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謎の女・赤橋登子(その3)

2021-03-02 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月 2日(火)09時07分43秒

清水克行氏は「尊氏の西国出兵にさいし、得宗北条高時は周到にも、その妻子を人質として鎌倉に留め置かせ、幕府に二心〔ふたごころ〕ない旨の起請文の提出を求めている(『増鏡』)」(『足利尊氏と関東』、p35)と書かれていますが、『増鏡』巻十七「月草の花」には「東をたちし時も、後ろめたく二心あるまじきよしを、おろかならず誓言文しおきてけれども」とあるだけです。
前半の「得宗北条高時は周到にも、その妻子を人質として鎌倉に留め置かせ」云々は『太平記』第九巻第一節「足利殿上洛の事」に書かれている内容で、いくら一般書とはいえ、こんな引用の仕方はないだろうと私は思います。
さて、清水氏は「周到にも」と書かれているので、『太平記』の記述をそのまま信じているように見えますが、「足利殿上洛の事」は相当に変な話ですね。
西源院本では、その冒頭は次のようになっています。(兵藤校注『太平記(二)』、p35以下)

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 先朝船上に御座あつて、討手を差し上せられ、京都を攻めらるる由、六波羅の早馬頻りに打ち、事難儀に及ぶ由、関東に聞こえければ、相模入道、大きに驚いて、「さらば、重ねて大勢を差し上せ、半ばは京都を警固し、宗徒は船上を攻め奉るべし」と評定あつて、名越尾張守を大将として、外様の大名二十人催さる。
 その中に、足利治部大輔高氏は、所労の事あつて起居も未だ快からざりけるを、また上洛のその数に載せて催促度々に及べり。足利殿、この事によつて心中に憤り思はれけるは、われ父の喪に居して未だ三月に過ぎざれば、悲歎の涙乾かず。また病気身を侵して負薪の愁へ未だ止まざる処に、征伐の役に随へて相催す事こそ遺恨なれ。時移り事反して、貴賤位を易ふと云へども、かれは北条四郎時政が末孫なり。人臣に下つて年久し。われは源家累葉の貴族なり。王氏を出でて遠からず。この理りを知りながら、一度は君臣の儀をも存ずべきに、これまでの沙汰に及ぶ事、ひとへに身の不肖によつてなり。所詮、重ねてなほ上洛の催促を加ふる程ならば、一家を尽くして上洛し、先帝の御方に参じて六波羅を攻め落とし、家の安否を定むべきものをと、心中に思ひ立たれけるをば、知る人更になかりけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2bdfb8e70f1853746d3cf35e2a023377

『太平記』では尊氏の「われは源家累葉の貴族なり」というプライドが強調されているにも関わらず、清水氏は「尊氏自身の源氏の棟梁としてのプライドについても、言われるほどのものが尊氏の胸中にあったかどうか、疑わしい」(p33)、「室町時代以前に「足利嫡流家=源氏の棟梁」という意識がどれほど浸透していたかはわからない。また尊氏自身、長年にわたり足利家の"妾腹の二男坊"の地位にあり、家督の継承はつい最近のことだった。彼個人が、言われるほどにみずからの血統についての自負があったとは思えない」(p34)という具合いに『太平記』の記述に否定的です。
しかし、清水氏の『太平記』に対する批判的姿勢が一貫しているかというと、そうでもないですね。
そもそも高時が尊氏に起請文を要求したというエピソードは、

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  即ち夜を日に継いで打つ立たれけるに、御一族、郎等は申すに及ばず、女性〔にょしょう〕、幼稚の子息までも、残らず御上洛あるべしと聞こえければ、長崎入道円喜、怪しく思ひて、急ぎ相模入道の方に参り申しけるは、「誠にて候ふやらん、足利殿こそ、御台〔みだい〕、君達まで皆引き具し奉つて、御上洛候はんずるなれ。事の体〔てい〕怪しく覚え候ふ。かやうの時は、御一門の疎かならぬ人にだに御心を置かれ候ふべし。況んや、源家の氏族として、天下の権柄を捨て給へる事年久しければ、もし思し召し立つ事もや候ふらん。異国よりわが朝に至るまで、世の乱れたる時は、覇王、諸侯を集めて牲〔いけにえ〕を殺して血を啜〔すす〕り、二心〔ふたごころ〕なからん事を盟〔ちか〕ふ。今の世の起請〔きしょう〕これなり。或いはその子を質に出だして、野心の疑ひを散ず。木曽殿、御子清水冠者を大将殿の御方へ出ださるる例、これにて候。かやうの例を存じ候ふにも、いかさま足利殿の御子息と御台とをば、鎌倉に留め申されて、一紙の起請文を書かせまゐらせらるべしとこそ存じ候へ」と申しければ、相模入道、げにもとや思はれけん、やがて使者を以て言ひ遣はされけるは、「東国は未だ世閑〔しず〕かにして、御心安かるべきにて候ふ。幼稚の御子息をば、皆鎌倉中に留め置きまゐらせられ候ふべし。次に、両家体〔てい〕を一つにして、水魚の思ひをなされ候ふ上は、赤橋相州御縁になり候ふ上、何の不審か御座候ふべきなれども、諸人の疑ひを散じ候はんためにて候へば、恐れながら、一紙の誓言を留め置かれ候はん事、公私に付けてしかるべくこそ存じ候へ」と申されたれば、足利殿、鬱陶いよいよ深まりけれども、憤りを押さへて出だされず、「これよりやがて御返事申すべし」とて、使者をば返されけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be18e0b821a943d858475427b61f1f64

ということで、尊氏の方が上洛の軍勢に「御一族、郎等は申すに及ばず、女性、幼稚の子息までも、残らず」加えようとしたから、当然ながら「長崎入道円喜、怪しく思ひて」、「足利殿の御子息と御台とをば、鎌倉に留め申されて、一紙の起請文を書かせまゐらせらるべし」と高時に提案し、高時もこれに同意した、という展開です。
しかし、戦争をするための軍勢に女性と幼児を同行させるなどということは常識的にありえないばかりか、この時の状況では、尊氏に叛逆の意志があることを満天下に宣伝するような行為です。
ま、起請文を書くことと自体は普通の話で、『増鏡』にも言及がありますから信じてよいでしょうが、それ以外は作り話ですね。
それと、清水氏は妻子を人質に取られた以上「幕府に叛逆するということは、彼女らを見殺しにするということを意味していた」と言われますが、人質といっても別に拘禁されている訳ではなく、足利邸に普通に住んでいただけですから、適当な時期に鎌倉を脱出すればよいだけの話で、実際に登子と義詮はそうしています。
そうである以上、尊氏は別に「母の実家をとるか、妻の実家をとるか。現代人の感覚からすれば尊氏は身を切られるような重大な決断を迫られていた」などということは全くないですね。
また、妻を保護することと「妻の実家をとる」ことは全く別の話で、実際に尊氏は登子は保護したものの、「妻の実家」の人々は皆殺しにしていますね。
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