toboketaG の春夏秋冬 

雑文、雑感、懐古話そして少しだけ自己主張。
土曜日をベースに週1~2回の更新が続けられればと思っています。

553-030417桜ちりつぎは新緑見て歩き

2021年04月16日 | 花・樹木

概ね400度目の芽吹きが始まる。ここは国道18号線(中山道)の豊岡地区に残る貴重な一里塚。

説明版によれば慶長9年家康の指示で五街道に一里塚として植えられた榎の数少ない現存樹。この

春も元気に芽吹きが始まった。

昔からの中山道はこの場所の前後でバイパス工事により付け替えられているが、ここだけは拡幅こ

そされたが一里塚の位置は変っていない。400年間道路標識としての意味を保ち続けている。今

は跡形もないが江戸に向かう次の塚は高崎宿に、逆に京都方面は安中市原市あたりと聞く。

多くの有名無名の諸子がこの樹の下で歩いてきた道のりを振り返り確認し、一息いれて次の一里に

向け腰を上げた。伊能忠敬も狂いのない正確無比の歩幅でこの樹の横を通過していった。

 

車で一山越えて20kmほど走って甘楽町に到着。10日前この城下町の雄川堰沿いの1kmの街

道は花吹雪で包まれたはず。そこは通過してある名将の墓を見に行く。戦国一の有名人織田信長の

次男信雄を初代とした小幡藩主織田家累代の墓。

20年ほど前にきたときとすっかり様変わりしていた。以前は7基の墓石はむき出しだしでこの場

所に一列に並んでいた。地元産の石は加工し易さの反面もろく風化が激しかった。心配した町がこ

んな立派の建屋を作って風化から守ったのだろう。ついでに周囲を整備して公園風にした。この町

は以前からこうした面に思い切った予算を使っていた。町の規模に一見不釣り合いな公園や施設が

充実している。

 

何冊か読んだ戦国武将の物語では総じて信雄の武将をしての評価は低い。親との比較で見られて気

の毒な気もする。本能寺の変で長男信忠は憤死、ご承知のように光秀を討った秀吉は清須会議の席

上、信忠の子わずか3歳の三法師を世継ぎとして強く推す。次男信雄が後見人という選択肢もあっ

ただろうがそれも消えた。その秀吉の方針に異を唱える信長麾下の武将との闘争を経て、秀吉VS家

康の小牧長久手の戦いにつながっていく。地元紙に家康を主人公にした安部龍太郎の小説が現在掲

載中でそこに頻繁に信雄が登場する。

 

関ケ原の戦いを経て天下は家康のもとに統一されるのだが、信雄は何の縁もない上州小幡藩1万石

大名としてこの地に配流される。武将としての評価は低い信雄も文化人としてはなかなかの素質が

あったようだ。叔父にあたるのだろうか織田有楽斎という有名な茶人を織田家は生んでいる。そん

な血筋が信雄をして荒々しい上州の風土の中で他の藩にみない文化の香り高い藩を作り上げていっ

たのか?

 

小規模な侍屋敷抜けていくと雄川の崖上に楽山園というなかなかしゃれた日本庭園に着く。長らく

埋もれていたものを近年整備したもので、まだ人工的な部分も感じられるが今後歴史を積めば名園

として世に知られるようになるだろう。

 

         

織田家7代の墓石の傍らの荒れていた竹林を思い切って伐採したところがあった。繁るにまかせて

いた厄介者の竹やぶも伐採次第でこんな風情あるものに変わるのだと感心したので撮影してみた。

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