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空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

人が生きるということ

2015年11月13日 09時22分24秒 | 思考試行

社会、政治、仕組、歴史のなかで、人の生き方について、さまざまに語られ、工夫され、制度面にもおおく反映されてきている。

改善できたと思えば、いつの間にか退行して、元の木阿弥になっている場合もあり、もっと以前よりも状況がひどくなっている場合もある。

人間が生きるということについて、真剣に検討され、考慮され、制度面はいうにおよばず、社会的にも倫理的にも、進歩しなければ、動物本来の弱肉強食の本質が幅をきかす。

それが適度に働けは、それでいいのかもしれないが、人間そのものが、自然の産物といいながら、大脳の発達による様々な変化、進歩は人為的な営みのなかで、自らの存在を保ってきているといってもよい。

人間の責任において、自然を改変し、自分たちに都合のいい世界を築いてきているのである。となれば、人類は、将来社会を見据えて、どういう振る舞いをしていくのか、当然ながら、真剣かつ誠実に考慮し、検討しなければならない。

目先の儲けや、自己本位の価値観を当然と考えるようでは、各所に歪が発生する。好ましくない事象のそれぞれについて、よく検討されるべきである。


よく解らないことがそのままに進む

2015年11月12日 10時04分05秒 | 思考試行

世間一般に、小生がどう思うと、自然とすすんでいく。推進の立場であろうと反対であろうと、関係なく、大きな車輪がまわっているように、ものごとがすすんでいく。

ここ数日、食あたりのようなことになって、およそ、ほとんど何もできないなかで、クリニックとの往復が仕事のようになっていると特にその感覚がある。

すべてが反対というわけではないが、いっこうに、原発は廃止への道を歩んでいるようには見えないし、その行先は曖昧模糊としている。

雇用問題にしても、経済の仕組にしても、金儲けに夢中の連中の意見をそのままに、極めて不公平な成果分配のルールが、大きな顔をしてまかり通っている。

こんな馬鹿な状態は、どこかで、必ず問題にされて、改善されてしかるべきだし、かつては、もっと公平感があったのに、違う価値観の連中の思惑が入ってきても、それを異常と思わない異常さが生まれている。

是正される雰囲気はなく、さらに、続こうとしている。このまま行けば、若者たちの人生将来設計は、ままならないことは明らかであるにもかかわらず、問題にしているものが、目立たない。このままで、人類の将来は大丈夫だろうか。


菌に弱い身体が知る親切・感謝

2015年11月10日 20時47分42秒 | 思考試行

昼食のなにかが悪かったのか、夕食頃には、食欲がまったくなく、昼食の食べたもののすべてを戻した。事はそれだでは終わらない。小便が出にくく、明らかに、感染した気配が濃厚である。

すぐ、近くのクリニックは休日で、少し離れているが家内が行ったことがあるというクリニックへ、近いけれどもタクシーで行く。尿検査、レントゲン、心電図など検査があって、点滴を受ける。

なんと親切な医者で、帰途は自家用自動車で自宅まで送ってもらう。かなり年配で、耳が遠いが、信頼のできるまことに好ましい医師である。

態度はあくまで謙虚であり、言葉使いも丁寧。看護師さんたちも親切で、地獄で仏にあう、絵に描いたようなこととなった。

帰宅しても、頻尿は収まらず、良も増えない状況だったが、抗生剤が出て、これが効いてきた。徐々に尿量がふえ、尿瓶が溢れほどになり、着実に良化。

それでもふらつきが止まらない。これまた、近所の脳神経外科に行く。ここがまた、素晴らしく、時間的には検査はもうできない時間帯であるにもかかわらず、受け入れてくれて、MRI検査を実施し、その結果について、直ちに評価のコメントをもらった。

脳の異常ではないと。余計な心配がなくなり、ふらつきの程度はあるのだが、こころなしか、だいぶ軽快したようにも思う。

最初から数えて、丸5日間、よくぞここまで回復してきた感がある。タクシーの人々、周囲の人々、本当に人間のよさ、素晴らしさを満喫している。


宗教と金と買収

2015年11月05日 10時45分45秒 | 思考試行

きれいごとを言っても、金がなければ、人はすぐに窮地に陥り、塗炭の苦しみにあう。したがって、金には弱い。宗教はそこへ入り込む。信者から、金を巻き上げ、その金を組織防衛につかう。

新聞社などは、最近、どこも完全に買収された。宗教団体の出版する雑誌の広告を大々的に載せている。この広告代は莫大だろう。そして、その雑誌に寄稿している連中もまた、買収に応じた連中である。

ああ、汚い、汚い!婦女暴行をして、訴えられて時効で逃げ切った創立者は、金儲け亡者の有名人をとりまきにして、なんとか「名誉」を守ろうとしている。

この構造に加担する大新聞。なんだ、この実態は。

しかし、インターネットの中では、こうしたことが語られる。当然には削除できない。まさに、大海のインクの一滴であって、誰の目にもとまらない。だが、誰かの目には届く。ビラをまくには金がかかる。

維新の若き先生方は、まいたことにして、金はポッポにないないの人もいたが、そもそも、なんの主張もなかったのだろう。世の中、少しおかしくなっている。

まともな顔をして、やってることが、まことにいじましい。


悪い奴の見分け方

2015年11月04日 10時58分07秒 | 思考試行

ええカッコをする。パフォーマンスが得意。投げやりに言う。(それがかっこいいと思っている。)

人を大事に思ってはいない。すぐ裏切る。事情が変わったという。昨日の友は今日の敵と考える。痛みを感じない。人も自分も。

選挙が好きで、これで勝てば、なんでもできると考えている。また、やる。これはヒットラーと同じやり方である。騙される者が悪い、となる。

こんな連中に、権力を持たせてはならない。非常に危険である。ルールは自分だと思っている。自分の思う通りに変えるつもりである。

競争をもちこみ、強い者が勝ち、弱い者が負けるのは当たり前。残酷である。助け合うということは考えない。

人間社会を作るというよりも、壊す方が得意なのではないだろうか。

地に足がついた生き方ではない。人間を大事には考えてはいない。出たとこ勝負であり、まわりは振り回される。大阪市を壊して、自分達の望むカジノをもってこようとする。

こんな連中に政治をさせてはならない。


維新に異心

2015年11月03日 10時20分01秒 | 思考試行

維新政治は、日の丸に起立せよ、とか国家を歌っているか、口が動いているか監視せよ、とか、その感覚には、強烈に違和感を感じる。公務員には、相対評価をいれてきて、必ず、ベッタを作り出し、あけすけに、職員間の分断を図る。

こういう政治をする輩は、大嫌いだ。戦後民主主義教育の中で、こういうことが、先の戦争を防げなかった原因だと肌で感じている。

権力を背景に、弱者をしめつける手法である。バカ野郎!そんな手にのるかばかたれ!こんな輩に近寄ってはいけない。こういう連中の言葉は、まことに軽い。人生についての深い考えなんてない。

頭の中は、支配、被支配、食うか食われるか、儲けること、これで一杯である。そのためには、ウソをつくことも平気である。

これで、意見が通らなければ、政界引退だとか、これで最後といいながら、失敗しても、まだ、脈があるとなれば、また蒸し返してくる。言葉に真実がない。

単なる戦術にすぎないわけである。騙されたら、騙された者が悪いのである。正義なんてどこにもない。騙されるなといっても、けっこう、みんな騙されるんだなあ、これが。

しかし、笑い事ではない。安部クンと仲良くして、憲法9条をなんとしても変えたがっているところで、彼らは意気投合している。本当に、戦争を、できる国にしては、いけない。騙されんといてね。


俳句の効果・気付くようになったこと

2015年11月02日 13時23分06秒 | 思考試行

俳句を始めて、変わったことは、日常の生活に少しは注目するようになったことだ。今まで、まったく気づかなかったことに気付いたときの驚きがある。

たとえば、俳句で「木の実落つ」というのが、時々登場するのだが、我が家にも、どんぐりのなる木があったにもかかわらず、どんぐりの落ちる音なんて気づきもしなかった。

ところが、この音が実は、割に頻繁にあることに気付いた。何の音だろう、えっ、これが「木の実落つ」だと知ったときの驚き。

これこそ俳句の効用だろう。世界が広がった感じがした。今まで、庭に、幾らどんぐりがあろうと、落ちる音に気付いたことはなかったのである。

日常生活のなかでも、自然と、句を探している風がある。ちょっとした風景、出来事に敏感になる。これは、有り難いことである。

なにもかも見過ごして、ああ、退屈だと思うのではなく、自然のたゆまぬ営みに気付き、それをうまくいけば句にする。これだけのことで、生活は随分豊かになった感じがする。


俳句表現技術の獲得をめざして

2015年11月01日 22時26分53秒 | 思考試行

作句するのに、ある種の技術が必要である。どうやら、ものの見方考え方にも影響する。確かな目があれば、できることだろうが、目がないとできない。

よく言われることだが、考えすぎるとできなくて、素直であればできたりする。俳句を作る技術といえば、語弊があるのだろうが、今の水準では、どうしても技術のように思えてしまう。

そこから、脱却して、感じることができたり、それを表現できるのなら、楽しいことだろうと思う。そこから詩情が生まれたりするなんてことになれば、たまらんと思う。

わずか17音で表現する短詩であるから、簡単にできそうに思うが、そうはいかない。何とかこれはできたなという句を作りたいものだが、できなくとも、誰から非難されるわけではなく、とんでもないことになるわけでもない。

楽しみとして、俳句作りができるのならば、幸せなことである。謙虚に素直に、見える風景を、事象を俳句にしたいものだ。

まだ、始めて間がないが、真面目に努力していくつもりである。