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東大地震研の都司嘉宣氏は調査不足

2012-03-22 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月22日(木)09時56分48秒

今日の産経新聞の記事です。

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【温故地震】大震災編 都司嘉宣 大川小学校の惨事 必要だった裏山の避難路

 東日本大震災発生後の1年間に計14回、震災による津波被災地を訪問し、津波の浸水範囲や到達した高さなどの調査を行った。現地で被災者に話を聞かせていただき、津波来襲時の写真や映像も数多く拝見した。そこから生々しく浮かび上がったのは、多くの人々がほとんどなすすべもなく、千年に一度の規模の巨大津波にのみ込まれていった凄惨(せいさん)な実態だ。命を救う方法はなかったのか。私たちは被災ケースを一つ一つ検証し、今後の津波防災の教訓にしなければならない。
 今回は、宮城県石巻市立大川小学校の被災について取り上げる。大川小は、河口から約4キロ上流の北上川南岸の堤防近くにあり、周辺は海抜約2.5メートルのくぼ地となっている。ここで、全児童108人の約7割に当たる74人と、教職員10人が死亡・行方不明となる惨劇が起きた。
 地震発生時、児童らは2階建て鉄筋コンクリート造りの校舎内にいた。大きな揺れを感じ、津波警報の発令を知った教職員は全校児童を校庭に整列させた。その後、少しでも高い場所に児童を移動させようと、海抜6メートルの北上川の堤防に向かって列になり歩いていくうち、川から堤防を乗り越えてきた大津波に、先頭の児童から順にのみ込まれていったという。
 最初にこの話を聞いたのは東京にいるときだった。大川小付近の地図を確認すると、校舎の背後に小高い山がある。「なぜ裏山に登らせなかったのだろう」と不思議に感じた。だが、昨年6月に大川小を訪ねる機会があり疑問は氷解した。させなかったのではなく、できなかったのだ。
 裏山は、ほぼ傾斜角45度の急斜面だった。斜面には津波が到達した位置を示す木札があり、高さは海抜9.4メートル。私はそこまで登ったが、大の大人が草をつかみながら苦心惨憺(さんたん)し、たどりつくのがやっとだった。しかも、震災当日の昨年3月11日、斜面はまだ一面の雪に覆われていたという。とても児童108人を登らせることはできなかったのである。
 津波の防災対策は、千年に一度の巨大津波でも人の命だけは助けられるものでなくてはならない。それでは、大川小のケースでどんな対策があれば、児童の命を救えたのだろう。
 私は、この斜面を楽に歩いて登っていけるような、ジグザグの津波避難路を設けておくべきだったと考える。夜間の発生にも備え、太陽光発電の照明灯も設置しておけば万全だったのではないか。(つじ・よしのぶ 東大地震研究所)

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120322/dst12032208070001-n1.htm

都司氏は「昨年6月に大川小を訪ねる機会があり疑問は氷解した」と書いていますが、その時点では瓦礫が大量に残っていて、周囲の状況をきちんと認識出来なかったのかもしれませんね。
記事の写真が何時撮影されたのか分かりませんが、「津波が到達した位置を示す木札」は木が広範囲に伐採されている部分の比較的下の方にあり、更に下には垂直に近いコンクリート壁が横に広がっています。
都司氏が「大の大人が草をつかみながら苦心惨憺し、たどりつくのがやっとだった」という地点まで進んだルートが今一つよく分かりませんが、コンクリート壁は瓦礫に覆われていて、草付きのところだけを登ったのですかね。
あるいは、向かって左のコンクリート壁の端から右上に進んだのでしょうか。
いずれにせよ、「津波が到達した位置を示す木札」があるところは確かに急斜面で、小学生レベルの判断力があれば、わざわざに登らなくても避難が無理なことを理解できます。
亡くなった児童の父兄が避難すべきだったと主張している場所は、そんな急斜面ではなくて、記事の写真の範囲よりもっと左の方ですね。
ブログでも紹介しておきましたが、私はそこへ実際に行って、小学生でも全く「苦心惨憺」せずに上に行けることを確認しています。
都司氏の文章は至るところ疑問だらけで、「周辺は海抜約2.5メートルのくぼ地となっている」とありますが、釜谷から長面まで、北上川南岸は全般的に低い土地であって、別に大川小学校周辺が窪地という訳ではないですね。
あるいは昨年6月の時点では瓦礫が相当残っていたので、捜索のために瓦礫撤去を優先した大川小学校周辺が窪地のように見えたということなのでしょうか。
また、「大きな揺れを感じ、津波警報の発令を知った教職員は全校児童を校庭に整列させた。その後、少しでも高い場所に児童を移動させようと、海抜6メートルの北上川の堤防に向かって列になり歩いていくうち、川から堤防を乗り越えてきた大津波に、先頭の児童から順にのみ込まれていったという」とありますが、これもきちんとした時系列を踏まえた記述ではないですね。
石巻市教育委員会も、避難が開始されるまで約40分間、何もせずに校庭にとどまって、結果的に貴重な時間を浪費したことを認めています。
津波から一年以上たって、事実関係も相当明らかになっているのに、東大地震研の准教授が何で今頃このレベルの文章を書くのかが理解できないですね。
亡くなった児童の父兄がこの文章を読んだら、あまりにいい加減だと怒り出すでしょうね。

昨年9月11日時点での大川小学校周辺
http://chingokokka.sblo.jp/article/51376866.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/51384328.html

リンク先に載せているのと同じ写真ですが、こちらにも貼っておきます。
一番上のコンクリート壁の上にあるのが「津波が到達した位置を示す木札」で、手がかりのない垂直の壁を登るのはロッククライマーでも困難ですね。
二番目はコンクリート壁の端を横から撮ったもので、ここから「津波が到達した位置を示す木札」まで登ることは可能ですが、登る意味がありません。
この場所に立った人は「津波が到達した位置を示す木札」とは逆の方向に進み、林の中を登って行くのが普通でしょうね。
その林の中から学校を撮ったのが三番目の写真です。
この上にはしっかりとした踏み跡がありました。また、ここに上るまではガラス片等が散乱していて、足元に注意する必要がありますが、津波前は上部と同様の踏み跡があったでしょうね。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6296
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