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近衛家平の他界

2017-12-19 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月19日(火)10時23分57秒

小川剛生氏の『二条良基研究』については、2010年3月に筆綾丸さんと若干のやりとりをしました。

『二条良基研究』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c002dfe093cdd035ca24de729c4a79b5
「なしくずし」(筆綾丸さん)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7b52c8b6c2aeb88a2bd26efa1d53ff42
「牛」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/42f7ab621d785857c49ff7b2e418780c

また、新田一郎氏と森茂暁氏の書評を紹介したこともあります。

「王権」を支えるもの
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1a606b64619d65825ee1100a5d8ecacf
「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fa66061f66ed71ab9b43beec1ff4c7ed

重複を避けるため、「終章」の論理については必要に応じて、また後で検討することとし、先に『増鏡』の創作に二条摂関家が関与したとする小川説にとって問題になりそうな若干の記事を紹介しておきます。
『増鏡』全体において摂関家の影は非常に薄いのですが、数少ない摂関家関係の記事の中には次のような奇妙な話があります。
巻十三「秋のみ山」の最後に出てくる岡本関白・近衛家平(1282-1324)の死去をめぐるエピソードです。(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、講談社学術文庫、1983、p114以下)

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 その後、幾程なく右大臣殿の御父君、前関白殿<家平>御悩み重くなり給ひて、御髪おろす。にはかなれば、殿の内の人々いみじう思ひ騒ぐ。大方、若くてぞ少し女にも睦ましくおはしまして、この右大臣殿などもいでき給ひける。中ごろよりは男をのみ御傍らに臥せ給ひて、法師の児のやうに語らひ給ひつつ、ひとわたりづつ、いと花やかに時めかし給ふ事、けしからざりき。
 左兵衛督忠朝と言ふ人も限りなく御おぼえにて、七、八年が程、いとめでたかりし。時過ぎてその後は、成定と言ふ諸大夫いみじかりき。このころはまた隠岐守頼基といふもの、童なりし程より、いたくまとはし給ひて、昨日今日までの御召人なれば、御髪おろすにも、やがて御供仕りけり。病ひ重らせ給ふ程も、夜昼御傍はなたずつかはせ給ふ。すでに限りになり給へる時、この入道も御後ろにさぶらふに、よりかかりながら、きと御覧じ返して、「あはれ、もろともにいで行く道ならば嬉しかりなん」とのたまひも果てぬに、御息とまりぬ。右大臣殿も御前にさぶらはせ給ふ。かくいみじき御気色にて果て給ひぬるを、心うしと思されけり。
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井上宗雄氏の訳も紹介すると、

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 その後、いくらもたたぬうちに、右大臣経忠公の御父君前関白家平公が、御病気が重くなられて剃髪された。急のことなので、殿の内の人々はたいへん心配し騒いだ。だいたい家平公は若いころはすこしは女性にも親しくなさって、この右大臣経忠公などもおできになった。が、中年ころからは男性をばかりおそばにお寝かしになって、法師が稚児を愛するようにねんごろに(契り)さなって、一度ずつはたいそう花やかにひきたてなさること、常軌を外れていたことであった。
 左兵衛督忠朝という人も、限りない御寵愛で、七、八年間は全盛であった。忠朝の盛りが過ぎてその後は、成定という諸大夫の寵愛が大変なものであった。このごろではまた隠岐守頼基という者が、童形(少年)であった時から、いつもそばを離れさせずかわいがられて現在に至るまでの愛人なので、御出家のおりにもすぐ(頼基は)お供申し上げ(て剃髪し)た。病気が重くなられたころ、夜も昼もおそばから離さずお使いになる。もはや臨終になられたとき、この入道頼基も御後ろに侍していると、家平公はそれによりかかりながら、きっとそちら(後ろ)を御覧になって、「ああ、おまえといっしょに行かれる(あの世への)道であったらうれしかろうのに」と仰せられて、その言葉がまだ終らぬうちに御息が絶えた。右大臣経忠公も御前に侍しておられて、このように情けない御様子で亡くなったのを、憂鬱にお思いになった。
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ということで、井上氏も「語釈」において、左兵衛督忠朝について「師実流藤原長忠男。家平と同年。いつごろが男色の盛りかわからないが、十代後半から二十代にかけてとすれば、正安~嘉元のころである」云々と述べられるなど、若干の困惑の気配も感じられます。
この男色話は、更に次のような怪談になります。

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 さてその後、彼の頼基入道も病ひつきて、あと枕も知らずまどひながら、常は人にかしこまる気色にて、衣ひきかけなどしつつ、「やがて参り侍る、参り侍る」とひとりごちつつ、程なく失せぬ。粟田の関白の隠れ給ひにし後、「夢見ず」と歎きし者の心地ぞする。故殿のさばかり思されたりしかば、めしとりたるなめりとぞ、いみじがりあへりし。
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井上訳を紹介すると、

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 さて、そののち、あの頼基入道も病気になって、前後不覚に苦しみながら、いつも人にかしこまっている様子で、衣をかけたりなどしては、「すぐ参ります、参ります」とひとりごとを言い言い、まもなく死んでしまった。昔、粟田口関白道兼公がなくなられた後、「夢にもお会いできない」と嘆いた者の気持がする。故家平公がそれほど愛しておられたので、あの世から迎えとったのだろう、と(人々は)恐ろしがったのであった。
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という具合です。

近衛家平(1282-1324)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%B9%B3
近衛経忠(1302-52)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E5%BF%A0
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