実に当たり前のことである。だが、一人ひとりが、日常「いい扱い」を受けていないと、なんだか自信がなくなり、自身の存在をどうでもいいような、とるに足りない存在と認識しがちである。世の中から、そういう仕打ちを受け続けていると、そう感じざるを得なくなる。それは、自然なことである。では、このままでいいのか。
桜を見る会では、税金を私物化してつかう実態が明らかとなった。彼らの好みで、参加者を募り、詐欺師集団の宣伝材料の提供までしてしまった。芸能人やタレントを呼び、にぎにぎしく安倍政権の宣伝を、厚顔無恥にやった。
共産党の議員に指摘され、名簿の提出を要求されるや、ただちに、廃棄する。なにも残っていないと、平気な顔をして、官僚はこたえる。安倍政権は、他人事の顔をして、官僚答弁にすがりつく。政治そのものが、私物化され、お友達のためには、便宜を計り、政治献金がくるところや、お付き合いの多寡によって、政治が動く。政治は官僚の人事権をうばいとり、かれらの首根っこをおさえこんだのである。官僚は、政治に逆らえない。正義はここからは生れない。
日本は、先の大戦で初めて民主主義というものに触れ、大衆「しもじも」が、一応は、ようやく一人前として扱われるようになった。だが、「しもじも」が、自ら目覚め、要求し、敵対勢力をはねのけて獲得したものではなかった。なぜ「しもじも」というかと言えば、権力を持つ者の、一般大衆をみる感覚がそうだからである。木っ端役人でさえ「しもじも」という。高級官僚からみれば木っ端役人など虫けら以下だ。
他者から、与えられた力は、本物とは言い難い。自ら考え、方策を練り、展望を持って権力をとらなければ、身についていないと思わねばならない。国民主権なんだから、自分が主人公であることを自覚して、さまざまな道具を駆使するようにならなくてはならない。
権力は、すぐに腐敗する。良心的だったものでも変質する。国民主権を志向していたとしても、権力者が変質して独裁者となれば、まずは身内、お友達、好みなどなど、独裁者の都合で政治が動く。反対者には弾圧をする。中国の覇権主義は、あちこちに害悪を巻き始めている。香港の行く末が心配である。本土に影響が及ばないように、中国は躍起となっている。中国本土は、監視社会がほぼ完成しているかにみえる。
アメリカでは、非科学的な宗教集団の力が強く、大統領選挙に影響を与えている。世の中聖書に書かれている方向に進んでいるなどと、真顔で話す人々をみると不安に襲われる。これは、対処可能だろうが、困難な事態であることは間違いない。
人類には、一部、頑張っている人びとがいて、科学技術を進歩させ、明らかに人類に貢献している人がいるけれども、正反対の人びともいる。政治の世界は、多くの人びとの生活に直結するだけに、重要なのだが、誰がそれを担うのか、誰を選ぶのかが重要となる。
国民主権をいうならば、国民自身がしっかりしなければ、いい代表を選ぶことはできない。そもそも、まだ、選挙制度さえない国さえある。あっても、少ない支持率で、全体を統括できる仕組み、選挙制度を採用する。これは、利益誘導、買収まがい、宗教、等々ある程度の、岩盤支持層さえ構築してしまえば、安定した権力構造が維持できることになる。真の国民主権を獲得するには、人類はまだまだ、道は遠いというべきだろうが、この道は、いわば当たり前の道であり、一人ひとりにかかっている。すぐに変わる可能性を秘めている。また、変えなければならない。