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二条師忠と即位灌頂(その1)

2017-12-25 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月25日(月)12時40分50秒

国文学者が『増鏡』に関して「通説」という場合、それは日本女子大学名誉教授・木藤才蔵氏の学説であることが多いのですが、木藤氏がその主著『二条良基の研究』(桜楓社、1987)を出した頃の学説の水準では、二条師忠(1254-1341)など別にたいした人とは思われていませんでした。

木藤才蔵(1915-2014)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E8%97%A4%E6%89%8D%E8%94%B5

そこで、木藤氏を始め『増鏡』の作者を二条良基と考える国文学者たちが、『増鏡』に良基の曾祖父・師忠が奇妙なエピソードの中で登場することに格別の注意を払わなかったとしても、まあ、仕方ないような感じもするのですが、その後、学説の状況が大きく変わりました。
即ち、即位灌頂という儀式に関する研究の進展に伴い、二条師忠が二条家にとってけっこう重要な人物であることが分かって来たのですが、そうだとすると、『増鏡』の作者=二条良基説、ないしその修正説にとって、師忠のエピソードの意味は相当変わってきます。
小川剛生氏はこのような学説の進展を熟知しているばかりか、まさに小川氏こそが即位灌頂の研究を深化させ、二条師忠の重要性を明かにしてきた人です。
『二条良基研究』(笠間書院、2005)にも「第2篇 朝儀典礼」の「第一章 即位潅頂と摂関家」として約50頁の長大な論文が載っていますね。
その「第一節 大嘗会神膳供進の儀と即位灌頂」の構成を見ると、

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一 はじめに
二 二神約諾史観
三 大嘗会神膳供進の儀
四 二条師忠と即位灌頂
五 寺家即位法と二条家の印明説
六 二条良基と即位灌頂(1)
七 二条良基と即位灌頂(2)
八 おわりに
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ということで、この構成からも二条師忠の重要性が伺えます。
私も昔、即位灌頂にちょっと興味を持って調べたことがあるのですが、ここでは即位灌頂そのものではなく、二条家との関係だけを小川氏の説明に従って確認してみます。
まず、「はじめに」の冒頭、そももそ即位灌頂とは何かというと、

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 即位礼の諸儀の一つで、中世になって発生した特殊な作法に即位灌頂と呼ばれるものがある。具体的には新帝が高御座に昇る際に、手に印を結び、口に明(咒あるいは真言)を誦す所作を指す。正応元年(一二八八)の伏見天皇の例を史料上の初見とし、以後中世・近世を通じ、ほぼ間断なく続いている。
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ということですね。(p145)
「二 二神約諾史観」「三 大嘗会神膳供進の儀」は即位灌頂との比較で置かれているだけなので飛ばして、「四 二条師忠と即位灌頂」を見ると(p150以下)、

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 中世の摂関が、自らの存在理由の一端を大嘗会神膳の儀に見出したとする視点は、即位灌頂についても有効であろう。即位式では新帝が高御座に登壇する際に母后や摂関が扶持する慣例が中古からあって、即位式-摂関-即位法が結びつく前提の一つとして顧みられるべきであろう。
 即位灌頂の実修は鎌倉後期の伏見天皇を初見とする。これはまた二条家の主導によることも知られているので、以下に詳しく検討したい。
【中略】
 ここで注目すべきは、この時、師忠の兄十楽院道玄僧正の勧めがあったことである。
 道玄(一二三七-一三〇四)は二条良実の男、師忠より十七歳も年長で、建長元年(一二四九)十二月、後鳥羽院皇子入道道覚親王より青蓮院門跡を譲られ、建治二年(一二七六)十一月天台座主となった。入滅の前年には准三后宣下された。僧中准后の初例であり、その権勢は頗る大きかった(門葉記巻一二九・門主行状二)。
【中略】
 とすれば道玄こそ、即位灌頂という仏教儀礼を実際の即位式で実修させた功労者であったといえる。そのことは東山御文庫「後福照院関白消息 即位秘事事」(第二節参照)にも明記されている。
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ということで、道玄・師忠兄弟が即位灌頂の実質的な創始者です。
ここで重要なのは二条家の「世俗的な事柄」であって、小川氏は、

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 ここで頗る世俗的な事柄に目を転じたい。道玄・師忠の行動は鎌倉後期の二条家の事情と無関係ではない。兄弟の父二条良実は、その父道家と不和で、遂に家記・家領を一切譲られなかった。家祖の義絶は二条家に暗い記憶となってつきまとった。
 道家は四男実経を愛して嫡子となし、一条家は豊富な文書と厖大な所領を相続した。師忠と家経の代にも両家の確執は続いていた。
【中略】
 ここまで記せば明らかであろう。伏見院の代に実修された即位灌頂とは、大嘗会神膳供進の儀のかわりに、摂関と天皇の関係を証明しようとする、新しい試みであった。師忠がわざわざ「此の事他家存知せざる由」を奏上していることで察知されるように、他家、就中大嘗会の神膳故実を独占する一条家経に対抗し、自らの地位を保つために、道玄と共謀して持ち出した疑いが非常に強いのである。二条家以外の摂関家が即位法に関心を持つ必要は少しもなかった。即位灌頂の実修には、五摂家対抗の情勢における二条家の思惑が強く作用していたことは、強調しておく必要があろう。
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という具合に(p152以下)、即位灌頂の背景事情を師忠が「道玄と共謀して持ち出した疑いが非常に強い」とまで赤裸々に暴露されています。
まあ、ここまで来ると、吉田兼倶の系図偽造とたいして違いのない行為のようにも思えてきます。
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