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「北山准后九十賀」と姈子内親王立后の連続性

2019-05-05 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 5月 5日(日)14時03分4秒

弘安八年(1285)八月、姈子内親王が後宇多天皇の皇后に冊立されたことについて、三好氏は持明院統が大覚寺統に打ち込んだ「楔」であり、伏見践祚の「前哨戦」とされる訳ですが、私は賛成できません。
「尊称皇后」とはいえ立后は結婚ですから、対立よりも宥和を目指したものと考えるのが自然です。
旧サイトでは、私は『増鏡』の「北山准后九十賀」の場面に、

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姫宮、紅の匂ひ十・紅梅の御小袿・もえ黄の御ひとへ・赤色の御唐衣・すずしの御袴奉れる、常よりもことにうつくしうぞ見え給ふ。おはしますらんとおもほす間のとほりに、内の上、常に御目じりただならず、御心づかひして御目とどめ給ふ。
http://web.archive.org/web/20150918073835/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kitayamajugo90noga-1.htm

という意味深長な描写があることから、今となっては我ながら少し妄想っぽい方向に想像を膨らませていました。

http://web.archive.org/web/20150821011144/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yugimonin-to-sonoshuhen.htm

今回改めて「北山准后九十賀」について検討してみた結果、私は時期的に近接している「北山准后九十賀」と姈子内親王の立后は後深草院と亀山院の宥和の試みとして共通しており、諸記録から「北山准后九十賀」を主導したのが大宮院であることが明確になっているので、立后も大宮院が主導したのではないかと考えてみました。
当時の治天の君である亀山院は剛毅な性格で、鎌倉幕府には遠慮していますが、宮廷社会の中では強力な指導力を発揮していた存在です。
治天の君である以上、兄の後深草院から何かを要求されたとしても平気で拒否できる立場であり、また拒否を躊躇うような性格でもありません。
しかし、そんな亀山院にとっても唯一頭の上がらない存在と想像されるのが母親の大宮院で、後嵯峨院崩御後、亀山院が治天の君となれたのは後嵯峨院の「素意」について問い合わせて来た鎌倉幕府に、それは亀山だと答えてくれた大宮院の応援があったからです。

「巻八 あすか川」(その16)─後嵯峨院の遺詔
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9987f4c5e8c030e45a36f6e5321ba012

従って、大宮院が姈子内親王の立后を企画したと仮定すると、後深草院はもちろん歓迎、亀山院も反対はしづらいということで、極めて異例であることには間違いない出来事が実現された経緯をそれなりに説明できるように思われます。
なにぶん史料の少ない時期なので、以上の仮説を直接に裏づける根拠を示すのは困難ですが、状況証拠的なものが何か出てこないかなと思って探しているところです。

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