「四 秀康の国衙支配」の本文には秀能は登場しませんでしたが、一番最後の「つまり、秀康は後鳥羽院によって諸国支配の中核として位置づけられていたと言うことができよう」に付された注(92)には、
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(92)なお三月二一日付の前大和守成光書状(『民経記』寛喜三年七月記紙背文書九ウ)に見える「河内国司」は秀能のことであろうか。とすれば秀能も造営に関係していたということになる。
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とあります。
さて、慈光寺本への言及の多い第五節に入ります。
今まで私は、平岡氏の緻密な考察に感心しながら引用してきたのですが、これから先は些か微妙です。
まあ、私も別に平岡氏が間違っていると言いたい訳ではないのですが、私には特に疑問が感じられない点を平岡氏は妙に重視されるなど、私とはバランス感覚がかなり異なるような印象を受けています。
ただ、これから先、慈光寺本と流布本を読んで行くための予備知識としては役立つ記述が多いので、丁寧に引用したいと思います。(p28以下)
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五 秀康と承久の乱
『六代勝事記』に「五月十五日二、太上天皇〔後鳥羽〕、天宝〔ママ〕のむかしにひとしく兵をめして、洛陽の守護廷尉光季〔伊賀〕を討せられ、追討使をわかちつかはすにおよひて、二品禅尼〔北条政子〕、有勢の武士を庭中に召あつめてかたらひていはく、各心を一にしてきくへし、是ハ最後の詞也、(中略)、朝威をかたしけなくする事は、将軍四代のいまに露あやまる事なきを、不忠の讒臣等天のせめをはからす、非義の武芸にほこりて、追討の宣旨申くたせり、(中略)、恩をしり名をおしまむ人、秀康・胤義をめしとりて、家をうしはハす、名をたてむ軍をおもはすやと、是をきくともから、なみたにむせひて、返事を申にくわしからす」という一節がある。北条政子が去就に迷う御家人の心を一つにし、幕府の軍勢の発向を可能にさせた演説として有名なものである。ここで注目されるのは、討ち取るべき対象として秀康と胤義の名が挙げられていることである。五月一九日に北条義時追討宣旨・源光行の副状・東士交名注進状を所持して東下してきた秀康の所従押松丸が鎌倉で捕縛され、また挙兵を勧める胤義の書状が届けられた三浦義村はこれを義時に報じているので、実際に政子が二人の名を挙げた可能性もある。けれども、胤義が関東の雄族三浦氏の一員でありながら兄に挙兵を勧めたことで、重要な役割を担っていると認識されたことは思い至るにしても、秀康についてはその所従が使者として派遣されたというだけでは説明が付けにくいであろう。これが政子の言葉であるなら、秀康よりも、関東御家人でありながら副状と東士交名を註進した源光行の名も挙げてしかるべきである。「追討使をわかちつかはすにおよひて」とある点からすると、追討使が分遣されることになった時点の状況がこの一節に反映している可能性が大きい。すなわち、秀康がなんらかの重要な役割を与えられていたことを知っていた作者が、執筆にあたって名を織り込んだと思うのである。
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「五月一九日に北条義時追討宣旨・源光行の副状・東士交名注進状を所持して東下してきた秀康の所従押松丸が鎌倉で捕縛され」とありますが、これは『吾妻鏡』承久三年五月十九日条に「自葛西谷山里殿辺召出之。称押松丸<秀康所従云々>。取所持宣旨并大監物光行副状。同東士交名註進状等」とあるのに拠っています。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm
平岡氏は注(94)で「押松は慈光寺本『承久記』では「院下部」である」と書かれていますが、正確には「院御下部」(岩波新大系、p324)ですね。
また、流布本では「推松」という字で、「院宣ノ御使」(『新訂承久記』、p71)となっています。
さて、平岡氏は「これが政子の言葉であるなら、秀康よりも、関東御家人でありながら副状と東士交名を註進した源光行の名も挙げてしかるべきである」と源光行の存在を重視されますが、源光行については『吾妻鏡』承久三年八月二日条に、
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大監物光行者。清久五郎行盛相具之下向。今日已剋。着金洗沢。先以子息太郎。通案内於右京兆。早於其所。可誅戮旨。有其命。是乍浴関東箇所恩沢。参 院中。注進東士交名。書宣旨副文。罪科異他之故也。于時光行嫡男源民部大夫親行。本自在関東積功也。漏聞此事。可被宥死罪之由。泣雖愁申。無許容。重属申伊予中将。羽林伝達之。仍不可誅之旨。与書状。親行帯之馳向金洗沢。救父命訖。自清久之手。召渡小山左衛門尉方。光行往年依報慈父〔豊前守光秀与平家。右幕下咎之。光行令下向愁訴。仍免許〕之恩徳。今日逢孝子之扶持也。」
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-08.htm
とあります。
現在では源氏学者として有名な源光行は幕府から数か所の所領をもらった御家人でしたが、「東士交名」を注進し「副文」を書いた罪で、いったんは義時が光行を処刑するように命じます。
しかし、息子「源民部大夫親行」の必死の嘆願と「伊予中将」(一条実雅)の口添えで何とか首がつながった訳ですね。
ただ、結局、こうした穏やかな処分で済んだのは、光行が「合戦張本」でも何でもなくて、命ぜられるままに文書を書いただけの人であることが分かっていたからです。
幕府も別に紙切れだけを見て処罰を決めた訳ではなく、実質的な役割の軽重を判断した上で、それに応じた処罰をしていますね。
平岡氏はこの後、「追討使」にこだわって複雑な議論をされますが、その論理を見てから私見を少し述べたいと思います。
源光行(1163-1244)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E8%A1%8C
源親行
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%A6%AA%E8%A1%8C
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