空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

相当ヘンだなと感じたこと。

2008年03月29日 22時26分24秒 | 思考試行
 テレビを見ていて、不思議に感じたことがある。歌は確かにうまいと思うのだが、そのファンの様子があまりに、熱狂的すぎるのである。涙して、あなたのおかげで人生変わったなどと、若い歌手に両手をさしのべるのである。

 司会のアナウンサーもビックリしている。こんなにその歌手が人気があることを知らなかったらしい。小生は、ブログでその若い歌手が、ある「宗教」に属することを知っていたから、同じ宗教の同志として、さも有りなんと思ってみていたのだが、その歌手自身、その「宗教」に関して、何らかの活動をしていることを公にはしていないのだと思う、しかしながら、多分その「宗教」の内部的には、周知の事実であるのだろう。まさに同志的な結びつきが体現されているのである。

 だから、そうではないかと調べている人にとっては、彼がそうであることを知ることは、そんなに難しいことではないのである。別に、その宗教団体にぞくすることは、非合法というわけではないのだから調査は困難ではない。そして、彼の属する宗教団体と密接に関係する政党は、今をときめく、政権を持つ連立与党なのだから、現実的に力もある。

 それは、しかしながら、恐ろしいことではある。彼らは気脈を通じていて、独特の「同志的」な結びつきをもっている。それをみている何も知らない人にとっては人気があるのだな、ぐらいにしか見えない。

 そのように見ると、テレビに多くの、その宗教団体に属するタレントが出ているのである。別に、特定の宗教に関するアレコレをだしてくるわけではない。だから異様な感じはしない。ただ市民権というか、馴染みはできる。それがネライかもしれない。

 科学的に考えると、宗教というのは、大抵の場合、人為的なもので、人類にとっては、いわば過渡的なものに思われる。それは、奇跡であるとか、不思議とか、理屈では解き明かせないとか、いうような要素が含まれるからである。証明不可能なことが、認められたりするからである。

 人間同士の営みのなかで、少々大胆に言うとすれば、必ずしも、どうしても必要なものとは考えられない。解らない、証明できない、というものは、そうであるものとして、扱うのが、ケンメイな常識人の考え方ではないだろうか。

 宗教は従って、イイカゲンなものであるならば、健全であるけれども、熱心ないしは真剣となれば、それは、危険度を増すといえるのではないだろうか。若い歌手に、老年期にさしかかる婦人が、涙を流さんばかりに、あなたに救われたなどと言っているのをみると、猛烈なイワカンを感じるのである。

 宗教団体が真剣に、自らの存在を確固たるものとするために、金に糸目をつけず、マスコミ対策、言論界に対する工作を、意図的にしているとすれば、どうだろうか。世間一般に、こうしたことが、見えていればいいのだが、いわば公然と批判するものがいない状態を作るために腐心しているとするならば、それは、やはり不健全と言わざるを得ないのである。