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「東宮・煕仁とともに時期政権の代表として現政権に打ち込まれたいわば楔であり」(by 三好千春氏)

2019-05-01 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 5月 1日(水)09時43分38秒

続きです。(p50)

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 姈子は立后の八日後、初行啓しているが、その様が「其体如 行幸」(19)と称されていることは、実に暗示的である。持明院統及び持明院統の政権復帰を最も待ち望む西園寺氏にとって、行啓の華やかさはその威信をかけたものであり、本命である次期政権(天皇位)への強固な意思を示す鮮烈なアピールの場であったに違いない。後深草の唯一の正后腹という血統の正しさを持ち、西園寺氏唯一の外孫でもある姈子内親王は、その主役として最も相応しい存在であった。
 従前の不婚内親王皇后が、院政という政治体制下において、王権を補完する役割を負っていたのに対し(20)、姈子は時の政権を構成する天皇と治天の君とは実質的にほぼ没交渉であり続けた。治天の君と天皇の二元王権の橋渡しや補完ではなく、東宮・煕仁とともに時期政権の代表として現政権に打ち込まれたいわば楔であり、彼女に期待されたのは、むしろ二つの天皇家のバランスになることであったといえよう。ゆえに彼女は天皇でも治天の君でもない父・後深草と同居を続け、従来の原則にあてはまらない不婚内親王皇后となったのである。まさしく、両統迭立という時代を反映した不婚内親王立后だと言えるだろう。
 そしてまた、このような使われ方をした皇后位というものが、鎌倉期において王権を象徴するものとして充分に価値のある地位であり、「后位尤尊」と称されるにふさわしい社会的評価の高さが指摘できるだろう。

(19)『実躬卿記』弘安八年八月二十七日条。なお、短いこの記事中に「其体如 行幸」という言葉は二度も出てくる。
(20)栗山圭子「准母立后制にみる中世前期の王家」(『日本史研究』四六五号、二〇〇一年)。
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『実躬卿記』は後で確認するつもりですが、『続史愚抄』によると、弘安八年八月十九日に「本院皇女姈子内親王<十六歳。母東二条院。>冊為皇后宮。<于時非今上妃>節会。有宮司除目。於本宮。<本院御所富小路殿中歟。>有御遊。拍子徳大寺大納言。<公孝。>此日。春日第四殿鳴。<〇一代要記、女院伝、続女院伝、御遊抄、歴代最要、宣順卿記追、公卿補任>」とあり、ついで二十七日に「皇后宮行啓本院御所。<初度>為賞有叙人。<園太歴追(貞和二)>」とあります。
姈子内親王は「本院」即ち後深草院と同居している訳ですから、「皇后宮行啓本院御所」といっても自分の住んでいる御所の特定の門から出て、ぐるりと回って別の門から入って来る程度の地味な移動であって、「本命である次期政権(天皇位)への強固な意思を示す鮮烈なアピールの場」であったかについては私は懐疑的です。
また、三好氏は姈子内親王が「東宮・煕仁とともに時期政権の代表として現政権に打ち込まれたいわば楔」と言われるのですが、東宮は鎌倉幕府の斡旋があったので断れなかったとしても、姈子内親王の立后に鎌倉幕府が干渉したという話も聞きません。
もし姈子内親王の立后が「楔」であるならば、そんな楔を打ち込まれるのは治天の君である亀山院には迷惑であって、最初から断ればよいだけの話となります。
ま、このあたりは史料的根拠に基づかない三好氏の妄想じゃないですかね。
また、「后位尤尊」は後深草院一周忌にあたり遊義門院が捧げた願文の中の表現ですから、古典に詳しい学者が飾り立てた美辞麗句の一節であり、あまり深い意味を読み込むべきではないと思います。
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