学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

「もう一つ大きな特徴は、後宇多朝から伏見朝になってもなお皇后であり続けたこと」(by 三好千春氏)

2019-05-03 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 5月 3日(金)11時40分49秒

それでは三好千春氏の「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541号、2007)に戻って、続きです。(p50以下)

-------
第二節 皇后留任

 姈子の立后例で、もう一つ大きな特徴は、後宇多朝から伏見朝になってもなお皇后であり続けたことである。【中略】
 更に注目すべきは、山田彩起子氏(24)によって指摘されたその居住状況である。後宇多朝での姈子は、父母と同居し、後宇多(天皇)や亀山(治天の君)と隔絶していたことは前述のとおりである。しかし伏見が践祚すると、後深草と東二条院は居住していた富小路殿を新帝・伏見に譲り渡して常盤位殿へ転居するが(25)、姈子だけは留まり続け、自分の居間を伏見に譲り、同じ邸内の「角御所」に居を移して同宿するのである(26)。父母と別居してでも天皇となった異母兄・伏見と同居する点で、これは大きな変化である。
 『伏見天皇宸記』は践祚の日から書き起こされているが、以後、頻繁に伏見が角御所を訪問している記事が見える(27)。また、姈子が行啓する際には伏見が自ら細やかにその沙汰をし(28)、姈子のもとに母・東二条院(伏見にとってはこの時期国母の礼を取っている継母)が訪問すれば顔を出す(29)など、その濃密な交流状況が窺える)。
 天皇と内裏で同居する不婚内親王の意義について、母后の内裏、天皇の後見者的な意味合いを山田氏は指摘しており、姈子のこの事例についても同様と見なしている。実際、彼女はここでようやく従来の不婚内親王皇后と同じ要件を備え、後深草院政という二元王権を媒介する位置に置かれていることになるのである。
 亀山・後宇多という長期政権の後を受けて、実務官僚にも不足しがちな不安定な後深草院政初期に(30)、前代から既に皇后として権威を持つ姈子内親王は、後深草・伏見政権にとって数少ない拠り所であったに違いない。西園寺鏱子が伏見の中宮として立后しても、なお姈子は引き続き皇后に留まった。

(24)「天皇准母内親王に関する一考察─その由来と下限を巡って─」(『日本史研究』四九一号、二〇〇三年)
(25)『実躬卿記』弘安十年十月十九日条。
(26)『伏見天皇宸記』弘安十年十月二十一日条。
(27)例えば、弘安十年十月二十二日、十一月八・九・十・十三・十八・十九日等。
(28)『公衡公記』弘安十一年二月八日条、『伏見天皇宸記』同日条。
(29)『伏見天皇宸記』弘安十年十一月二十一・二十二日条、十二月十六日条、『公衡公記』弘安十一年正月十三日条等。
(30)本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、一九九五年)。
-------

三好氏は本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』を受けて「亀山・後宇多という長期政権の後を受けて、実務官僚にも不足しがちな不安定な後深草院政初期」と言われるのですが、その不安定さが何故に「実務」能力が全くない姈子内親王によって安定化されるのかについての具体的な説明はありません。
そもそも十六歳で皇后となった姈子内親王にどのような「権威」があったのかについての具体的説明もなく、このあたりは史料的根拠に基づかない空論ではないかと私は感じます。
また、姈子内親王が後宇多退位後も「皇后宮」に留まり、それが正応四年(1291)八月四日に遊義門院との女院号が定められるまで続いたことは確かですが、元々婚姻関係と切り離された「尊称皇后」ですから、それ自体は特におかしなことではないように私には思えます。
そして、三好氏は姈子が「西園寺氏唯一の外孫」などと西園寺氏との結びつきを強調されるのですが、姈子が皇后であった時期に一貫して「皇后宮大夫」であったのは徳大寺公孝であって、西園寺家との関係だけを殊更強調してよいのか、という疑問も感じます。
なお、立后時に「皇后宮権大夫」となったのは西園寺公衡ですが、西園寺鏱子が伏見天皇の中宮となると、公衡は中宮大夫に転じ、代って「皇后宮権大夫」となったのは洞院実泰です。
西園寺本家と微妙な関係にあったことが『増鏡』で繰り返し強調されている洞院家の人物が「皇后宮権大夫」であったことにも留意すべきではないかと私は考えます。

徳大寺公孝(1253-1305)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%85%AC%E5%AD%9D
西園寺公衡(1264-1315)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E8%A1%A1
洞院実泰(1269-1327)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%AE%9F%E6%B3%B0

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 尊称皇后・女院・准三宮につ... | トップ | (Her Majesty) the Empress E... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』」カテゴリの最新記事