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『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その6)

2017-12-22 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月22日(金)13時27分11秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p226以下)

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 その後も、折々は聞え動かし給へど、さしはへてあるべき御ことならねば、いと間遠にのみなん。「負くるならひ」まではあらずやおはしましけん。
 あさましとのみ尽きせず思しわたるに、西園寺の大納言、忍びて参り給ひけるを、人がらもきはめてまめしく、いとねんごろに思ひ聞こえ給へれば、御母代の人なども、いかがはせんにて、やうやう頼みかはし給ふに、ある夕つ方、「内よりまかでんついでに、又かならず参り来ん」と頼め聞こえ給へりければ、その心して、誰も待ち給ふ程に、二条の師忠の大臣、いと忍びてありき給ふ道に、彼の大納言、御前などあまたして、いときらきらしげにて行きあひ給ひければ、むつかしと思して、この斎宮の御門あきたりけるに、女宮の御もとなれば、ことごとしかるべき事もなしと思して、しばしかの大将の車やり過してんに出でんよ、と思して、門の下にやり寄せて、大臣、烏帽子直衣のなよよかなるにており給ひぬ。
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井上訳は、

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 その後も、時々はお手紙をさし上げて、女宮のお気持を動かしなさったが、わざわざお会いするほどのことでもないので、たいそう御疎遠にばかりなっていったのであった。「激しい恋心には忍ぶ心も負けになるのが習いだ」というほどの御執心ではなかったのだろう。
 それを情けないこととばかり女宮はずっと思っておられると、西園寺大納言実兼が忍んで通って来られたが、人柄もこのうえなく誠実で、たいそう心をこめて思い申されるので、母代りとなっている方も、仕方があるまいということで、しだいに深く頼りにして行かれると、ある夕方、「宮中から退出するついでに、きっとうかがいましょう」と約束し、あてにさせなさったので、女宮のほうでもそのつもりでだれもがお待ちしているうち、大臣二条師忠公がたいへんお忍びでお歩きになる途中、あの実兼大納言が御前駆などを多くととのえて、まことに花やかな様子で出会われたので、めんどうだと思われて、ちょうどこの斎宮(女宮)の御門があいていたので、女宮のお住まいだから(ちょっと門内に入っても)たいしたことはあるまいと思われて、しばらく待って、あの大将(実兼)の車をやり過ごして出ようと思われて、わが車を門の下に引き寄せて、師忠公は烏帽子直衣の(着慣れた)柔かい服装でお降りになった。
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ということで、後深草院があっさり離れてしまった後、前斎宮には西園寺実兼という新しい愛人が出来て、それなりにうまく行っていたところに二条師忠が登場します。
この話も『とはずがたり』には全く存在せず、『増鏡』が独自に創作した部分です。
西園寺実兼は『とはずがたり』の「雪の曙」に比定されている人物で、二条師忠は建長六年(1254)生まれなので、年齢は西園寺実兼が五歳上ですね。

西園寺実兼(1249-1322)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%85%BC
二条師忠(1254-1341)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%B8%AB%E5%BF%A0

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