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「不婚内親王皇后は、もともと院と天皇の二元王権を補完する性格を有し」(by 三好千春氏)

2019-05-04 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 5月 4日(土)10時08分15秒

続きです。(p51以下)

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 しかし、伏見が徐々に西園寺氏離れを始めていく(31)のと時を同じくして、『伏見天皇宸記』における角御所への訪問回数も影をひそめていく。
 伏見の皇子・胤仁が立太子し、鎌倉将軍に後深草皇子・久明親王が就任、後深草院自らが持明院統政権の安定を見届けて「更無所愁、於事只有所悦」と述べて出家、正応三年(一二九〇)、伏見親政が開始される。更に浅原為頼乱入事件により大覚寺統が壊滅的なダメージを蒙った(33)その翌年の正応四年(一二九一)、姈子は遊義門院号宣下を受けて皇后位を引退し、内裏を出て再び父母と同居するようになる。後深草院の停止、伏見政権の安定の結果、不婚内親王皇后としての使命を終えたからであろう。そう考えるとき、後宇多朝における姈子立后は、持明院統から大覚寺統に対する王権への楔という性格がより明確に理解できるのではなかろうか。
 不婚内親王皇后は、もともと院と天皇の二元王権を補完する性格を有し、その本来の性格を踏まえて姈子の場合、「二つの天皇家」のバランスとなることを期待されて立后した。そして、持明院統に天皇位と治天の君の二つの王権が揃った時、「異例の皇后」から従来の性格に変化を遂げているのである。これが彼女の立后例における最大の特徴であり、これこそが両統迭立というこの時期の天皇家の複雑性を反映したものといえる。
 更に姈子は、再び両統迭立期の複雑性を反映する存在になる。それは、女院となった後に婚姻するという史上稀な形であった。

(31) 注(30)、今谷明『京極為兼』(ミネルヴァ書房、二〇〇三年)
(32)『後深草天皇宸記』正応三年二月十一日条。
(31)『増鏡』さしぐしによると、西園寺公衡が事件の黒幕は亀山院であるとして、後深草院に対し流罪をも含めた厳罰を厳しく要求している。
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引用部分の少し前に「後深草院政という二元王権」という表現があり、ここで「院と天皇の二元王権」「天皇位と治天の君の二つの王権」とあるので、三好氏が院政を「二元王権」と捉えていることが分りましたが、これはかなり特殊な理解ですね。
院政の下における天皇は、その地位すら「治天の君」である上皇の判断に左右されており、例えば後深草天皇は後嵯峨院の判断で亀山天皇に譲位させられています。

http://web.archive.org/web/20150918073221/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu6-gofukakusatenno-joui.htm

ごく普通の理解では、院政は「一元王権」であり、院政下での天皇は臣下の如く「治天の君」である上皇に仕える存在ですね。
それが歴史学の世界での当たり前の認識なので、誰も「一元王権」などという表現は用いませんが、もしも三好氏がそうした常識的理解に挑戦したいのならば、遊義門院について論ずる前に「院政=二元王権論」の大論文を書く必要がありそうです。
なお、『増鏡』に描かれた「西園寺公衡が事件の黒幕は亀山院であるとして、後深草院に対し流罪をも含めた厳罰を厳しく要求している」場面の原文を見ると、

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 この事、次第に六波羅にて尋ね沙汰する程に、三条宰相中将実盛も召しとられぬ。三条の家に伝はりて鯰尾とかやいふ刀のありけるを、この中将、日頃持たれたりけるにて、かの浅原自害したるなどいふ事どもいで来て、中の院もしろしめしたるなどいふ聞えありて、心うくいみじきやうにいひあつかふ、いとあさまし。
 中宮の御せうと権大夫公衡、一の院の御まへにて、「この事はなほ禅林寺殿の御心あはせたるなるべし。後嵯峨院の御処分を引きたがへ、東かく当代をも据ゑ奉り、世をしろしめさする事を、心よからず思すによりて、世をかたぶけ給はんの御本意なり。さてなだらかにもおはしまさば、まさる事や出でまうでこん。院をまづ六波羅にうつし奉らるべきにこそ」など、かの承久の例も引き出でつべく申し給へば、いといとほしうあさましと思して、「いかでか、さまではあらん。実ならぬ事をも人はよくいひなす物なり。故院のなき御影にも、思さん事こそいみじけれ」と涙ぐみてのたまふを、心弱くおはしますかなと見奉り給ひて、なほ内よりの仰せなど、きびしき事ども聞ゆれば、中院も新院も思し驚く。いとあわたたしきやうになりぬれば、いかがはせんにて、しろしめさぬよし誓ひたる 御消息など東へ遣されて後ぞ、ことしづまりにけり。

http://web.archive.org/web/20150918041631/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-asaharajiken.htm

といった具合です。
西園寺公衡は正応三年(1290)の浅原事件の時点では亀山院を厳しく糾弾していますが、後に妙に亀山院と仲が良くなり、亀山院の最晩年の子、恒明親王の保護者となって後宇多院と対立して勅勘を受けることになります。
人間関係の変遷は世の常ですが、ここまでの極端な変化はなかなか珍しいですね。
なお、西園寺公衡が後深草院を支持しているように見えるこの文章の中にも、「後嵯峨院の御処分を引きたがへ、東かく当代をも据ゑ奉り、世をしろしめさする事」は、後嵯峨院の意思は明確に亀山親政・院政にあったのだ、という見解であり、ここは後深草院にとってはとても受け容れることのできない暴論です。
この場面も決して事実の記録ではなく、『増鏡』作者の解釈ないし意図的な誘導に基づくものですね。
なお、『増鏡』作者は浅原事件を受けて亀山院が出家したというストーリー展開にしていますが、これも史実と反します。
こちらは明らかに物語を面白くするための意図的な改変ですね。
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