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内田力「一九五〇年代の網野善彦にとっての政治と歴史」へのプチ疑問(その1)

2018-12-16 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月16日(日)11時56分20秒

ツイッターで内田力氏の「一九五〇年代の網野善彦にとっての政治と歴史 : 国際共産主義運動からの出発」(『日本研究』58巻、国際日本文化研究センター、2018)という論文の存在を知り、PDFで読んでみました。

https://nichibun.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=7061&item_no=1&page_id=41&block_id=63

文章からまだ若い人なのだろうなと思って読み進めると、伊藤律に言及する部分で私の心の中のチコちゃんがムクッと起動し、「バカ言ってんじゃねーよ!」「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叫びました。
その部分を引用すると、

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 一九五〇年代の網野の活動については、党幹部伊藤律との関係を示唆する証言も存在している。日本中世史家の今谷明は「〔網野〕先生から「自分は伊藤律の指令を下部へ伝達する役」を担っていたと承ったことがある」と書いている(30)。伊藤律という人物は、五〇年分裂のなかにあってもっともその立場が状況に翻弄された党幹部である(31)。日本共産党の当時の最高指導者徳田球一の右腕ともいえる党幹部であり、一九五一年に北京に渡航して北京機関にくわわった。しかし、徳田が病気で倒れると、野坂参三によりスパイ容疑をかけられ、一九五三年九月に伊藤律は党から除名され中国で投獄された。伊藤の除名は共産党の機関紙『アカハタ』(のちの『しんぶん赤旗』)でも報告され、監禁状態は一九八〇年までつづく。
 今谷は伊藤からの指令があった時期を「恐らく伊藤律の離日直前の頃ではあるまいか」と推測している(32)。伊藤が国内の地下指導部で中心的人物のひとりとなった時期と一致するので妥当な推測であろう(33)。
 さらに犬丸義一はつぎのような証言をのこしている(34)。

「薄紙指導」と呼ばれた、党の地下指導部からの指示書があった。カーボン紙で限られた枚数だけ複写され、封をした秘密書類である。それを網野さんから受け取って、民科歴史部会のグループ員に届けるというメッセンジャーボーイの役を私が一時期つとめていたので、それを受け取るために何度か月島の常民文化研究所を訪ねたものである。

「常民文化研究所を訪ねた」ということは一九五〇年四月以降のことである。この「薄紙」(35)が伊藤から受け取ったものかは不明であるが、網野は地下潜伏した党幹部との連絡役を務めていたことがわかる。そして、伊藤の除名が日本に伝えられた時点で、共産党内において網野の進退が窮まったことは想像に難くない。網野が左翼政治運動から離脱した一九五三年夏はちょうどこの時期であった。
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といった具合です。(p200以下)
この文章を読んだ人は、当時の網野善彦が伊藤律と直接のつながりを持つ共産党の大物と想像するでしょうが、実際にはそんなことは全くあり得ず、網野は共産党のヒエラルヒーの中で、単に犬丸義一の上流に位置する「メッセンジャーボーイ」に過ぎないと私は考えます。
従って、「伊藤の除名が日本に伝えられた時点で、共産党内において網野の進退が窮まった」などという事態もあり得なかったと思います。
そんなことは内田氏が引用する諸文献をざっと読んだだけでも自明なのですが、若い研究者にはその程度のことも分からなくなっているようなので、少し検討してみたいと思います。
なお、参照の便宜のため、上記引用部分に関連する注記も引用しておきます。

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(30)今谷明「時局下の網野先生」『網野善彦著作集』六巻「月報」二〇〇七年一一月、五頁。その後に発表された犬丸義一の文章もあわせて参照のこと。今谷の文に対して補足や訂正する意図があると思われる文がいくつか見受けられる。犬丸義一(談)「網野さんと私」『網野善彦著作集』四巻「月報一五」二〇〇九年一月、七~一〇頁。
(31)伊藤律についてはたとえばつぎの文献を参照のこと。伊藤律『伊藤律回想録─北京幽閉二七年』文藝春秋社、一九九三年。つぎの文献は伊藤律の次男による回顧録である。伊藤淳『父・伊藤律─ある家族の「戦後」』講談社、二〇一六年。なお、網野はつぎの文献で宇野脩平とともに左翼運動に入った人物として伊藤律に言及している。網野『歴史としての戦後史学』一八三頁。
(32)今谷明「時局下の網野先生」『網野善彦著作集』六巻「月報」、五頁。今谷はおなじ箇所で「五六年以降の武装共産党時代」と書いているが、「五一年以降」の誤記と思われる。
(33)井上敏夫「戦後革命運動の息吹と襞」『マイクロフィルム版『戦後日本共産党関係資料』解題・解説』不二出版、二〇〇八年、三七~三八頁。
(34)犬丸義一(談)「網野さんと私」『網野善彦著作集』四巻「月報一五」、九頁。なお、一九五〇年代の状況に関してはつぎの文献も参照のこと。犬丸義一「戦後日本マルクス主義史学史論」『長崎総合科学大学紀要』二五-一、一九八四年。
(35)薄い紙が用いられたのは、不意に警察官の職務質問にあったとしても飲み込むことができるようにするためだったという。「薄紙指導」についてはつぎの文献を参照のこと。井上敏夫「戦後革命運動の息吹と襞」三七~三九頁。
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