学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その3)

2020-11-08 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 8日(日)13時01分32秒

西源院本『太平記』と『梅松論』を比較してみると、以下のような違いがあります。
まず、『太平記』では「三月七日、鎌倉を立つて、大手の大将名越尾張守高家に三日先立つて、四月十六日には、京都にこそ着き給ひにけれ」という具合いに尊氏の移動の日付が明記されていますが、『梅松論』では出発日は明記されず、入京も「四月下旬」と曖昧です。
そして、尊氏が後醍醐側と連絡を取ろうとしたのは、『太平記』では、

-------
京着の翌日より、伯耆船上へひそかに使ひを進せられて、御方に参ずるべき由を申されたりければ、君、ことに叡感あつて、諸国の官軍を相催し、朝敵を追罰すべき由、綸旨をぞ成し下されける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1288bebe2cfd662d9be837f75a8a5bb1

ということで、「京着の翌日」即ち四月十七日ですが、これでは船上山との使者の往復に要した時間が最大で十日間となってしまい、不可能ではないにしても、あまりに余裕がありません。
この点、『梅松論』では、

-------
細川阿波守和氏。上杉伊豆守重能。兼日潜に綸旨を賜て。今御上洛の時。近江国鏡駅にをいて披露申され。既に勅命を蒙らしめ給ふ上は。時節相応天命の授所なり。早々思召立つべきよし再三諫申されける間、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7

とあり、何時から連絡を取ろうとしたのかははっきりしませんが、細川和氏・上杉重能が後醍醐の綸旨を尊氏に見せたのが近江の鏡宿ですから、『太平記』よりは相当前ということになりますね。
まあ、この点は『梅松論』の方が具体的で、その内容も自然ですね。
さて、『太平記』と『梅松論』の最大の違いは大手の大将・名越高家の討死についての記述ですが、『梅松論』は「久我縄手にをいて手合の合戦に大将名越尾張守高家討るる間。当手の軍勢戦に及ずして悉く都に帰る」と極めてあっさりしているのに対し、『太平記』では「赤松が一族、佐用左衛門三郎範家」の活躍が詳細に描かれます。
更に、『太平記』では名越高家が討たれた四月二十七日、尊氏は「桂川の西の端」でのんびり酒盛をしており、「数刻」を経て、名越高家討死の情報を得た後、「さらば、いざや山を越えん」と出発して大江山を越え、丹波篠村に向かったとしていますが、『梅松論』では同日に京を出発したことと篠村に到着したことを記すのみです。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/415a9f71066ce2245de4749fd995e5ae
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e87381cb1d9254070905e3a1d3e5fe82

また、『太平記』では篠村に移動した尊氏は五月七日の六波羅攻撃までずっと篠村に滞在していますが、『梅松論』では、「篠村の御陣を嵯峨へうつされ。近日洛中へ攻寄らるべきよし其聞へあり」とのことで、日付は明記されていないものの、本陣を嵯峨に移していますね。
こうして両者を比較してみると、最も不自然なのは『太平記』に記された四月二十七日の尊氏の行動です。
出発の当日に朝から酒盛りを「数刻」続け、まるで名越高家の討死を予知していたかのようにその死を知っても何ら動ずることなく、そして大手の救援に向かうどころか丹波・篠村に行ってしまうなどということは史実としては考えられず、ここは明らかに『太平記』作者の創作ですね。
尊氏の軍勢催促状は四月二十七日から発せられているので、これも酒盛りや篠村への行軍中に書かれたはずがなく、こうした客観的史料も尊氏が当日、大手の動向とは無関係に迅速に篠村に移動したことを示していると思われます。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3d211b9ad0dff14e28d8486f5c62866

尊氏の反逆の意志が京を出発する前に固まっていたことは爾後の行動から客観的に明らかですが、『太平記』のように佐用範家の大活躍の後に記すと、まるで尊氏が日和見を決め込んでいて、名越高家討死により事態が急速に流動化したことを確認した後、やっと後醍醐方に転じたような印象を与えることは確かですね。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『梅松論』に描かれた尊氏の... | トップ | 今川了俊にとって望ましかっ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『太平記』と『難太平記』」カテゴリの最新記事