学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

水戸辺漁港

2012-03-18 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月18日(日)13時27分6秒

南三陸町の水戸辺漁港をアップしました。

http://chingokokka.sblo.jp/article/54504886.html

赤坂憲雄氏が産経新聞に連載している「新章 東北学」の2012年1月23日付「(15)なぜ、いま、民俗芸能なのか」には次の記述がありますが、この中で紹介されている鹿踊りの供養碑も撮ってきました。
なお、このエッセイでは一貫して「水戸部」と書かれていますが、正しくは「水戸辺」ですね。

-----------
 東日本大震災の被災地では、民俗芸能が次々に復興しているようですね。とても興味深く感じています。年が明けてからも、鳥追いやどんど焼きのような小正月の行事が、さまざまに行われたというニュースを見かけました。
 わたし自身は去年の5月末、宮城県の南三陸町を訪ねたとき、津波で壊滅してしまった水戸部(みとべ)という海辺の集落で、60代の男性に聞いた話が印象に残っています。その人は家もすっかり失い、震災から2カ月ぐらい、瓦礫(がれき)の山のなかを探し歩いたといいます。位牌(いはい)も見つからなかったけれど、ふたつの大切な物を見つけた、とうれしそうに話してくれました。
 そのひとつは、指輪でした。かれが海で拾った貝を加工して、奥さんにプレゼントした指輪だということです。とても印象的でした。家という制度を象徴する位牌ではなく、高価な指輪でもなかったのです。被災地で何が必要とされているのか、それをさりげなく物語っているような気がしました。
 もうひとつ、かれが見つけたのが、鹿踊(ししおど)りの太鼓と衣装でした。それをきれいに洗って、生き残った仲間たちと一緒に避難所で踊ったのです。おばあちゃんたちが、それを見ながら泣いたと聞きました。その涙にはいろいろな意味がこもっているように思えます。
 水戸部の鹿踊りは近世半ばには始まったようですが、じつは一度途絶えています。20年ぐらい前に、あらためて一関のほうで学んで復活したのです。それからは子供たちにも教えて、継承のための努力が重ねられてきました。民俗芸能はどこでも、継承者がなくその衰退が危機感をもって語られてきました。それが、津波によってすべてが失なわれた被災地で、何よりも早く復興を遂げている。民俗芸能が秘めている、人と人とをつなぐ大きな力が、思いがけず再発見されようとしているのかもしれません。
 抽象的に文化の復興といっても、なかなか現実には結びつかない。けれども、民俗芸能だけは起(た)ち上がってくる。東北の民俗芸能には、そもそも鎮魂と供養といったテーマが濃密に流れているんですね。鹿踊りもそうだし剣舞(けんばい)などもそうです。あるいは七夕系のねぶたとか竿灯は、災厄を祓(はら)うというテーマをもっています。
 水戸部には鹿踊りの供養塔があって、津波にも流されずに残ったと聞きました。そこには、生きとし生けるものすべての供養のために踊りを奉納する、といった言葉が刻まれているらしい。そうした芸能が〈3・11〉から間もない時期に復興するのは、必然だとも言えますね。犠牲者の鎮魂こそが求められているのですから。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120123/art12012308120002-n1.htm
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戸倉中学校

2012-03-18 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月18日(日)09時13分17秒

南三陸町の戸倉中学校をアップしました。
ここは国道398号線から見上げると結構な高台にあるように思えるのですが、津波浸水高が20.22メートルとのことで、校舎1階まで浸水し、窓ガラスの多くが破壊されています。
校舎より数メートル低い場所にある校庭には仮設住宅が設けられていますが、周辺を見回しても、浸水域外に仮設住宅を設置することは実際上無理ですね。

http://chingokokka.sblo.jp/article/54502691.html

2012年2月25日の朝日新聞には以下の記事がありました。

------------
悲しみ癒えることなく 津波で殉職の教師の一周忌 宮城

 東日本大震災から1年を迎えるのに先立ち、宮城県南三陸町で津波に遭い、43歳で亡くなった中学教師猪又聡さんの一周忌法要が25日、同県登米市内の寺で営まれた。
 猪又さんは、町立戸倉中学校で理科を教えていた。震災直後、学校に避難してきた住民を助けようとして濁流にのまれた。津波で壊滅した戸倉中は一時的に登米市の廃校に移転している。
 3月11日前後は卒業式や入試が重なり、参列しにくい人もいるため、遺族が日取りを前倒しした。雪の中、同僚ら約40人が参列した。
 猪又さんの父で、自らも中学教師だった清さん(78)は「1年間あっという間にすぎた。この悲しみは今後変わるのだろうか」。参列した小野寺由美子校長は「いまだに悔しい気持ちでいっぱい。3月11日が近づくにつれ、かけがえのない人を失ったという気持ちが強くなっていく」と話した。(三浦英之)
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201202250230.html

亡くなった猪又聡氏は戸倉出身ではないのに戸倉に強い愛着を抱いていた熱心な教師だったそうで、検索すると生徒や教職員組合関係者、更に趣味だったというミステリー関係者の哀悼のページが沢山出てきますね。
三浦英之記者は結構良い記事を書いている人なのですが、文中に「津波で壊滅した戸倉中」とあるのは疑問です。
戸倉中学校の建物は立派なもので、1階が浸水しただけで「壊滅」は大げさですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする