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斉藤博子「北朝鮮に嫁いで四十年-ある脱北日本人妻の手記」を読む

2012-07-29 23:52:52 | 北朝鮮のもろもろ
          

 ほんのちょっとした偶然が運命を大きく左右する事例は、身近な人たちの間にもいくつもあります。恋愛結婚で互いが知り合ったきっかけを聞くと、たまたまそこに居合わせたという偶然の機縁はめずらしくもなんともないですね。
 しかし、それらの分岐点で別の道を歩んでいたとしても、おおかたは将棋でいうところの「一局の将棋」となるのではないでしょうか。

 しかし、1941年に生まれで、中卒後地元の東洋レーヨンに勤めていた鯖江市の斉藤博子さんの場合は、1958年11月15日同僚の男性に連れられてダンスホールに行ったことが、その後の彼女の運命を大きく決定づけてしまう結果となりました。それがどんなに大きな人生の岐路だったか、その時点でわかるわけはありませんでした。 
 そのダンスホールで、たまたま一男性と知り合います。そして彼がたまたま在日朝鮮人だったことが、より直接的な運命の分岐点でした。彼に気に入られ、斉藤さんは翌59年結婚します。おりしも北朝鮮への帰国事業が始まった年で、婚家も北朝鮮に行くことを決め、斉藤さんも迷いもありましたが、夫は「首に縄をかけてもお前を連れて行く」と言い、自分も生まれて間もない娘と別れることはできない、と考えて北朝鮮に渡ることを決意します。

 斉藤さんの体験記北朝鮮に嫁いで四十年」(草思社.2010)には、以下1961年6月16日一家10人が新潟から乗船して北朝鮮の清津港についてからの斉藤さんの生活が具体的に書かれています。
 おおよそはこれまで読んだ北朝鮮本に書かれている通りですが、その関係の本を読んだことのない人には衝撃的な内容だと思います。
 とくにこれはと思ってメモした部分を列挙します。

 清津入港の瞬間から、帰国者たちはたぶん皆、「騙された」という衝撃に襲われます。「朝鮮の子どもたちは下は裸で、肌は汚れて黒い」し、空腹の自分たちに支給されたものは「ご飯でなく食べられそうもないお菓子」等々。
 一家が中国との国境の町恵山(ヘサン)に着いたのが6月30日。以後の生活はというと、日本とはかけ離れすぎていて、そのひどい状況も実感がわかないほどです。
 食糧は乏しく、電気も水道も満足にこない。娯楽もない。公開処刑を見せられたことも数回。(最初は3人が政治犯で2人が泥棒だった。)
 夫はメガネ工場の社長になったり、実家からの送金もあったりで、100%悲惨だったわけではないにしても・・・。
 実家からの送金(20万円)は朝鮮では1600ウォン相当。450ウォンでサンヨーテレビを買ったら、毎日近所の人が大勢見にきます。(かつて日本にもそういう時代はあったが。) しかし帰る時に、前にある農民大学寄宿舎の大学生が服や靴を盗んで行ったとか・・・。

 90年代に入り、斉藤さんの生活は一段と苦しくなります。
 1993年に実家の父が亡くなって送金は途絶え、翌94年は夫が死亡し配給もなくなります。
 1994年7月8日の金日成死去の時は、「行かないと悪者になる」ということで翌朝早く銅像に拝みに行きますが、そのために遠い山に供える花を探しに行ったりします。(15日間も!)
 90年代半ば以降の<苦難の行軍>の頃の悲惨な状況は、いくつもの本で伝えられていますが、本書でも、街などで目にした行き倒れの人の遺体や、浜辺で多くの餓死者が埋葬されるようすが記されています。

 この本でも、困難な中で生き抜く人たちの姿が描かれています。とくに女性。斉藤さんも、次女や3女とともにアカ(銅線)や煙草の密売をやったりもします。
 この本を読んだ人のブログ記事の多くで取り上げている衝撃的なエピソードを、私ヌルボも紹介します。
 ある日、汽車の中で警察によるヤミ商売の摘発に遭い、斉藤さんは帰国者ということで「もういいです」と言われてことなきを得ますが、赤ちゃんを連れた別の若い女性がいて、車内で何時間も泣かなかったその赤ちゃんは実は死んでいたのです。警官の指示で服を脱がせると、赤ちゃんのおなかに穴が開いていて、そこに銅線が隠されていたとか・・・。

 その時期の、生きていくための知恵と精神力、体力は言葉では表すことができません。
 夜1時間半歩いた所にある田んぼの稲穂を、用意したハサミで切ってリュックに入れ、チョグという鉄製の道具で搗く。その米でのり巻きを作り1本10ウォンで市場で売る、とか、
 そんな米泥棒だけでなくトウモロコシ泥棒もやったり、パンを作って売ったり、海でハマグリを拾ったり、ドングリで酒を造ったり等々。
 なんか、前近代的な社会というか、市場経済の黎明期といった感じです。
 当時、斉藤さんとアパートの同じ階の女性が赤ちゃんを口減らしのため洗面器の水につけて殺してしまったのも目撃します。(斉藤さんは「隠蔽」に力を貸します。「朝鮮ではこんなことが沢山あるらしいが、自分がこんな経験をするとは思ってもいませんでした。」) 江戸時代の「間引き」(何といやな言葉か)を思い起こします。

 北朝鮮の人たちにとって、山はいろいろなものが得られる場所のようです。ジャガイモをふかして売るには薪をたくさん使いますが、市場で薪を買うと儲けにならないので山で薪を集めます。すると山は禿山にならざるを得ず、それで根を掘って燃料にするとか・・・。国境の向こうの中国側の緑の山や青々とした畑はうらやましく眺めるばかりです。
 前近代といえば、次男とともに山に畑を作る話。次男が「いい場所を見つけたよ」ということで、行って2人してしるしをつけるのです。自分の畑にするには「角々の草を刈って」しるしをつけておくと「誰も手をつけられない」というわけです。この国の土地の耕作権等はどうなっているのでしょうか?

 生き抜くための苦労を強いられたのは斉藤さんの2人の息子と4人の娘たちももちろん同様です。上述の次女はヤミ商売の摘発に遭って3年間収容所で服役します。(人間よりいい豚のエサからトウモロコシの粒をくすねた食べたとか。) 三女が栄養失調で死亡したこと、中朝国境を行き来していた長女も捕まって獄中死したことは日本帰国後に知ることになります。

 結局斉藤さんは脱北ブローカーの手引きで北朝鮮から中国に脱出します。彼女としては、国外に出て日本の実家に電話で連絡し、送金してもらうという心づもりだったのです。それが「日本に行ける」と聞いてそのまま2001年日本に戻ることになるのですが、その際ブローカーたちの求めに応じてその仲間の女性を娘と偽って入国させたこと等が後に発覚して2009年に逮捕されます。裁判の判決は懲役1年執行猶予3年。
 しかし、斉藤さんの置かれた状況を考えてみれば、そんな体制の北朝鮮から脱出して日本に戻ろうとすると、たとえば中国内の日本公館がどれだけ力になってくれるというのでしょうか? そんな厳しい状況だからこそ金銭や違法出入国めあてのブローカーがはびこるわけだし・・・。

 以上、1つ1つをとってもふつうの日本人の生活からは想像もつかないような斉藤さんの体験を紹介しました。これでも本書に書かれていることの一部なのです。
 もう1つだけ、私ヌルボが読んでいて心痛んだのが夫による凄まじい嫉妬(猜疑心)と暴力。朝斉藤さんと同じ会社の男性が一緒に行こうと言って来ただけで仲を疑い、ロープで縛って木からつるし、殴りつけて「白状しろ」と迫るとは常軌を逸しています。しかし義父も義母に同様の暴力を振るっていたので遺伝なのかとも思ったりするのです。梁石日が「血と骨」で描いたような暴力的な父親像はかなり一般的なものだったようです。

 帰国事業に際して「何ひとつ不自由なものはない」と喧伝された北朝鮮社会の実態は、まったく逆の「不自由でないものはない」社会でした。
 しかし、この本を読んで驚くのは、斉藤さんの記述に、体制や指導者への、あるいは自身の運命への恨みつらみがほとんど見られないことです。
 いつも目の前の所与の状況の中で、自分ができることをやっていく。そんな順応性が、彼女を生き延びさせたのかも、と思いました。過去の日本での生活や価値観に執着していたら、スパイ容疑等で処刑されたり収容所送りになったかもしれないし、また前近代的な経済社会で、食べ物や小金を得る現実的な才覚がなければ餓死していたでしょうし・・・。
 斉藤さんの帰国後の生活もとても気になります。約200人ほどという日本で暮らす脱北者の人たちに対する継続的な支援体制はどこまで大丈夫なのでしょうか?

 斉藤さんのような帰国日本人妻の証言が貴重なことはいうまでもありません。日本人だけでなく、韓国の人たちや国際社会にとっても。(毎度思うことですが、慰安婦問題のせめて半分でも関心を持ってほしいものです。) 民間団体だけでなく、国やマスメディアももっと目を向けるべきだと思います。

※YouTubeで、斉藤さんご自身の証言がupされていました。(→コチラ。3回に分けられています。)

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