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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その19)─「アヒヤケ(相舅)」の佐々木広綱

2023-03-19 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p312)

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 去〔さ〕テ秀康ハ院宣蒙〔かうぶ〕リ、三浦判官胤義ヲ請ジ寄セ、軍〔いくさ〕ノ僉議〔せんぎ〕始ケリ。「伊賀ノ判官光季可討由〔うつべきよし〕院宣蒙リタルハ、何日カ可討。又和殿ハ彼〔かの〕判官ト若〔わかく〕ヨリ一所ニ生立〔おひたち〕テ、心ノ程ハ知給タルラン。心得バヤ」ト申ケレバ、平判官是ヲ聞テ、「加様ニ打解〔うちとけて〕被仰〔おほせらるる〕コソ神妙〔しんべう〕ニ候エ。五月十五日ニ討タルベシ。光季ハヨナ、徒立〔かちだち〕・馬ノ上、沙汰ニ及バズ、精兵〔せいびやう〕而〔にて〕、打物〔うちもの〕取テハ、又無比〔たぐひなく〕、心サスガノ男ニテ候ゾ。左右〔さう〕ナク寄テ打〔うつ〕ナラバ、容易〔たやすく〕ハ難打得〔うちえがたし〕。御所ノ召〔めさ〕レテ、大庭〔おほには〕ニ取籠〔とりこめ〕テ可被討〔うたるべき〕也。召〔めす〕ニ不参〔まゐらざる〕者ナラバ、果報任〔まか〕セニ寄〔よせ〕テ可討」トゾ相議〔あひぎ〕シケル。
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三浦胤義は「加様ニ打解被仰コソ神妙ニ候エ」などと言いますが、二人は既に「心静ニ一日酒盛」をした仲であって、その際、胤義は「神妙也トヨ。能登殿」と言った後に空想的な義時追討計画をベラベラ語りまくっていますから、今更、「打解」云々はちょっと妙な感じがしますね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その13)─三浦胤義の義時追討計画
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1787ddf4512e00a2bb9842534060ed8

また、流布本では伊賀光季と三浦胤義との間に特別な交流があったようには描かれていませんが、慈光寺本では「若ヨリ一所ニ生立テ、心ノ程ハ知」る間柄に設定されており、胤義は光季がいかに武人として優れているかを秀康に語りまくります。

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 サ申程〔まうすほど〕ニ、十四日ニモ成ニケル。山城守広綱ト伊賀ノ判官光季トハ、アヒヤケ也ケレバ、山城守此由〔このよし〕聞付テ、伊賀ノ判官ニ知ラセバヤト思〔おもひ〕、喚寄〔よびよせ〕テ酒盛シテ、打解〔うちとけ〕テ遊ビ申ケルハ、「判官殿、今日ハ心静〔こころしづか〕ニ遊ビ玉ヘ」トテ、追座ニ成テワリナキ美女召出シ、酌ヲ被取〔とられ〕テ、其ヲ肴ニテ、今一度トゾ勧メケル。光季心行〔こころゆき〕テ打解ケレバ、申様〔まうすやう〕、「此程、都ニ武士アマタ有ト承ル。何事故〔なにごとゆゑ〕ト難心得〔こころえがたし〕。過シ夜ノ夢ニ、宣旨ノ御使三人来〔きたり〕テ、光季張〔はり〕テ立タル弓ヲ取テ、ツカヲ七ニ切〔きる〕ト見テ候ヘバ、万〔よろ〕ヅ心細クアヂキナク候也。今日ノ交遊〔かういう〕ハ思出〔おもひいで〕ニコソ仕ラメ」トゾ云ケル。山城守是ヲ聞〔きき〕、弓矢取身〔とるみ〕ハ、今日ハ人ノ上、明日ハ身ノ上ト云事ノ有物ヲ、知セバヤトハ思ヘ共、光季ガ打レナン次日〔つぎのひ〕ハ、御所ニ聞食〔きこしめし〕、「広綱コソ中媒〔ちうばい〕シタリケレ。奇怪也」トテ、頸ヲ召〔めさ〕レン事、一定ナリ。乍去〔さりながら〕、余所〔よそ〕ノ様ニテ知セバヤト思ヒ、光季ニ申ケルハ、「院ハ何事ヲ思食ヤ覧。都中ニ騒事共〔さわぐことども〕有ト承ル。此世中ノ習〔ならひ〕ナレバ、人ノ上ニヤ候覧、身ノ上ニヤ候覧。若〔もし〕事モアラン時ハ憑〔たの〕ミ申ベシ。又憑マセ玉ヘ」トゾ云ケル。
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再び「酒盛」して「打解」て「心静」に語り合うというパターンとなっていますが、慈光寺本作者のストーリーの組み立て方はいささか単調な感じがしないでもないですね。
ま、それはともかく、ここで気になるのは佐々木広綱の存在です。
流布本では伊賀光季は西園寺公経の家司・三善長衡から後鳥羽院の動きが怪しいという警告を受け、五月十四日には後鳥羽から高陽院に来るように呼ばれますが、出向きません。
そして、十四日の夜は遊女・白拍子を交えた最後の宴席で酒を飲んで、翌日の攻撃を待ちます。
これに対し、慈光寺本では十四日に佐々木広綱が光季を招いて宴席を設けたとしており、後鳥羽が光季を御所に召喚したのは十五日で、しかも同日に攻撃もするという慌ただしい展開です。
流布本の時間の流れは自然ですが、慈光寺本では十四日に佐々木広綱と光季の宴席を入れたために、いささか無理の多いスケジュールとなっているように思われます。
さて、佐々木広綱が何故に光季との宴席を設けたかというと、「山城守広綱ト伊賀ノ判官光季トハ、アヒヤケ也ケレバ」、即ち互いの息子と娘が結婚している間柄なので、後鳥羽が光季攻撃を計画していることを「伊賀ノ判官ニ知ラセバヤト思」ったからです。
ま、結局、後鳥羽の処罰を恐れて、その旨を告げることはできず、互いに「弓矢取身」として、今日は誰かに、明日は自分に何かが起こる可能性があるけれども、そのときはお互いに助け合いましょう、お頼みします、みたいな曖昧な話でお茶を濁した、というストーリー展開です。
ところで、「アヒヤケ」(相舅)の具体的な事情ですが、少し後に「判官次郎ハ広綱ニハ烏帽子子ナガラ聟ゾカシ」(p319)とあり、「アヒヤケ」は光季の息「判官次郎」寿王が佐々木広綱の娘を妻としていることを示します。
この点、流布本では寿王は佐々木高重の烏帽子子であって、かつ、高重の娘と婚約しているという設定になっています。
佐々木広綱は佐々木秀義を父とする「佐々木四兄弟」の長男・定綱(1142-1205)の嫡男であり、他方、佐々木高重(?-1222)は「佐々木四兄弟」の次男・経高(?-1221)の嫡男で、広綱・高重は従兄弟の関係となります。
また、佐々木広綱は下巻で膨大な分量の記事がある勢多伽丸(1208-1221)の父でもあります。
『承久記』において、他とバランスを失するほど大量の記事というと、上巻では伊賀光季追討エピソード、下巻では勢多伽丸エピソードが挙げられますが、これは流布本でも慈光寺本でも共通です。
この二つのエピソードの両方に佐々木氏が関係している点は興味深く、特に慈光寺本の場合はいずれも佐々木広綱絡みです。
これはやはり流布本・慈光寺本の作者と佐々木氏の間に何らかの関係があることを窺わせますが、その検討は勢多伽丸エピソードを紹介した後で行うつもりです。
ま、現時点ではまだ詰め切れていないので、書こうにも書けないのですが。

佐々木広綱(?-1221)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%BA%83%E7%B6%B1
佐々木高重(?-1222)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E9%AB%98%E9%87%8D
勢多伽丸(1208-21)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A2%E5%A4%9A%E4%BC%BD%E4%B8%B8

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