北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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隠れた旧跡

2009-02-21 19:32:56 | 函館
先日、時間があった際に、特にあてもなく、市内をぶらぶらしてみた。
歴史的な名所・旧跡が数多くある函館だけど、中には、ガイドブックにもあまり乗っていないような「隠れた旧跡」も数多くある。
今日は、そんな中から2つを紹介。





あてもなく歩いていると、こんな案内板を見つけた。
「箱館戦争ゆかりの地」。ほほう、どんな場所だろう・・・?





狭い路地を抜け、住宅街の一角で見つけたのがこれ。
「きしのえきかいぐんせんしひ」と読むらしい。





これが、その碑なんだけど、残念ながらちょっと読み取りにくいので、何に関する物なのか、調べてみた。

この碑は、明治2年(1869年)5月の箱館戦争で戦死した、新政府海軍慰霊の墓所である。
同年4月、討伐体制を整えた新政府軍は、榎本軍(旧幕府軍)に攻撃を開始するが、5月11日の函館湾海戦で、新政府軍軍艦「朝陽」は、榎本軍軍艦の砲弾を受けて沈没したとされており、この石碑には、朝陽艦副艦長夏秋又之助以下73名の新政府軍海軍の戦死者名が刻まれている。

箱館戦争については、歴史の授業で色々と勉強したけれども、「己巳役」なる戦いは、教科書や受験参考書にも出てこない、知る人ぞ知る戦い。
そんな歴史の一幕に至るまで、その跡が記されているということは、すごく貴重なことなんだなと、ここを訪れて実感した。





次はここ。
アパートから徒歩圏内に、こんな標柱を見つけた。





これも、先の「己巳役」と同様、箱館戦争(戊辰戦争)にまつわる物。
「中島三郎助」なる人物は、慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁榎本武揚らと行動を共にして、江戸品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に参戦し、箱館政権(蝦夷共和国)下では、箱館奉行並を勤めた人物である。
戦時は、陣屋隊長として奮戦し、新政府軍に対して徹底抗戦を主張するも、本陣五稜郭降伏2日前の明治2年(1869年)5月16日、長男恒太郎・次男英次郎・腹心の柴田伸助(浦賀組同心)と共に戦死したとされている。
現在、この碑のある付近は、中島三郎助父子に因んで「中島町」と命名されている。

「中島三郎助」。これも教科書には出てこない人物だけど、それだけに、調べてみると、新たな発見があって面白い。
このような隠れた旧跡の探索は、これからもどんどん続けていきます。
コメント
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