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伊賀光季追討記事、流布本と慈光寺本の比較(その2)

2023-03-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続いて、実際に戦闘が始まってからの異同です。

(11)流布本では「討手の大将」として「能登守秀安・平九郎判官胤義・少輔入道近弘・山城守広綱・佐々木弥太郎判官高重・筑後入道有則・下総前司盛綱・肥後前司有俊・筑後太郎左衛門尉有長・間野左衛門尉時連」の十名が列挙されているが、慈光寺本にはこれに相当する記述はない。なお、「少輔入道近弘」は大江親広であるが、流布本でもここに名前が出て来るのみ。慈光寺本には大江親広への言及なし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/12f7a2664bc4296dea94aabcdd4a942f

(12)流布本では、光季側は当初「小門」だけを開けて討手を入れ、後に京極面の「大門」も開けるという二段階で対応するが、慈光寺本では光季の命令でいきなり京極面の「大門」を開ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83f4411ce826c0e7e2ede1d6616eb1eb

(13)流布本では最初の「小門」での戦いに「平九郎判官の手者」として「信濃国住人志賀五郎」「同手者、岩崎右馬允」「同手者、岩崎弥清太」「一門成ける高井兵衛太郎」が登場するが、慈光寺本には「小門」の戦いがないので、これらの者も登場しない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c2008e1b27068f6e8451c443891fff45

(14)流布本では「大門」での戦いの討手側の一番手として「間野左衛門尉時連」が登場するが、光季に射られて直ぐに退く。慈光寺本には同名の者は登場しない。

(15)慈光寺本では「大門」での戦いに「打入人々、一陣ニ平判官胤義、二陣草田右馬允、三陣六郎左衛門、四陣刑部左衛門、五陣山城守広綱」とあるが、流布本にはこれに相当する記述はない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83f4411ce826c0e7e2ede1d6616eb1eb

(16)流布本では「大門」での戦いの二番手として三浦胤義が登場し、光季と問答の後、光季が射た矢が胤義には当らず、胤義と並んでいた「播磨国住人原田右馬允」の首骨に当たり即死。慈光寺本では、「大門」での戦いの最初に三浦胤義が登場し、光季と長い問答をすると「草田右馬允」が攻撃を催促し、これを受けた胤義が光季に矢を射るも当たらず。光季が射返すと、胤義をかすめて「二陣」の「草田右馬允」の首骨に当たり、落馬。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4e1efa6121522e5ce8fd795c45cd9e70

(17)流布本では「大門」での戦いの三番手として「佐佐木弥太郎判官高重」が登場。これを見た寿王が「兼ては、子にせん親に成んと御約束」した高重からもらった矢を高重に射て、高重の鎧に当てるが射通せず。高重はその矢を引き抜いて「人々」に見せ、「烏帽子きせ、聟に取ん迄約諾」した寿王の立派さを誉め、そうした関係であっても戦わなければならない武士の身を悲しく感じ、その日の戦闘は中止。周囲の「人々」も同情して涙を流す。これに対し、慈光寺本では寿王の烏帽子親であり、寿王を聟に取ったのは佐々木高重ではなく、その従兄弟の佐々木広綱。そして、広綱が光季に名乗りを上げたところ、光季は自身は相手をせず、寿王に「舅ノ山城守ノ見参」を命じる。寿王が「元服ノ時給ハリタリシ矢奉返」として広綱に矢を射ると、「鎧ノ袖」に当たる。これを見た広綱は門外に出て、「殿原」に「十四ニ成判官次郎ガ射タル弓勢ノハシタナサ」を語るが、これを聞いた「間野二郎左衛門尉」宗景が「弓矢取ノ道心事ハ有ベカラズ」と批判。間野はこの後、剣を抜いて光季・治部次郎・「仁江田三郎父子三騎」・「伊加羅武者」を圧倒するが、「伊加羅武者」の首を取ろうとして俯いたところを光季に射殺される。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/514d5b63524ac02e483e15a3e893dc93

(18)流布本では贄田三郎・四郎・右近の三人のうち、三郎・四郎は最後まで奮闘するが、慈光寺本では「二江田三郎父子三騎」は「間野二郎左衛門尉」宗景にあっさり殺されるだけの役割。

(19)慈光寺本では、光季の「メノトゴ(乳母子)」だという「治部次郎」が高陽院に偵察に行くなど重要な役割を演じているが、流布本では「メノトゴ」か否かは記されず、また光季に命じられて寿王に物具を着せたり、「大門」を開く程度の役割のみ。

(20)慈光寺本では「政所太郎」が「落残タル勢ドモ」に光季・寿王を加えた三十一騎で包囲を突破し、後鳥羽のいる高陽院に攻め込んで戦い、負けたら「御簾ノ隙ヨリ御殿ニマイリ、十善ノ君ノ御膝ヲ枕トシテ、自害仕覧」という提案をするが、光季に却下される。光季は却下の理由として、「治部次郎」と「政所太郎」以外の郎等は門外に出たら逃亡すると言い、配下への信頼感が乏しい。流布本では「政所太郎」は名前が出て来るだけで、このような提案もしない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83f4411ce826c0e7e2ede1d6616eb1eb

(21)流布本では、光季は寿王に「案内者の冠者原七八人」を付けて鎌倉に逃がすつもりだったが、寿王がこれを拒否。慈光寺本では光季と寿王の話し合いはない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/12f7a2664bc4296dea94aabcdd4a942f

(22)流布本では光季から自害を命じられた寿王は、最初、切腹しようとするが出来ず。その後、父から火に飛び込むように言われるが、やはり躊躇う。慈光寺本では切腹の試みはない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/462f779be347631f2ac4daa36ac65905

(23)慈光寺本では光季が「政所太郎」に自邸を火にかけるように命ずるが、流布本ではそのような場面はなく、討手側と防御側のどちらが火をかけたのかははっきりしない。

(24)自害に当たって、流布本では光季は「南無帰命頂礼鎌倉八幡大菩薩・若宮三所、権大夫(が)為に、命を王城に捨置ぬ」と鎌倉の八幡大菩薩に祈っているが、慈光寺本では「南無帰命頂礼、八幡大菩薩・賀茂・春日、哀ミ納受ヲ垂給ヘ」と祈っており、賀茂・春日と並べているので石清水の「八幡大菩薩」へ祈ったことになる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/638fe2866f581171f1821f3e3a03e7e9

(25)慈光寺本では光季は「政所ノ太郎手ヲ取チガヘテ」火に飛び込むが、流布本では「政所ノ太郎」は登場せず、また、光季は「腹掻切て、寿王が焼けるに飛加り、打重てぞ焼にける」とあって、光季は腹を切った後に火に飛び込んでいる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/462f779be347631f2ac4daa36ac65905

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伊賀光季追討記事、流布本と慈光寺本の比較(その1)

2023-03-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

伊賀光季追討記事は、単一の話題としては流布本と慈光寺本のいずれにおいても一番分量が多いのですが、ここで改めて流布本と慈光寺本の比較を行ってみます。
まず、分量については、慈光寺本の場合、『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)では上下巻で71ページ、合計1044行ある中で、伊賀光季追討記事は163行であり、

163/1044≒0.156

となって、全体の約16%を占めます。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その5)─数量的分析
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ef2c3462c18b57069e06b1d9bc07a00e

流布本についてはこうした計算をしていませんでしたが、松林靖明校注『新訂承久記』(現代思潮社、1982)では、上巻は46~97頁までの52ページ、下巻は98~146頁までの49ページ、合計101ページあり、1頁は原則として16行です。
ただ、小見出しを含んでいるために実質15行のページも多く、16行のページが48、15行が45、14行が4、10行が3、1行が1ページあります。
従って、上下二巻は全部で、

 16×48+15×45+14×4+10×3+1×1=1530行

となります。
そして、伊賀光季追討記事は11ページ、147行なので、

147/1530≒0.0960

となって、全体の約10%を占めます。
これは慈光寺本ほどではありませんが、相当な割合であり、承久の乱における一番最初の戦闘としての重要性を考えても妙に多い感じは否めません。
なお、『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』は原則として1行あたり35字、『新訂承久記』は原則として1行あたり31字なので、記事の絶対量は、

163×35=5705
147×31=4557

となり、

5705/4557≒1.252

ですから、流布本と比較すると、慈光寺本は記事の絶対量でも25%ほど多いですね。
さて、算数の計算はこれくらいにして、記事の内容を比べてみると、相当に異同がありますね。
細かな異同を数え上げたらキリがありませんが、例えば以下のような点が異なります。

(1)流布本は後鳥羽が二人の京都守護、「親広法師・伊賀判官」への対応を三浦胤義に相談しているのに対し、慈光寺本では後鳥羽院藤原秀康に「義時ガ縁者検非違使伊賀太郎判官光季」の追討を命じており、大江親広への言及がない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55631e5f49bc5c20cfdc0355c7f41c75

(2)流布本では後鳥羽の動向を怪しんだ西園寺公経が家司・三善長衡を使者として光季に警告するが、慈光寺本にはそのような記述はない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ab28fe2da880962508ac1cc20f951306

(3)流布本では西園寺公経と息・実氏が後鳥羽の命を受けた二位法印尊長に拘禁された記事の後に光季追討記事が載るが、慈光寺本では光季追討が終わった後に、二人の拘禁の事実のみが記される。

(4)後鳥羽が伊賀光季を召喚したのは、流布本では五月十四日であるのに対し、慈光寺本では十五日。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/422822e0c9ffb2833456343af7b5b0e7

(5)慈光寺本では十四日に佐々木広綱が光季を招いて酒宴を催すが、流布本にはそのような記事はない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/625f1f6ec356fe05e45c0dffd5a61aa4

(6)流布本では十四日の深更に「判官の郎従等」が「軍の僉議」をして、鎌倉へ逃げることを提案するが、光季はこれを拒否する。その結果、逃亡者が出て、結局二十七人が残る。
これに対し、慈光寺本では光季の発言中に「此等之家子・郎等ナドスベテ議シケルハ」とはあるが、配下一同の「僉議」があったか否かははっきりしない。残った人数は二十九人。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/12f7a2664bc4296dea94aabcdd4a942f

(7)流布本では自身は自邸に留まることを決意した光季が、嫡子寿王を呼び「案内者の冠者腹七八人相具して」鎌倉まで逃げるように言うが、寿王はこれを拒否。これに対し、慈光寺本では光季と寿王の話し合いはない。

(8)流布本では十五日に攻撃があることを知った光季が「年比馴遊びける好色・白拍子、其外志深き男女の類ひ」を招いて最後の宴を催し、「財宝の有限り」を「形見」として分け与え、「暁近く」に退去させるが、慈光寺本では光季は佐々木広綱との酒宴の後、「暮方」に自邸に戻って「白拍子春日金王」を呼んで「終夜、宴遊」したとあるだけで、酒宴に最後の別れの意味がない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b3dc644f79d6ac5103361a8c1fb58aa

(9)慈光寺本では「十五日ノ朝」に三度の召喚があった後も、光季は直ちに攻撃を受けるとは予想せず、乳母子の治部次郎光高を高陽院まで偵察に出し、治部次郎は途中で「打手ノ使一千余騎」に出会った後、「京童部」に光季追討の軍勢だと教えてもらい、走り帰る。治部次郎の報告を聞いた光季は、最初に「遊者共」に「テンドウ」を与える指示を出し、「別ノ盃」を交わしてから送り出す。「遊者共」はずいぶん遅くまで光季邸にいたことになる。
これに対し、流布本では十五日は直ちに戦闘場面となる。

(10)討手の数は慈光寺本が「一千余騎」であるのに対し、流布本は「八百余騎」。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b3dc644f79d6ac5103361a8c1fb58aa
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/12f7a2664bc4296dea94aabcdd4a942f

少し長くなったので、実際の戦闘が始まった後の異同については次の投稿で書きます。

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