁物のだしにも使えないので、今日は完全菜食の料理である。
さて昨日私は白衣の繕いをしたが、日常に着る服はそれほどに穴もあいていない。しかしK尼の身につけている法服はあちこちが繕われている。襟も何回も別布で繕ろわれている。K尼は夏の法服も冬の法服も2枚ずつしか持ってはいない。つくづくその姿勢とその穴のかがられた法服は美しく私の目には映る。
今日はK尼のお母さんがお亡くなりになるときの話をお聞きし感動した。お母さんはとても信心深い人で、いつも阿彌陀様の御名を心からお唱えになっていた人だという。そしてある日のこと体調はどこも悪くないと云うのに、「私は二週間後に亡くなるだろう」と云ったのだという。K尼は信じられなかったそうだが、お母さんはご自分の財産を、お葬式の時の僧侶へのお布施を残して、それ以外は全てあちこちのお寺に寄付してしまったのだという。
子供たちに分けたところでそれは何の意味もないこと。お寺に寄付をして功徳を頂くのだという。そして倒れる瞬間まで元気であったそうだが、予言通りにお亡くなりになったのだという。その体は数時間たっても柔らかく、お顔はつやつやと輝いていたという。K尼が出家したのはその後だそうだ。
「日本のお寺はどうして誰もが自由に出入りできないのでしょうか」と、K尼は言った。「台湾のお寺はいつも開け放たれていて、誰でも自由にお参りをし、坐禅をすることができます」「そして日本の仏像はどうして暗い中で見えないのでしょう」「台湾の仏像は大きくてどこからでも見えます。そしてその前で小さな自分を、大きな仏様の前で反省することができます」
本当にこの二点は日本の仏教寺院の特徴ともいえよう。それは寺院がそれぞれの地域の特定の檀家さんたちによって守られてきている事にも一因はあるだろう。寺は社会に開かれているようであるが、実は檀家さんの寺でもある。勝手に誰でも出入りすることはしづらい一面がある。
仏像については文化財好みの民族性にもよるであろう。芸術的な仏像や、彫刻として勝れた価値のあるものを好む傾向がある。礼拝の対象としての仏像を、民衆からかえって遠ざけてしまっているように思う。
仏像は礼拝の対象であること、帰依の気持ちを表す対象の一つであることに意味があるのに、二次的な価値観のほうが強くなってしまっていることは残念であると思う。寺も仏像も僧侶も、人々にとっては福田である。布施をし、信じることによって福徳を生み出す場所である。布施をすることによって、お金に対しての執着心を無くす助けともなる。
台湾ではその布施によって、僧侶たちは修行の日々を送ることができるのである。
一日と十五日には布薩(フサツ)といって、比丘・比丘尼それぞれ250戒と348戒を唱えその後合同で『梵網經(ボンモウキョウ)』を誦し、懺悔することのある僧は皆の前で懺悔するのだそうである。これに要する時間はいつも2時間半ぐらいだそうである。
日本の仏教は戒律の数も大乗戒(十重禁戒、三聚淨戒)なので少ないが、僧堂修行時代に『梵網経』を誦したことは数回の記憶しかなかった。永平寺や總持寺では布薩は行われているのであろうか。
それぞれの国の風土や民族性や歴史によって、宗教も培われていくのであり、単純に比較はできないが、台湾の寺院のありかたに学ぶべきことは多い。ただ台湾は僧侶の数が日本の比較ではない。一寺院に二,三百人はいるのだから、ほとんど家族だけで構成されている日本の寺院とは全く異なっている。
日本では仏教に対しての帰依の心を素直に持っている人々が少ないことは残念なことである。仏教を信仰として持てれば幸福なことなのだから。
今日は台湾のK尼を招待して教えを受けた一日であった。
8月18日(金)晴れ暑し【すり切れた白衣】
久しぶりに二日間の休みができた。どこにも出かけないことにした。いつもの一日の休みでは台所磨きや、風呂磨き、部屋の片付け、洗濯等で終わってしまうが、今日は思いきって白衣(ハクエー白の着物のこと)の繕いをすることにした。
夏の間は着るたびに洗わねばならないので、襟も裾もすり切れたり、綻びてしまう。この頃はなかなか繕いができなかったので、三枚の白衣の襟をかけなおし、揚げをおろして裾を縫い直した。直し終わった樣子を見たら、まだしばらくは着られそうである。
針を持つことは本当に楽しいことである。出家するときは着物だけでなく衣や改良衣も自分で縫ったし、お袈裟も何枚も縫ったのだが、この頃は作務衣を縫う暇さえないような日々であったので、繕い物だけでも実に楽しかった。
さて先日は【若き日の行脚のこと】などを書いたのと、今日は衣の綻びのことなどを書いたので、比較にはとうていならないが、宏智正覚(1091~1157)禅師の略伝の一節を紹介したい。
〈原文〉
時真歇初住長蘆。遣僧邀至。衆出迎見其衣舃穿弊且易之。真歇俾侍者易以新履。師却曰。我為鞋来耶。衆聞心服。懇求説法。居第一座。六年出住泗州普照。(『従容録』「天童宏智禅師伝略」の一節)
〈訓読〉
時に真歇、初めて長蘆に住す。僧を遣わして邀(ムカ)えて至らしむ。衆出でて迎へ、其の衣舃(セキ)穿弊(センペイ)するを見て、且く之を易へんとす。真歇、侍者をして易ふるに新履を以て俾(セシ)む。師、却(シリゾ)けて曰く、「我れ、鞋の為に来らん耶(ヤ)。」衆聞きて心服し、説法を懇求(コンキュウ)す。第一座に居すこと、六年にして出でて泗州の普照に住す。
〈解説〉
宏智の兄弟子である真歇清了(1089~1151)禅師が長蘆山の住持であった時、宏智のところに迎えの僧を送って長蘆山にお連れした。大衆たちはこれを出迎えた。宏智の衣も履き物も穴だらけであるのを見て、真歇は新しい履き物を侍者に持たせて、これをかえさせようとした。宏智は「私は草鞋のために来たのではない」と言ってこれをことわったのである。大衆はこの言葉に心服し、説法をしてくれるように懇ろに頼んだ。第一座(首座)を六年勤めてから(長蘆山を)出て、泗州の普照寺の住持となった。*宏智も真歇も丹霞子淳(1064~1117)の法嗣。
久しぶりに二日間の休みができた。どこにも出かけないことにした。いつもの一日の休みでは台所磨きや、風呂磨き、部屋の片付け、洗濯等で終わってしまうが、今日は思いきって白衣(ハクエー白の着物のこと)の繕いをすることにした。
夏の間は着るたびに洗わねばならないので、襟も裾もすり切れたり、綻びてしまう。この頃はなかなか繕いができなかったので、三枚の白衣の襟をかけなおし、揚げをおろして裾を縫い直した。直し終わった樣子を見たら、まだしばらくは着られそうである。
針を持つことは本当に楽しいことである。出家するときは着物だけでなく衣や改良衣も自分で縫ったし、お袈裟も何枚も縫ったのだが、この頃は作務衣を縫う暇さえないような日々であったので、繕い物だけでも実に楽しかった。
さて先日は【若き日の行脚のこと】などを書いたのと、今日は衣の綻びのことなどを書いたので、比較にはとうていならないが、宏智正覚(1091~1157)禅師の略伝の一節を紹介したい。
〈原文〉
時真歇初住長蘆。遣僧邀至。衆出迎見其衣舃穿弊且易之。真歇俾侍者易以新履。師却曰。我為鞋来耶。衆聞心服。懇求説法。居第一座。六年出住泗州普照。(『従容録』「天童宏智禅師伝略」の一節)
〈訓読〉
時に真歇、初めて長蘆に住す。僧を遣わして邀(ムカ)えて至らしむ。衆出でて迎へ、其の衣舃(セキ)穿弊(センペイ)するを見て、且く之を易へんとす。真歇、侍者をして易ふるに新履を以て俾(セシ)む。師、却(シリゾ)けて曰く、「我れ、鞋の為に来らん耶(ヤ)。」衆聞きて心服し、説法を懇求(コンキュウ)す。第一座に居すこと、六年にして出でて泗州の普照に住す。
〈解説〉
宏智の兄弟子である真歇清了(1089~1151)禅師が長蘆山の住持であった時、宏智のところに迎えの僧を送って長蘆山にお連れした。大衆たちはこれを出迎えた。宏智の衣も履き物も穴だらけであるのを見て、真歇は新しい履き物を侍者に持たせて、これをかえさせようとした。宏智は「私は草鞋のために来たのではない」と言ってこれをことわったのである。大衆はこの言葉に心服し、説法をしてくれるように懇ろに頼んだ。第一座(首座)を六年勤めてから(長蘆山を)出て、泗州の普照寺の住持となった。*宏智も真歇も丹霞子淳(1064~1117)の法嗣。
8月17日(木)曇り時々雨(台風10号九州方面に接近)【お葬式の費用】
テレビ東京の『ガイアの夜明け』という番組で「葬儀をプロデュース”変貌するニッポンのお葬式”」というご葬儀に関する放映があった。(8月15日22:00)やはり僧侶へのお布施よりも、多額にかかるのは葬儀社への支払いであることが、これを見た人は納得がいったのではなかろうか。
先日【初七日のご供養】という題で、私も葬儀社の事に触れたが、葬儀社では葬儀をプロデュースする、という営業方法が取り入れられているようである。葬儀社のプロデュースした「ご葬儀」というお芝居において、僧侶はあくまでも僧侶という一役を演じているように思う。
そのことについては今は述べないが、300万円、500万円などという葬儀社に対しての支払いの金額は、どうしたらはじき出されるのか疑問である。300万円と言われたのに、葬儀の後で500万円と言われた人がいるそうだが、それも首を傾げる話である。家族を失うという遺族の悲しみにつけ込み、また滅多に経験しないことで遺族の無知につけ込んで、悪徳な商売をしているとしか考えられない。
しかし、このような葬儀社は極く僅かではないかと思う。善良な葬儀社も多いはずである。テレビはどうしても一面を強調したい傾向があるので、うっかりとそのまま受け入れるわけにはいかない。それにしてもご葬儀の生前予約には少なからず驚きを覚えた。これはアメリカの葬儀社が日本に参入してきているようだ。生前予約の場合は後から一切の追加支払いはないというが、現代的というにしても、そこまで行ったかという感じがする。
人間の死が商売になるということは、いかにも平和ボケの象徴であろう。恵まれない国の人々には考えられない現象であろう。僧侶もそれに乗じて商売をするような感覚でご葬儀を受けてはならないだろう。勿論寺は人々のご葬儀やご法事のお布施で生かされている。私もそのお陰で生活が成り立ってはいる。
しかし商売という考えはない。商売においては利潤を考えることは大事なことであるが、僧侶が勤めるご葬儀やご法事は商売ではないので、利潤を追求することはおかしいだろう。戒名も売り物ではないので、よくよく注意が必要だろう。有る人は有るように、無い人は無いように仏教に対しての帰依の 心を表してもらえれば、よいのではなかろうか。
僧侶の労働の対価とは違うのであるから。それでもそれなりの労働であると私は思うが。きれい事では世の中のことは回っていかないし、ましてお金の絡む問題なので一面的には語れないが、葬儀社の問題と僧侶の問題は、全く別の次元で論じられる問題であろう。どんな商売でもあまりあこぎなことをすれば、天の助けが無いはずだ、と理想主義の私は思っている。
誰もが納得できるような金額でご葬儀が執り行われますようにと、願ってやまない。(ご葬儀相談窓口がインターネット上にありますから、参考になさったり、やはり誰にもやってくる死のことですから、日頃から信頼のおける葬儀社さんを調べておくことは賢明かもしれません。またお寺に相談しておくのが賢明でしょう。)
8月16日(水)晴れ時々雨【追悼の茶事】
今日でようやくお盆の棚経等、一段落が付いてやはりホッとしている。先刻までただボーっとして空を見ていた。ブログの管理はすっかりさぼってしまってすみません。さて12日にはお盆に先立って、お父様の13回忌をなさった家で、追悼の茶事を開いたのでそのご紹介をさせていただきたい。
住まいの一角に現代的な感覚も取り入れて、この屋の主人が茶室を造った。名前は葵庵(キアン)である。いろいろに工夫が凝らされていて、二枚の引き戸の一隅には躙(にじ)り口を拵えてある。この戸の木の香りが大変にかぐわしい。この戸をしまい込むと玄関との境が無くなり、そこに置かれた椅子にも四、五人は座れて立礼式の席ができるようになっている。孫さん達はそこに坐った。(足が痛くなくてよかったね。)
正客席は勿論ご法事の主人公である亡きお父様である。子供や孫や奥さんに囲まれて、一服頂けるとは幸せというものだろう。思いがけないこの世からのご招待にお喜びであろうか。これも粋人の息子さんあってのことである。彼は私の弟の友人であり、高校時代からの親交がある。彼の奥さんにも、彼の妹さんにも私もお世話になったり、若い頃一緒に飲み歩いたり、お互いに人生の変遷を知っているので、今日の一服には、なかなかの味わいがあった。
プライベートなことをブログ上にはあまり書けないので、概略のみであるが、このようなご法事の趣向もなかなか素敵なこととしてご紹介させていただいた。特別にお茶室がなくても、それぞれの家の趣向で追悼の茶事の一席を設けるのも楽しいのではなかろうか。
この日のお道具は若い作家達の作品が多く使われていて、亭主の交友がお道具に反映していて、お茶席をより楽しく身近な感じにしてくれている。建水はご自作とのこと。錦で作られた仕服(茶入れ袋)は亭主の奥さんの作品である。お道具の後を追いかけるような茶道は苦手だが、自分で作ったり、友人が作ったり等、お道具と一緒に楽しむ姿勢はより深い感じがする。
私は茶人ではないので、正式な茶席のご紹介はできかねるが、特に心に残ったお道具についてご紹介しておきたい。
*薄茶茶器:神代杉沈金棗 玉井智昭作
*茶杓:夏椿 柴田克哉作 銘「涅槃」
*蓋置:覆輪欅蓋置 轆轤ー玉井智昭 金工-中安 麗(ナカヤス ウララ)
*香合:象牙白象-石井清道 一文字香合-玉井智昭
*菓子器:碧彩ぼかし黒漆菓子器 井川健作
*軸:「雲無心」ご揮毫-東大寺194世別当、華厳宗206世管長 上司海雲
待合いのお軸は、書家であった亭主のお父様の遺墨である。「平常心是道(ビョウジョウシンゼドウ、またはヘイジョウシンゼドウ)」なので、少し解説を試みたい。
これは馬祖道一(709~788)の言葉である。平生の行住坐臥が道(さとり)であり、言い換えれば、さとりは特別な心境を指すのでもなく、生活からかけ離れたものではない、という立場を表した語。
「示衆云、道不用修、但莫汚染。(中略)若欲直会其道、平常心是道。謂平常心、無造作、無是非、無取捨、無断常、無凡無聖(中略)如今行住坐臥、応機接物、尽是道」(『景徳伝燈録』巻28馬祖道一章)
〈訓読〉
「衆に示して云く、道は修を用いず、但だ汚染莫し。(中略)若し直に其の道を会せんと欲せば、平常心是道。平常心とは、造作無く、是非無く、取捨無く、断常無く、凡無く聖無きを謂う(中略)如今の行住坐臥、応機接物、尽く是れ道なり」
*応機接物(オウキセツモツ)-修行者の機根に応じて接化すること。しかし、単に機に応じて接する物、とこの場合は訳してもよいのではないかと考えるが、如何。
修行者に云われた。道(さとり)は修行を必要としない。ただ汚染さえなければよいのだ。(中略)もしその道を悟りたいとするならば、平常心是道だ。平常心とは、造作というはからい心無く、是非、取捨、断見と常見、凡聖と分ける一切の分別心も無いことを謂うのだ。(中略)只今の行住坐臥の全て、応機接物の全て、これが道である、と、馬祖は云う。
このようなとらえ方は中唐以後の禅思想の根本命題となった。馬祖は南嶽懐讓(677~744)の法嗣だが、南嶽と同じく六祖慧能(638~713)の法嗣、青原行思(?~740)の系統にも馬祖の及ぼした影響は大きい。
茶道にもこの精神は受け継がれているといえよう。そして1200年も前に馬祖さんが発した言葉が、さりげなく某家の一間にも掛かっているということが面白いことだと思う。
特別に仏教を学ばなくても、行住坐臥に心を配って、分別心無く、歩んでいけば、即、道の人生と言えるのであろう。
暑いと云っては、だらだらと怠けているような私は道から遙かに遠い。こんな時、兩の腕をきちんと張って、一服の茶を喫する姿勢をしてみたら、しゃんとした。(今してみたのです)やはり姿勢が道だと感じ入った次第である。
今日でようやくお盆の棚経等、一段落が付いてやはりホッとしている。先刻までただボーっとして空を見ていた。ブログの管理はすっかりさぼってしまってすみません。さて12日にはお盆に先立って、お父様の13回忌をなさった家で、追悼の茶事を開いたのでそのご紹介をさせていただきたい。
住まいの一角に現代的な感覚も取り入れて、この屋の主人が茶室を造った。名前は葵庵(キアン)である。いろいろに工夫が凝らされていて、二枚の引き戸の一隅には躙(にじ)り口を拵えてある。この戸の木の香りが大変にかぐわしい。この戸をしまい込むと玄関との境が無くなり、そこに置かれた椅子にも四、五人は座れて立礼式の席ができるようになっている。孫さん達はそこに坐った。(足が痛くなくてよかったね。)
正客席は勿論ご法事の主人公である亡きお父様である。子供や孫や奥さんに囲まれて、一服頂けるとは幸せというものだろう。思いがけないこの世からのご招待にお喜びであろうか。これも粋人の息子さんあってのことである。彼は私の弟の友人であり、高校時代からの親交がある。彼の奥さんにも、彼の妹さんにも私もお世話になったり、若い頃一緒に飲み歩いたり、お互いに人生の変遷を知っているので、今日の一服には、なかなかの味わいがあった。
プライベートなことをブログ上にはあまり書けないので、概略のみであるが、このようなご法事の趣向もなかなか素敵なこととしてご紹介させていただいた。特別にお茶室がなくても、それぞれの家の趣向で追悼の茶事の一席を設けるのも楽しいのではなかろうか。
この日のお道具は若い作家達の作品が多く使われていて、亭主の交友がお道具に反映していて、お茶席をより楽しく身近な感じにしてくれている。建水はご自作とのこと。錦で作られた仕服(茶入れ袋)は亭主の奥さんの作品である。お道具の後を追いかけるような茶道は苦手だが、自分で作ったり、友人が作ったり等、お道具と一緒に楽しむ姿勢はより深い感じがする。
私は茶人ではないので、正式な茶席のご紹介はできかねるが、特に心に残ったお道具についてご紹介しておきたい。
*薄茶茶器:神代杉沈金棗 玉井智昭作
*茶杓:夏椿 柴田克哉作 銘「涅槃」
*蓋置:覆輪欅蓋置 轆轤ー玉井智昭 金工-中安 麗(ナカヤス ウララ)
*香合:象牙白象-石井清道 一文字香合-玉井智昭
*菓子器:碧彩ぼかし黒漆菓子器 井川健作
*軸:「雲無心」ご揮毫-東大寺194世別当、華厳宗206世管長 上司海雲
待合いのお軸は、書家であった亭主のお父様の遺墨である。「平常心是道(ビョウジョウシンゼドウ、またはヘイジョウシンゼドウ)」なので、少し解説を試みたい。
これは馬祖道一(709~788)の言葉である。平生の行住坐臥が道(さとり)であり、言い換えれば、さとりは特別な心境を指すのでもなく、生活からかけ離れたものではない、という立場を表した語。
「示衆云、道不用修、但莫汚染。(中略)若欲直会其道、平常心是道。謂平常心、無造作、無是非、無取捨、無断常、無凡無聖(中略)如今行住坐臥、応機接物、尽是道」(『景徳伝燈録』巻28馬祖道一章)
〈訓読〉
「衆に示して云く、道は修を用いず、但だ汚染莫し。(中略)若し直に其の道を会せんと欲せば、平常心是道。平常心とは、造作無く、是非無く、取捨無く、断常無く、凡無く聖無きを謂う(中略)如今の行住坐臥、応機接物、尽く是れ道なり」
*応機接物(オウキセツモツ)-修行者の機根に応じて接化すること。しかし、単に機に応じて接する物、とこの場合は訳してもよいのではないかと考えるが、如何。
修行者に云われた。道(さとり)は修行を必要としない。ただ汚染さえなければよいのだ。(中略)もしその道を悟りたいとするならば、平常心是道だ。平常心とは、造作というはからい心無く、是非、取捨、断見と常見、凡聖と分ける一切の分別心も無いことを謂うのだ。(中略)只今の行住坐臥の全て、応機接物の全て、これが道である、と、馬祖は云う。
このようなとらえ方は中唐以後の禅思想の根本命題となった。馬祖は南嶽懐讓(677~744)の法嗣だが、南嶽と同じく六祖慧能(638~713)の法嗣、青原行思(?~740)の系統にも馬祖の及ぼした影響は大きい。
茶道にもこの精神は受け継がれているといえよう。そして1200年も前に馬祖さんが発した言葉が、さりげなく某家の一間にも掛かっているということが面白いことだと思う。
特別に仏教を学ばなくても、行住坐臥に心を配って、分別心無く、歩んでいけば、即、道の人生と言えるのであろう。
暑いと云っては、だらだらと怠けているような私は道から遙かに遠い。こんな時、兩の腕をきちんと張って、一服の茶を喫する姿勢をしてみたら、しゃんとした。(今してみたのです)やはり姿勢が道だと感じ入った次第である。
8月12日(土)曇り一時激しい雷雨【若き日の行脚のこと】
古い荷物の片付けをしていたら、二十年以上前の日記が出てきた。その中に、名古屋の尼僧堂を送行(ソウアン)して、埼玉の得度の師匠の寺(東松山淨空院)まで歩いて帰ったときの一冊があった。その時日記を付けていたことすらも、すっかり忘れていたのだが、思いがけない一冊の発見である。
今、地図帳を手にして行脚の足跡を辿ってみたが、我ながらよくも歩いたと感心した。名古屋の千種区にある尼僧堂を出発したのは七月の二十六日、暑い夏の日であった。師匠にお盆までには帰ってこい、と徒歩で帰ることの許可を頂き、歩きはじめたのであった。電車で一息に帰るには、尼僧堂でのことはあまりに受け入れがたい体験であった。あまりに理不尽な経験を噛みしめるためにも歩いて帰ろう、と考えたのである。尼僧堂での体験を書くことはここでは控えたい。
しかし、歩き始めて程なく足にできたまめの痛みに泣いた。そして歩き始めの三日間ずぶぬれになって歩いたことが思い出される。雨だからと雨宿りをしていてはお盆までには帰れそうにない。思いきって雨の中に身をさらしたら覚悟ができた。三日間の雨の洗礼のお陰で、その後のどんな天候にも足がすくむことはなかった。
長野県に入る前に少し寄り道をして、十日間の断食修行やらのお世話になったあるお寺の奥の院に立ち寄った。それは設楽町というところの山の奥にあった。後で分かったことだが、私の嗣法の本師にあたる余語翠巌老師は、この町で生まれ育っている。この辺りは山また山で、峠を越すと一つ村落があり、村落を過ぎるとまた家の灯りの一つもない山の中を歩くようになる。
昼はあまりに暑く、主に夜の間歩いた。お陰でいろいろと面白い経験をした。山中で道に迷ったのではないかと不安になって、丁度通りがかった車に道を尋ねようとしたが、幽霊と間違われたこともあった。愛知県と長野県の県境辺りを歩いたときは、これこそ無数というのであろうというほどの蛍、蛍、蛍の光に囲まれて歩いたこともあった。
根羽村というところで飲んだ水のおいしさは今でも忘れられない。あの水を飲みにまた行ってみたいと時折に思い出すほどである。長野に入ってからは天竜川に沿って153号線、三州街道を北上した。途中飯田にある兄弟子のお寺で休ませて頂いたり、茅野の同安居の友人の寺でお世話になったりして、美しい長野の山を歩いた。
東雲の空が織りなす芸術に心打たれたのも長野の山中であった。夜のとばりが段々に開けて、かわたれ時から東雲になり、朝日がさす前の雲のダイナミックな移り変わりはとても私の拙い筆では表すことができない。薄墨色の雲が漆黒の空から浮かんでくるとまもなく茜色に変わり、それが一瞬黄金色に輝くのである。
時にはお地蔵様の横で寝たり、神社の社の下で寝たり、お墓の中で寝たり、思い返せばよくそんなことができたものだと我ながら感心する。碓氷峠を越えて群馬県に入ると安中は間もなくであった。そこまで高崎の友人が迎えに出てくれていた。そこでしばらくお世話になった。地図を見ると分かるが、歩いてきた道は、高崎までは地図も茶色だけの山岳地帯、高崎から目的の東松山までは緑色に塗られた平野である。
途次、おむすびを恵んで頂いたり、トマトを頂いたり、お布施を頂いたり、いろいろと恵んでいただいた。いろんな人のいろんなお世話になりながらの行脚だった。
行脚の間、二つのことだけ心掛けた。一つはアスファルト上にある虫の死骸は全て土に返すこと、鳥、ネズミ、蛇、ミミズ、蜂等等。もう一つは目に入る全てのお墓で、供養のお経をあげさせて貰うこと、これだけである。
小川町で今は亡き兄が出迎えてくれて、師匠の寺に辿り着いたのは八月の十一日であった。なんとかお盆前に帰ることができた。出迎えてくださった師匠、浅田大泉老師も奥様も、もうこの世にはいらっしゃらない。
この行脚の間、三足の地下足袋に穴があいた。有り難い体験であった。
古い荷物の片付けをしていたら、二十年以上前の日記が出てきた。その中に、名古屋の尼僧堂を送行(ソウアン)して、埼玉の得度の師匠の寺(東松山淨空院)まで歩いて帰ったときの一冊があった。その時日記を付けていたことすらも、すっかり忘れていたのだが、思いがけない一冊の発見である。
今、地図帳を手にして行脚の足跡を辿ってみたが、我ながらよくも歩いたと感心した。名古屋の千種区にある尼僧堂を出発したのは七月の二十六日、暑い夏の日であった。師匠にお盆までには帰ってこい、と徒歩で帰ることの許可を頂き、歩きはじめたのであった。電車で一息に帰るには、尼僧堂でのことはあまりに受け入れがたい体験であった。あまりに理不尽な経験を噛みしめるためにも歩いて帰ろう、と考えたのである。尼僧堂での体験を書くことはここでは控えたい。
しかし、歩き始めて程なく足にできたまめの痛みに泣いた。そして歩き始めの三日間ずぶぬれになって歩いたことが思い出される。雨だからと雨宿りをしていてはお盆までには帰れそうにない。思いきって雨の中に身をさらしたら覚悟ができた。三日間の雨の洗礼のお陰で、その後のどんな天候にも足がすくむことはなかった。
長野県に入る前に少し寄り道をして、十日間の断食修行やらのお世話になったあるお寺の奥の院に立ち寄った。それは設楽町というところの山の奥にあった。後で分かったことだが、私の嗣法の本師にあたる余語翠巌老師は、この町で生まれ育っている。この辺りは山また山で、峠を越すと一つ村落があり、村落を過ぎるとまた家の灯りの一つもない山の中を歩くようになる。
昼はあまりに暑く、主に夜の間歩いた。お陰でいろいろと面白い経験をした。山中で道に迷ったのではないかと不安になって、丁度通りがかった車に道を尋ねようとしたが、幽霊と間違われたこともあった。愛知県と長野県の県境辺りを歩いたときは、これこそ無数というのであろうというほどの蛍、蛍、蛍の光に囲まれて歩いたこともあった。
根羽村というところで飲んだ水のおいしさは今でも忘れられない。あの水を飲みにまた行ってみたいと時折に思い出すほどである。長野に入ってからは天竜川に沿って153号線、三州街道を北上した。途中飯田にある兄弟子のお寺で休ませて頂いたり、茅野の同安居の友人の寺でお世話になったりして、美しい長野の山を歩いた。
東雲の空が織りなす芸術に心打たれたのも長野の山中であった。夜のとばりが段々に開けて、かわたれ時から東雲になり、朝日がさす前の雲のダイナミックな移り変わりはとても私の拙い筆では表すことができない。薄墨色の雲が漆黒の空から浮かんでくるとまもなく茜色に変わり、それが一瞬黄金色に輝くのである。
時にはお地蔵様の横で寝たり、神社の社の下で寝たり、お墓の中で寝たり、思い返せばよくそんなことができたものだと我ながら感心する。碓氷峠を越えて群馬県に入ると安中は間もなくであった。そこまで高崎の友人が迎えに出てくれていた。そこでしばらくお世話になった。地図を見ると分かるが、歩いてきた道は、高崎までは地図も茶色だけの山岳地帯、高崎から目的の東松山までは緑色に塗られた平野である。
途次、おむすびを恵んで頂いたり、トマトを頂いたり、お布施を頂いたり、いろいろと恵んでいただいた。いろんな人のいろんなお世話になりながらの行脚だった。
行脚の間、二つのことだけ心掛けた。一つはアスファルト上にある虫の死骸は全て土に返すこと、鳥、ネズミ、蛇、ミミズ、蜂等等。もう一つは目に入る全てのお墓で、供養のお経をあげさせて貰うこと、これだけである。
小川町で今は亡き兄が出迎えてくれて、師匠の寺に辿り着いたのは八月の十一日であった。なんとかお盆前に帰ることができた。出迎えてくださった師匠、浅田大泉老師も奥様も、もうこの世にはいらっしゃらない。
この行脚の間、三足の地下足袋に穴があいた。有り難い体験であった。
8月9日(水)台風7号去る。朝雨激しい。日中時々雨降る。夕方雨上がり青空。夜また一時雨。夜半空晴れ渡る【ナガサキ】
今日は一日中東京の空は変化し続けていた。今夜は満月。なんとか満月のお月様を拝めないかと願っていたら、先刻までの雨雲がすっかり消え、今ようやく皎々たる満月が顔を見せてくれた。
1945年8月9日11時2分。
一瞬にして7万5千人以上の長崎の人々が命を失った。広島に原爆を投下した3日後、再びアメリカは日本を舞台にして実験を行ったのだ。連合国軍の勝利はすでに確実であり、二度も原爆を使う必要はなかったにも拘わらず、マリアナ諸島のテニアンから原爆を搭載したB29、ボックス・カーは長崎をなぜ目指してきたのだろうか。
ヒロシマの原爆の悲惨さが大本営に十分に認識され、日本が白旗を挙げないうちにもう一つの原爆の威力を試したかったのであろうか。巨額の経費を投じた原爆を開発するための「マンハッタン計画」をアメリカ国民に納得させるためにも、その効果をみせなくてはならなかったのであろう。
「マンハッタン計画」は1942年の8月にスタートし、1945年7月には世界初の原爆実験に成功した。早速それをヒロシマとナガサキで実地試験したのである。ソ連の参戦が8月9日にあり、ソ連よりも何処の国よりも、アメリカが優位にたたねばならないという意図もあったようである。
そして多くの人々の命が奪われ、それぞれが営んでいた生活がそれこそ一瞬にして消えてしまったのだ。命は助かっても被爆した人々は、その後ずーっと苦しみ続けて今に至っている。核兵器が人類を滅ぼすことを十分に知っている世界なのにも拘わらず、核保有国の名乗りを挙げている国々、中国、イギリス、インド、パキスタン、イラン?、イスラエル、ロシア、フランス、北朝鮮?、アメリカ!
黒木和夫監督の『TOMORROW / 明日』は、8月8日の長崎から8月9日の長崎の市井の人々の生活を描いた作品である。井上光晴の小説『明日ー一九四五年八月八日・長崎』が原作の、岩波ホール創立20周年記念作品として1988年に作成された。
戦時下での慎ましやかな結婚式、そこには若い二人の門出を祝おうと人々が集まってきていた。その中の一人は途中で陣痛が始まり、ようやく9日の朝無事に男の子を出産した。結婚式の後も、参列した人々のなんでもないいつもの日常が描き出される。そして9日の朝。晴れ渡った空にB29がキラリと光った。
当時の長崎の樣子を実際には知らないが、このような映像を通して、当時を想像することができる。人々がささやかながらも肩を寄せ合い、笑ったり、泣いたり、恋したり、いつもの生活を送っていたのである。そして子供たちは元気に外で遊んでいたのである。その頭上に原爆は落とされた。
「人間は、
父や母のように
霧のごとくに消されてしまって
よいのだろうか」(若松小夜子「長崎の証言・5」より)
『TOMORROW / 明日』の冒頭の字幕である。
ナガサキもヒロシマも、人類の犯した最大の愚行の証明である。核兵器の使用を二度と許してはならない。悲惨な事実を、戦争を知らない世界の子供たちに伝えていかなくてはならないだろう。
満月が美しく空を渡っていく。1945年8月8日の夜はどうだったのだろうか。翌日静かな空の下で一瞬にして消されてしまった人々の日常。山河の慟哭を忘れまい。