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慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その10)─流布本における藤原秀康

2023-08-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
宇治川合戦において藤原秀康・三浦胤義等は「遊軍」だったのではないか、という私見に対しては、供御瀬(食渡)から宇治橋への移動が容易だったのか、という批判があり得ると思います。
現在でも供御瀬(大津市田上黒津町)から宇治橋への移動はけっこう大変そうですが、山地ではあってもそれほど急峻な地形ではなく、騎馬による移動は充分可能だったように思われます。
ただ、古道の状況など、もう少し調べてみたいと思います。
さて、流布本に描かれた尾張川合戦における三浦胤義と藤原秀康の応答の場面、ずいぶん情けない話なので私も全く注目していなかったのですが、もしかしたらこれは流布本で唯一、藤原秀康を「総大将」として描いた場面なのかもしれません。
藤原秀康は『尊卑分脈』に、

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鴨幷賀茂両社台飯此時初置之次下上社間河堤以一日中築進之大内紫宸殿已下造進 次鳥羽殿十二間御厩令造進之後鳥羽院御厩奉行并御牛飼以下奉行同院〔わまか无〕北面西面又備中備後美作越後若狭等〔わまか守〕国一度給之滝口左兵衛尉有官兼任主馬首 左衛門尉 下野守 武者所 上総介 若狭守 伊賀守 河内守 備前守 淡路守 使大夫尉 右馬助 乃登守 承久三年兵乱時院御方総大将初度向美乃国豆戸追手大将軍也合戦之後於河内国佐良々自害了

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e47138a28ae290a111c2d8afc34d3574

とあって、「承久三年兵乱時院御方総大将」と明記されているものの、史料で「総大将」らしい具体的な行動を探そうとすると意外に困難です。
流布本の場合、秀康が最初に登場するのは、

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平九郎判官胤義、大番の次〔つい〕で在京して候ければ、院、此由被聞召て、能登守秀安を被召て、「抑〔そもそも〕胤義は関東伺候の身として、久〔ひさしく〕在京するは何事ぞ。若〔もし〕存ずる旨あるか。尋きけ」と被仰ければ、秀安承て、雨ふり閑〔しづか〕なる夜、平九郎判官胤義を招寄て、門指固〔さしかため〕て、外人をば不寄、向ひ居て酒宴し遊けり、【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ab28fe2da880962508ac1cc20f951306

と(『新訂承久記』、p56以下)、後鳥羽院の指示を受けて、三浦胤義を味方にできるかを探るために胤義を招いて酒宴を催す場面です。
ついで、伊賀光季追討場面に、

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 院の御所より討手の大将には、能登守秀安・平九郎判官胤義・少輔入道近弘・山城守広綱・佐々木弥太郎判官高重・筑後入道有則・下総前司盛綱・肥後前司有俊・筑後太郎左衛門尉有長・間野左衛門尉時連、此等を始として八百余騎にてぞ向ける。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/12f7a2664bc4296dea94aabcdd4a942f

と「討手の大将」の筆頭に名前が挙げられますが(p64)、十人中の一人であって、特に活躍もしません。
そして、「推松」帰洛後の軍勢手分において、

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 先〔まづ〕討手を可被向とて、「宇治・勢多の橋をや可被引」「尾張河へや向るべき」「尾張河破れたらん時こそ、宇治・勢多にても防れめ」「尾張河には九瀬有なれば」とて、各分ち被遣。【中略】大豆渡〔まめど〕へは能登守秀安・平九郎胤義・下総前司盛綱・安芸宗内左衛門尉・藤左衛門尉、是等を始として一万余騎にてぞ向ひける。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dad3e44432e0103895943663b061f5ce

とありますが(p79)、別に秀康が軍勢の配置を決めている訳でもありません。
しかし、大豆渡から逃亡する場面では、大炊渡(大井戸)を渡った鎌倉方の武田・小笠原勢に三浦胤義が向かおうとしたところ、

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能登守、被申けるは、「已大炊渡破れて、東山道の大勢打入たり。後ろを被推隔〔おしへだてられ〕、中に被取籠〔とりこめられ〕(ては)勇々敷〔ゆゆしき〕大事也。平九郎判官殿宣〔のたま〕ふは、事可然共不覚。君も『尾張河破れ(な)ば、引退て宇治・勢多を防げ』とこそ被仰下候しか。秀安に於ては罷上る成〔なり〕」とて引退く。平九郎判官、口惜は思へ共、宗徒の者共角〔かく〕云間、力不及引て落行けり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6024daabee36d9b91265f6459d2ecaf3

ということで、三浦胤義にとって秀康は「宗徒の者」であり、秀康は三浦胤義にも命令できる上級指揮官です。
そして大豆渡が全軍の約六割が配置された主力軍である以上、そこでの最上位者である秀康が全軍の「総大将」と考えることもできそうです。
もっとも、秀康は武人としての識見・実力で三浦胤義を圧倒している訳ではなく、あくまで「君」、後鳥羽院がこう仰っていた、と後鳥羽院の威光に頼っているだけですから、情けない「総大将」ではありますね。
そして、叡山御幸が何の成果も得られずに終わった後の軍勢手分の場面に、秀康は、

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 月卿・雲客、「去にても打手を可被向〔むけらるべし〕」とて、宇治・勢多方々へ分ち被遣〔つかはさる〕。山田二郎重忠・山法師播磨竪者〔りつしや〕・小鷹助智性坊・丹後、是等を始として、二千余騎を相具して勢多へ向ふ。能登守秀安・平九郎判官胤義・少輔入道近広・佐々木弥太郎判官高重・中条下総守盛綱・安芸宗内左衛門尉・伊藤左衛門尉、是等を始として一万余騎、供御瀬〔くごのせ〕へ向ふ。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fde6f8f4637a2ebd9a5eb48ae5ae427

と登場しますが(p99)、軍勢手分の主体は「月卿・雲客」であり、秀康が「総大将」として決定している訳ではありません。
この後は秀康は戦闘場面で活躍することもなく、敗北後に、

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 去程に、京方の勢の中に能登守秀泰・平九郎判官胤義・山田次郎重忠、四辻殿へ参りて、某々帰参して候由、訇〔ののし〕り申ければ、「武士共は是より何方へも落行」とて、門をも開かで不被入ければ、山田次郎、門を敲〔たたい〕て高声〔かうじやう〕に、「大臆病の君に語らはされて、憂に死せんずる事、口惜候」と訇ける。平九郎判官、「いざ同くは坂東勢に向ひ打死せん。但し宇治は大勢にて有〔あん〕なり。大将軍の目に懸らん事も不定〔ふぢやう〕也。淀へ向ひ死〔しな〕ん」とて馳行けるが、東寺に引籠る。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b53c80a818239c07d4e8e88f9eb868cd

と(p122)、三浦胤義・山田重忠とともに四辻殿に報告に行きます。
ただ、山田重忠と三浦胤義の最後の戦い、そして各々の自害が相当に詳しく描かれるのに対し、秀康については、

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 又、安西・金鞠が進みしかば、能登守・山田次郎も落にけり。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0b1c777b2beb73162b85b9f613f0cc

で終わっていて(p123)、本当に呆気ないですね。
このように流布本での藤原秀康は本当にあっさりと描かれていて、唯一「総大将」らしい雰囲気がない訳でもない大豆渡からの逃亡の場面でも、せいぜい勇猛な三浦胤義の引き立て役です。
ところで、慈光寺本での秀康は流布本よりは活躍していますが、それでも「総大将」が適切な表現なのか、いささか微妙なところがあります。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その54)─藤原秀康の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd430ee4bfd4308d15a9a66252b9c682
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