学問空間

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南北朝クラスター向けクイズ(その2)【解答編】

2024-05-22 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
解答です。
「貞和五年(一三四九)八月、叔父直義が執事高師直との対立で失脚すると上洛、十九歳で政務の座についた。同十月に直義は幕府を出奔すると、南朝に降参するという奇策に出た」とあるので、直義が貞和五年(1349)十月に京都を脱出したとしか読めませんが、実際には、これは翌観応元年(1350)十月二十六日の出来事ですね。
亀田俊和氏『観応の擾乱』(中公新書、2017)巻末の年表を借用・抜粋して、この間の経過をごく簡単に整理しておくと、

貞和五年(1349)
 八月十四日 高師直、土御門東洞院邸を大軍で包囲。上杉重能・畠山直宗の流罪、直義の引退、
       足利義詮の上京および三条殿就任が決定される。
 九月    足利直冬、備後国鞆を出て、九州へ転進。
 十一月   義詮入京、三条殿に移る。
 十二月八日 直義出家。
 同二〇日  上杉重能・畠山直宗、配流先の越前国で殺害される。
 同二七日  尊氏、直冬の討伐を命ずる。
観応元年(1350)
 六月二一日 高師泰、直冬討伐のために京都から出陣。
 七月二八日 義詮・高師直、土岐周済を討伐するために美濃国に出陣。
 八月二〇日 義詮・高師直、京都に凱旋。
 十月二六日 直義、京都を脱出。

ということで、御所巻による直義の失脚から京都脱出までは一年二ヵ月かかっています。
この間、足利直冬が九州で着々と勢力を拡大し、直義の京都脱出という判断に大きな影響を与えた訳ですね。

観応の擾乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%93%BE%E4%B9%B1

なお、細かなことですが、「義詮の初陣は、元弘三年(一三三三)、四歳で新田義貞の鎌倉攻めで総大将に担がれたときである」とあって、義詮は元徳二年(1330)生まれなので、これは数え年で四歳ということですね。
そうあれば、「貞和五年(一三四九)八月、叔父直義が執事高師直との対立で失脚すると上洛、十九歳で政務の座についた」も数え年で統一して二十歳としてほしかったですね。

足利義詮
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%A9%AE
コメント
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