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流布本の作者について(その1)

2023-03-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

※追記(2023年4月24日)
流布本作者を藤原秀能とする仮説は無理が多く、全面的に撤回しましたが、この記事はそのまま残しておきます。

流布本作者=藤原秀能との仮説は全面的に撤回します。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ab913546709680fe4350d606a965d81

 

ちょっと早すぎるかもしれませんが、伊賀光季追討記事について流布本と慈光寺本の比較を終えた段階で、流布本の作者についての私の仮説を提示しておきたいと思います。
今月13日の「第一回中間整理(その1)」で纏めておいたように、私は、渡邊裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)で藤原能茂の登場の仕方に極めて奇妙な点があることに気付き、ついで田渕句美子氏の「藤原能茂と藤原秀茂」(『中世初期歌人の研究』所収、笠間書院、2001)で藤原能茂の娘が三浦光村室となっていることから、

1.慈光寺本の作者は藤原能茂
2.能茂が想定した読者は娘婿の三浦光村
3.慈光寺本の目的は光村に承久の乱の「真相」を伝え、「正しい歴史観」を持ってもらうこと

という仮説を立てています。

第一回中間整理(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff3509b1f4471cb702cb80ee133f2c8d

こうした仮説に基づき、慈光寺本の比較対象として流布本を眺めると、流布本には次のような特徴が窺えます。

(1)流布本作者は承久の乱の結果、「王法尽させ給ひて、民の世になる」という基本認識を抱いているが、慈光寺本作者にはこのような認識はない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32a46bb4cf85d781d154b2aeb8ee3568

(2)北条義時が最初に登場する際、慈光寺本作者は北条義時を「右京権大夫義時ノ朝臣」と呼び、「朝ノ護源氏ハ失終ヌ。誰カハ日本国ヲバ知行スベキ。義時一人シテ万方ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍フベキ」と野心を剥き出しにした人物として描くが、流布本は「右京権大夫兼陸奥守平義時」と正式な名称で呼んだ上で、「上野介直方に五代の孫、北条遠江守時政が次男なり。権威重くして国中に被仰、政道正しうして、王位を軽しめ奉らず。雖然、不計に勅命に背き朝敵となる」とし、立派な人物として肯定的に描いている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1a1031fce50f664d8ae8a9c21359b332
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec7ed809036d4fd2ce63e21e96d32b82

(3)流布本で徳大寺公継が後鳥羽院に諫言するに際し、公継が「大形、今度の御謀叛、於公継は、可然とも不覚候」と言ったとするが、仮にこれが事実だとしても公継が後鳥羽院に対して「御謀叛」という表現を使うはずはなく、これは流布本作者の思想的立場を示す表現。流布本作者は承久の乱全体を後鳥羽院の「御謀叛」とし、律令法の大系では説明できない法秩序の存在を認めている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ab28fe2da880962508ac1cc20f951306

(4)上下巻全体の結語として、流布本作者は「承久三年、如何なる年なれば、三院・二宮、遠島へ趣せましまし、公卿・官軍、死罪・流刑に逢ぬらん。本朝如何なる所なれば、恩を知臣もなく、恥を思ふ兵も無るらん。日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひと申ながら、賢王逆臣を用ひても難保、賢臣悪王に仕へても治しがたし。一人怒時は罪なき者をも罰し給ふ。一人喜時は忠なき者をも賞し給にや。されば、天是にくみし不給。四海に宣旨を被下、諸国へ勅使を遣はせ共、随奉る者もなし。かゝりしかば関東の大勢、時房・泰時・(朝時)・義村・信光・長清等を大将として、数万の軍兵、東海道・東山道・北陸道三の道より責上りければ、靡かぬ草木も無りけり」と述べており、後鳥羽院は「天」に見捨てられた存在だとし、その批判的姿勢は徹底している。慈光寺本にも若干の後鳥羽批判はあるが、流布本に比べれば微温的。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/22dce396bbb288867bb1c692c425ea59

(5)このように流布本作者は後鳥羽院・北条義時への評価において慈光寺本作者の対極に位置し、両者は思想的立場を全く異にしているが、しかし、伊賀光季追討記事においては、流布本・慈光寺本いずれも伊賀光季の態度を肯定的に描いている。この記事のみならず、全般的に武士のメンタリティに親和的。

(6)ともに三浦一族に関する記事が詳しく、京方の武士の動向では三浦胤義関係記事が特に多い。また、敗戦後の三浦胤義と兄・義村との関係についての記述も詳しく、流布本・慈光寺本の作者は極限的状況における兄弟相克に特別な関心を持っているように思われる。

(7)流布本・慈光寺本ともに伊賀光季追討エピソードと勢多伽丸エピソードを他の記事とバランスを欠くほどの詳細に描いているが、この二つのエピソードは佐々木一族に関係する。そして、伊賀光季追討エピソードで特に印象的に描かれているのは寿王とその実の父親・光季の関係とともに、寿王とその烏帽子親・舅(流布本では佐々木高重、慈光寺本では佐々木広綱)との関係。また、勢多伽丸エピソードでは勢多伽丸の父・佐々木広綱とその弟の佐々木信綱の確執が強調される。こちらでも、流布本・慈光寺本の作者は極限的状況における兄弟相克と(擬制的な関係を含めた)父子相克に特別な関心を持っているように思われる。

以上のように、流布本・慈光寺本の作者は、思想的には対極に位置しながら、ともに三浦一族・佐々木一族との接点を持ち、そして極限的状況における武家一族間の兄弟相克・父子相克に特別の関心を持っているように思われます。
ここで、慈光寺本作者が藤原能茂だとすると、承久の乱において京方に立って戦った人が多い能茂の周辺で、後鳥羽院から多大な恩顧を蒙り、京方の中心となることを期待されながら、京方として戦うのを拒否し、乱後も北条氏との関係が極めて良好だった人物の名前が流布本の作者として浮かんできます。
それは能茂の養父であり、京方の大将、藤原秀康・秀澄の兄弟でもあった藤原秀能です。

藤原秀能(1184-1240)(『朝日日本歴史人物事典』)
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E8%83%BD-15082

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