学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

順徳院について

2017-06-06 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月 6日(火)12時58分15秒

渡辺浩氏の勘違いについて纏めようと思っていたら、自分が変な勘違いを一つしていたことに気づきました。
それは順徳院の没年についてで、私は順徳院の諡号が定められた建長元年(1249)没だと思い込んで一連の投稿をしていたのですが、仁治三年(1242)ですね。
順徳院の諡号に関して、『帝室制度史』第六巻p682には、

百錬抄 十六 後深草院 建長元年七月廿日己丑、被行佐渡院追号事、<順徳院>

とあるのみですが、追号の「佐渡院」を諡号の「順徳院」に改めたのならば、p736において「追号又は諡号の一たび撰定せられし後、特殊の理由に因り之を改定せる例もなきに非ず」の具体例として崇徳院・後鳥羽院・後花園院とともに挙げるべきなのに、そうはなっていません。
ちょっと釈然としないので、少し調べてみるつもりです。
なお、仁治三年(1242)は四条天皇の急死を受けて後嵯峨が践祚した年で、また同年7月には諡号の「顕徳院」が追号の「後鳥羽院」に改められています。
私はこの改変は土御門定通が強引に行ったものと考えているのですが、その僅か二か月後、順徳が没した同年9月12日にはもちろん土御門定通は権勢を維持していますので、順徳についても諡号を贈ることは考えられず、いったん佐渡院と定め、そして土御門定通が宝治元年(1247)に死んだ後、建長元年(1249)に佐渡院を順徳院に改めた、ということで一貫した説明は可能だろうと思っています。
そのため、特に論旨を変更する必要のない勘違いではあったのですが、少し気になります。
佐渡院と定めたことを示す記録がないだけなのかもしれませんが。

順徳天皇(1197-1242)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
土御門定通(1188-1247)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%AE%9A%E9%80%9A

※百錬抄の記述については、リンク先でコマ欄に372を入れると出てきます。

『帝室制度史』第六巻(国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444676
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