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「彼の巨大な合掌屋根の家はマテダテの遺物」

2016-12-05 | トッド『家族システムの起源』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年12月 5日(月)11時34分51秒

>筆綾丸さん
前提として、幕府の法制上、分家に当たって高十石地面一町より少なく分与するのは許されなかった、即ち持高二十石以上を所有しなければ分家ができなかった、という制約があったそうですが(p217)、大家族が発生した地域の大半は法制上の制約はそもそも問題にならないほど貧しく、分割したら生計が成り立たないという経済的な制約に縛られていたようですね。

>上限を規定する要因
これは児玉論文には特に出てきません。
私も近世史・農業史の基礎知識がないので児玉論文以上のことは何も言えませんが、筆綾丸さんのおっしゃる通り白川郷の実例でも「40~50人が限界」になっていますね。

>『日本美の再発見』
ブルーノ・タウトは豪壮な合掌造りの家を見て専門的な「白川村の大工」を想定したのでしょうが、児玉氏は次のように書かれています。(p219以下)

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 又ある一部には、長瀬村の大塚家は六百年、山下家は三百年を経過しているという家屋税徴収の際の鑑定を根拠に、大家族制の由来の古さを証明しようとする者もあるけれども、家の古さに対するかかる査定の如きには何等の信を置き得ない。
 それについて注意すべきことは、彼の巨大な合掌屋根の家はマテダテの遺物であるということである。マテダテに就いて雑誌「ひだびと」第六巻第八号に江馬三枝子氏が記しておられるが、簡単に言えば彼の大家屋の屋根のみの住居である。之は近代にては火災等の災難後仮に立てるのであるが、古くは永久的な住居であつた。明治時代にも保木脇に一戸、平瀬下に一戸、大牧に二三戸、永久的住居としてあつた。これはいわゆる天地根元造で、妻入で合掌型の住居で内は土座(ドザ)で仕切りなしの一間である。
 かかる建築法に於ては屋根の傾斜をなるべく急にして、内部を広くする必要がある。このマテダテを作るのは全く村人の協同作業で作られるのである。このマテダテを柱の上に載せたのが柱建(ハシラダテ)とも呼ばれ、オオヤとも言われる彼の合掌屋根の家々である。柱建には大工を要する。大工はこの地方の外からも来ている。しかもこの場合にも大工は柱建をするのみで、その上の屋根の骨組其他は村人の仕事であつた。即ち彼の合掌屋根の大家屋は柱の上にのせたマタダテである。住う所は一階で、二階以上は屋根裏を利用した蚕室であり納屋である。
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ということで、まあ、住民の多くが林業に従事する地域ですから木を扱うことにかけてはアマチュアではないとしても、合掌造りは構造的には簡単な建物であって、大半は住民の協同作業で出来てしまう訳ですね。
さて、児玉氏はここでブルーノ・タウトに言及します。

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 これに就いて、彼のブルーノ・タウトの記述を借りよう。

 二階以上の床は殆ど竹簀張りである、だから最上階からでも階下の炉火が見えるし、厩の上からは馬も見える(厩はこの大家屋の内部にある)。下の炉で燃やす焚火の煙は各階層を通り抜ける。このやうな構造はすべて、養蚕に使うためである。だから大家族を収容する目的でこの巨大な家屋が建てられたといふのは(上野氏の携へている旅行案内書にはさう書いてあるが)、作り噺であらう。家族制度についてもおそらくまた別の作り噺があるのではなからうか。

 さて江馬女史は「マタヾテを作る場合は、少しも大工を必要としないが、ハシラダテを含む本建築を作る場合には少なくも二つの条件が前提される。それはまづ専門的な技術者である大工の存在であり、次には大工を傭ふ事ができるだけの経済的余裕である。」と言われている。そして大工が尚柱建のみに従事して、屋根は村民の作業になるという方法が現存しているということは、マテダテよりハシラダテへの移行がそれ程古いものではないことを示すものである。それと同時に合掌屋根の巨大な屋根は、養蚕を目的としたということは疑問であるが、大家族制度とは関係がないものであることは明瞭である。
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児玉氏は合掌造りの建物が養蚕目的ということも否定しますが、では何のために、という問いへの回答は、少なくともこの論文にはありません。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

発生の素因 2016/12/04(日) 15:36:29
小太郎さん
ご引用の文のなかに、
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中切地方は白川の流れに沿つた街道に人家散在し、河原近くに狭小なる耕地を有するのみであり、又北方の山家地方は山間の小部落であつて、耕地が極めて少い。換言すれば、全国にて最も耕地の少い飛騨国中にて最も耕地の少い所に大家族制度が行われたのである。尚大郷中にても保木脇・野谷・大窪・馬狩等はその地理的条件が殆ど中切地方と同様であつたから、ここでも大家族制の行なわれていたことは後述する如くである。
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という記述がありますが、最も耕地の少い所に大家族制度が行われた理由を、児玉幸多はトッドと同じように、閉ざされた空間では世帯の核分裂は不可能である(上巻246頁)、と見ているのでしょうか。また、大家族制と言っても40~50人が限界かと思われますが、上限を規定する要因をどのように見ているのでしょうか。

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・・・十三世紀に源氏に滅ぼされた平家の残党は、飛騨白川の山奥に逃れた。ここに幾軒かの農家があり、もちろん現在にいたるまでには何遍か造り替えられはしたろうが、しかし昔ながらの構造を保存している。これらの家屋は、その構造が合理的であり論理的であるという転点においては、日本全国を通じてまったく独得の存在である。私はそこの一番大きな家を最上階の屋根にいたるまで仔細に点検して、ここに用いられている大工の論理が、すべての点でヨーロッパのそれと厳密に一致していることを確認した。このような構造は、まさにゴシック式と名づけることができるであろう。屋根はヨーロッパ中世のものと同じく、精確な三角結合(合掌屋根)をなし、縦の方向の風圧やまた地震に対しては、巨大な筋違材によって補強せられ、さらにまた屋根の荷重は最下階において、きわめて論理的に側柱に移されているのである。それだから白川村の大工は、今日一般の日本家屋に見られるように、壁付けや建具のはめ込みなどをする前に家屋がずれたりあるいは顚倒するのを防ぐために、一時的な筋違補強を施す必要がなかったのである。
 私は白川郷の謎について、はっきりした説明を聞くことができなかった。しかしこれは、平家が高度の日本文化、つまり美的にしてしかも同時に合理的な性格を具えた文化の最後の負担者であったという見解によってのみよく説明しうると思う。かかる文化の残した唯一の宝石は、平泉の金色堂である。金色堂も、貴重な螺鈿細工その他の装飾によってビザンチン建築との類似を示し、またその芸術的自由と壮大との故に国際的ともいうべき性格を示している。とはいえ世態の常であるように、この文化もまた野蛮で無思慮な暴力に屈服し、こうして日本は平家と共に、建築美学に対する健全にして自然的な理性的基礎を失ってしまったのである。(岩波新書『日本美の再発見』[増補改訳版]21頁~)
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飛騨白川郷の貧困に異邦人の浪漫的な解釈を重ね合わせると、ゴシック式といい、過剰な平家礼賛といい、だんだん空しくなってきますね。 
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