学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

暫定的な結論

2012-03-24 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月24日(土)21時12分46秒

「大川小学校の裏山(その4)」を追加しました。

http://chingokokka.sblo.jp/article/54611204.html

昨日の訪問を踏まえて、私が現時点で下している暫定的な結論は、意外なことに大川小学校には理想的な避難場所が現実に存在していた、というものです。
ブログの「大川小学校の裏山(その1)」に掲載されている写真をクリックして拡大すると、アドレスの末尾に数字が出てきますが、それを見ると、冒頭の校舎前の空地に車を停めて最初に撮影した写真が「2012_0323_115207-IMG_1406.JPG」で、草付き斜面のコンクリートの平場に登って直ぐに撮影した写真が「2012_0323_115718-IMG_1430.JPGの午前11」となっています。

http://chingokokka.sblo.jp/article/54607605.html

これは私が2012年3月23日の午前11時52分7秒に大川小学校の校舎前にいて、午前11時57分18秒には草付き斜面の平場にいたことを示しています。
経過時間は僅かに5分11秒です。
駐車した時点では、私はコンクリートの平場に登れるなどとは全く思っておらず、慰霊碑を撮影し、下のコンクリート壁周辺までゆっくり歩いて行って、コンクリート壁の裏側にまわり、「津波到達点」のプレートを見上げて踏み跡を辿り、プレートの周辺で周囲を撮影した後、更に上の平場に登って行きました。
その間、私は1406番から1430番までの25枚の写真を撮影していますので、仮に普通に歩いているだけだったら3分程度だったと思います。
都司嘉宣氏は、「裏山は、ほぼ傾斜角45度の急斜面だった。斜面には津波が到達した位置を示す木札があり、高さは海抜9.4メートル。私はそこまで登ったが、大の大人が草をつかみながら苦心惨憺(さんたん)し、たどりつくのがやっとだった。しかも、震災当日の昨年3月11日、斜面はまだ一面の雪に覆われていたという。とても児童108人を登らせることはできなかったのである。」と書かれていますが、「ほぼ傾斜角45度の急斜面」は、実際には特に登るのに困難はなく、私は一度も足を滑らせることなく、草をつかむこともなく、カメラを抱えてごく普通に登りました。
校舎が海抜2.5メートルの場所に存在し、コンクリート壁裏側の登り口は校舎より少なくとも2メートルは高い位置にありますので、プレートの位置が海抜9.4メートルだとすると、実際に登る必要がある草付き部分の高さはせいぜい4~5メートルです。
ちょうど1年経過していますから、草の付き具合は去年と同様だったと考えてよいと思います。
都司嘉宣氏は「大の大人が草をつかみながら苦心惨憺し、たどりつくのがやっとだった」と書かれていますが、「ミツカン水の文化センター」の記事によると、都司嘉宣氏は1947年生まれとのことなので、2011年6月の時点で63ないし64歳とかなり高齢であり、また、写真を見る限り、かなりのメタボ体型の方のようですね。
とすると、「苦心惨憺し、たどりつくのがやっとだった」のは、単に都司嘉宣氏の個人的な事情によるものではないかと思います。

http://www.mizu.gr.jp/fudoki/people/047_tsuji.html

1960年生まれで52歳、都司嘉宣氏より少しマシな程度のメタボ体型である私ですら何の苦労もなく津波到達点のプレートまで、そしてその2メートル上の平場まで登れましたので、身軽な小学生だったら全く楽々だったと思います。
雪が残っていたところで、田舎育ちの土に慣れた元気な子供たちには何の妨げにもならなかったでしょうね。
そして、コンクリートで固められた幅4メートルの平場は、周囲を見渡すのには絶好の場所です。
ここまで登れば、北上川(追波川)を津波がどのように遡上し、どの区域・集落に如何なる被害を与えつつあるかを、リアルタイムで完全に把握することができます。
この点が、父兄の一部が避難先とすべきだったと主張している地点との決定的な違いです。
『河北新報』2011年9月8日付記事が指摘する地点は、確かにそこに登るまでは緩やかですが、上に向かう踏み跡は溝状の地形をひたすら登ることを強いるもので、傾斜も急です。
また、鬱蒼たる木々に囲まれていて、周囲の展望が全く得られません。
ここにいたら、津波がどのような状況にあるのかを全く知ることができないですね。
ただし、この場所は、斜め上方のコンクリートの平場の東端に行く通過点としては非常に良い場所だと思います。
上部の藪の煩わしさだけ我慢すれば、傾斜はコンクリート壁の後ろの草付き部分より緩やかですね。
結局のところ、コンクリート壁の後ろの草付き部分に広い平場があるということさえ誰かが知っていたら、全員が僅か数分で理想的な避難場所に移動できたのではないかと私は考えます。

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大川小学校の裏山

2012-03-24 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月24日(土)11時44分9秒

「大川小学校の裏山」(その1)~(その3)をアップしました。
(その4)を書いてから、現時点での結論をまとめてみます。

http://chingokokka.sblo.jp/article/54607605.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/54607808.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/54608100.html

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津波到達点の上にある平場

2012-03-24 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月24日(土)06時16分44秒

昨日、下の投稿を書いた後、もしかしたら自分が何か根本的な勘違いをしているのかもしれないと思って、大川小学校へ行ってみました。
私の現在の住所から大川小学校までは100㎞程度の距離なので、あれこれ考えているよりはサッサと行って確かめた方が早いですね。
まず、都司嘉宣氏が津波到達点のプレートに登ったルートですが、都司氏はコンクリート壁の西端から裏に廻り込んで、45度の草付きの斜面を登ったのですね。
私は亡くなった児童の父兄が避難すべきだったと主張しているコンクリート壁の東端の方にしか行っていなかったのですが、西端からも行けるし、その方が近いですね。
ただ、津波到達点のプレートは、その水平位置に特に意味があるものではないので、西端から行こうが東端から行こうが、どちらでもよいことです。
今回、実際に津波到達点のプレートまで登って驚いたのは、その地点の上を距離で3メートル弱、高さで2メートルほど登ると、幅が約4メートルのコンクリートで舗装された道路のような平場があったことです。
私は大川小学校は何度も訪問し、裏山の斜面も何度も見上げていたのですが、この平場の存在には気づいていませんでした。
45度の草付き斜面を登ることより、その斜面に留まっていることの方が厳しいので、私は今まで斜面に登る意味が全くないと思っていたのですが、平場が存在しているのであれば話は全く違ってきますね。
後でブログの方にまとめてみます。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6299


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