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「光武帝が微賤の時、南陽の美女である陰麗華を娶らんことを期し……」(by 三好千春氏)

2019-05-06 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 5月 6日(月)22時34分46秒

続きです。(p55以下)

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 更に推測するならば、姈子願文の一節、「早出椒芳之宮、久臨芝英之砌」、「聊雖隔 禅居従容之礼、于晨于昏、莫不通音問矣」、「准陰麗之跡」(15)等の文言は、思いがけなく後深草院の膝元を出て後宇多後宮に入侍した、との意味合いが解せられる。姈子の半生の重大事を綴るこの願文の性格上、そして何より後二条「 國母之徽號」の前提は、後宇多院との婚姻であろうことから、そのことについて物語る必要があったのだろう。
 この婚姻について、両統あるいは西園寺氏の暗黙の了解があった可能性も捨て切れないが、間違いなく言えることは、翌永仁三年(一二九五)正月からは、史料上に登場する姈子の姿は、後深草・東二条院の「娘」としてではなく、後宇多と同居している「妻」の姿、その正妻格としての行動が見て取れるという事実である(16)。
 ではなぜ後宇多は、略奪という強引な手段をもってしてでもこの婚姻を実行したのか。この婚姻が行われた永仁二年の状況を鑑みるに、伏見親政下、胤仁立太子、浅原為頼乱入事件の嫌疑、大宮院の死去─といった、大覚寺統側には相当に不利な状況が蓄積されたことが挙げられる。姈子立后当時の大覚寺統政権下における持明院統の逼塞とは、対照的な状況である。そういった大覚寺統側の危機感の中で、持明院統第一の皇女であり、西園寺氏掌中の珠である彼女を大覚寺統内に迎え入れ、婚姻というより直接的な手段としての融和策に出たのではないだろうか。例えば後宇多と姈子の間に皇子が誕生すれば、両統が最も妥協しやすい皇統の一本化につながるのではなかろうか(17)(ただし、この強引な婚姻について、両統の和解成立とみなせるまでには、後述するように四年かかっている)。
 菊地大樹氏は、亀山・後宇多が宗尊親王統との糾合を諮る動きがあったことを指摘しているが(18)、宗尊親王統よりも強大なライバルが持明院統であることに疑いは無く、姈子との婚姻は、最も手っ取り早く有効な手段として期待されていたと思われるのである。

(15)「陰麗」とは、後漢・光武帝の皇后・陰麗華を指すものと思われる。光武帝が微賤の時、南陽の美女である陰麗華を娶らんことを期し、天下を得て後、ついに積年の望みを果たした故事を指す。
(16)『実躬卿記』同月五日条。
(17)姈子の婚姻は、内親王が正后妃として扱われた婚姻としては実に高松院姝子内親王(二条天皇中宮)以来のことであるが、姈子以後、南北朝期に至るまでの短期間に、崇明門院禖子内親王(後宇多女、邦良親王妃)、宣政門院懽子内親王(後醍醐皇女、光厳妃)、新室町院珣子内親王(後伏見皇女、後醍醐中宮)等、内親王の婚姻が相次ぐ。
(18)注(1)に同じ。
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三好氏は前回投稿で引用した部分で、「はたして実際のところ、このようにいかにも物語的な事件が本当に起こったのだろうか」と疑問を呈しておられ、ここでまた「両統あるいは西園寺氏の暗黙の了解があった可能性も捨て切れない」などと言われているのもかかわらず、結論的には、「ではなぜ後宇多は、略奪という強引な手段をもってしてでもこの婚姻を実行したのか」という具合に、ずいぶんあっさりと「略奪」が事実であることを認めてしまっています。
そして、「略奪」を前提に「西園寺氏掌中の珠である彼女を大覚寺統内に迎え入れ、婚姻というより直接的な手段としての融和策に出た」などと言われるのですが、「略奪」という暴力的行為から「融和策」が生れるなど、およそ人間の感情を無視した暴論です。
二十五歳の成人女性、しかも十六歳で「尊称皇后」、二十二歳で女院となった誇り高い女性を文字通り「略奪」するようなことが本当にあったはずがなく、遊義門院が後宇多院の御所に移動したのは遊義門院自身の同意があったからと考えるべきです。
森茂暁氏は『とはずがたり』を全面的に信頼するなど、些か朴念仁すぎる学者莫迦タイプなので、まあ、仕方ないのですが、女性研究者である伴瀬明美氏や三好千春氏が、遊義門院をまるで主体的な意思を持たない、単に後宇多院の行動を消極的に受容するだけの受け身の存在と認識している点、私には極めて奇異に感じられます。
さて、私には漢籍の教養が全くないので遊義門院の願文を正確に理解できないのですが、「陰麗」についての三好氏の見解、即ち「「陰麗」とは、後漢・光武帝の皇后・陰麗華を指すものと思われる。光武帝が微賤の時、南陽の美女である陰麗華を娶らんことを期し、天下を得て後、ついに積年の望みを果たした故事を指す」が正しいのであれば、これは極めて興味深い指摘ですね。
この故事を後宇多院と遊義門院に当てはめると、「微賤」の身であった後宇多院が、「後漢・光武帝の皇后・陰麗華」のような「美女」の遊義門院を娶らんことを期し、様々な困難を乗り越えて、「ついに積年の望みを果たした」という話になります。
これが一般人ならずいぶん厚かましい自慢話ですが、文字通り「皇后」である点では陰麗華と同じ立場の遊義門院にとっては、ある意味、自然な発想ともいえそうです。

『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」(by 森茂暁)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2b59444914a0703c0d05ca3e4cb2b225
「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fa66061f66ed71ab9b43beec1ff4c7ed

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